シティボーイだった我妻善逸①
ー明治後期の棄子の実態と新宿・牛込界隈の様子ー
■明治後期の棄子の実態
『親のいない俺は誰からも期待されない』
『誰も俺が何かを掴んだり何かを成し遂げる未来を夢見てはくれない』
『誰かの役に立ったり 一生に一人でいいから誰かを守り抜いて幸せにするささやかな未来ですら』
『誰も望んではくれない 一度失敗して泣いたり逃げたりすると あぁもうコイツは駄目だって離れてく』
以下は明治から大正15年までの東京及び全国における棄子数の統計です。
明治8 | 65 | 明治21 | 47 | 明治34 | 34 | 大正3 | 63 |
明治9 | 85 | 明治22 | 66 | 明治35 | 32 | 大正4 | 44 |
明治10 | 40 | 明治23 | 155 | 明治36 | 54 | 大正5 | 36 |
明治11 | 50 | 明治24 | 65 | 明治37 | 65 | 大正6 | 47 |
明治12 | 40 | 明治25 | 74 | 明治38 | 52 | 大正7 | 44 |
明治13 | 62 | 明治26 | 70 | 明治39 | 90 | 大正8 | 52 |
明治14 | 89 | 明治27 | 83 | 明治40 | 99 | 大正9 | 44 |
明治15 | 70 | 明治28 | 55 | 明治41 | 115 | 大正10 | 36 |
明治16 | 72 | 明治29 | 40 | 明治42 | 92 | 大正11 | 41 |
明治17 | 97 | 明治30 | 39 | 明治43 | 78 | 大正12 | 20 |
明治18 | 90 | 明治31 | 58 | 明治44 | 62 | 大正13 | 38 |
明治19 | 72 | 明治32 | 33 | 明治45 | 63 | 大正14 | 29 |
明治20 | 45 | 明治33 | 34 | 大正2 | 80 | 大正15 | 49 |
▲東京の棄子数(警視庁事務年表及び警視庁統計書)
明治12 | 5232 | 明治24 | 5325 | 明治36 | 2338 | 大正4 | 1812 |
明治13 | 5390 | 明治25 | 4958 | 明治37 | 2279 | 大正5 | 1783 |
明治14 | 4958 | 明治26 | 4876 | 明治38 | 2074 | 大正6 | 1608 |
明治15 | 5081 | 明治27 | 4775 | 明治39 | 2083 | 大正7 | 1472 |
明治16 | 4941 | 明治28 | 4550 | 明治40 | 1900 | 大正8 | 1392 |
明治17 | 4968 | 明治29 | 4188 | 明治41 | 1832 | 大正9 | 1128 |
明治18 | 5467 | 明治30 | 3740 | 明治42 | 1736 | 大正10 | ― |
明治19 | 5746 | 明治31 | 3257 | 明治43 | 1664 | 大正11 | 755 |
明治20 | 5783 | 明治32 | 2942 | 明治44 | 1567 | 大正12 | 666 |
明治21 | 5576 | 明治33 | 2638 | 明治45 | 1587 | 大正13 | 682 |
明治22 | 5349 | 明治34 | 2545 | 大正2 | 1616 | 大正14 | 679 |
明治23 | 5431 | 明治35 | 2437 | 大正3 | 1729 | 大正15 | 677 |
▲棄子数(日本帝国統計年鑑5‐46)
善逸は明治32年生まれとのことですが、明治32年の総人口は43404000人、うち棄子が2942人、東京での棄子は33人となっています。明治初期には5000人近かった棄子が明治32年頃には半分近くなり、大正末期にはおよそ700人と約1/5にまで減少していきました。家族の単位が、生活の困窮のために殺児や棄子を公認し、他人の子も育てる『村・町』から、子育ては全て血を分けた生みの親の責任という『血縁・親子』へと変遷していく様子が表れています。しかし、明治政府は『堕胎薬販売の禁止・堕胎取扱の禁止(1868年)』、『女子の売買・妻妾・子女を殺す風習の禁止(明治1年)』、『棄子の救済(明治3年)』、『人身売買の禁止(明治3年)』等の発令を乱発しており、依然としてそうした法令の陰では女性やこどもが生殺与奪を欲しいままにされていたことも伺えます。
参考文献:『明治大正期の親子心中の”増加”に関する考察』 和田宗樹著
『産児制限論の歴史的位置について』 田中弘子著
『明治期における児童虐待問題の構築と子どもの権利思想』 下西さや子著