土方歳三の足跡を辿るー奈良井宿・高札場・水場ー | 徒然探訪録

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▲鳥居峠から奈良井宿へ続く路



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▲趣のある街燈



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沢山の石碑や庚申塔が並んでいましたが、
これらも中山道を歩く旅人たちをずっと見送ってきたのでしょう。



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▲『楢川歴史民俗資料館』
宿場当時の民俗資料が展示されており、当時の奈良井宿の生活を垣間見ることが出来ます。



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資料館内部も許可を取れば撮影出来ましたので、
展示物をいくつか紹介致します。
こちらは『子供用花見弁当』です。
こんな可愛らしいお弁当箱からお料理が出てきたら、
子供たちはさぞ喜んだことでしょう。



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奈良井の囲炉裏とかまど

 囲炉裏のあるところは、家族の団らんと親しい人の接待の場をかねていた。
座る場所は決まっており、家長が座る場所を「ヨコザ」、
主婦が座る場所はかまど側で「タナモト」とよんだ。
 囲炉裏のまわりで食事をするときには箱膳をつかった。
箱膳のなかには、ご飯茶碗、汁物茶碗、オテショ、箸が入っており、
箱を台にして食事をする。
食べ終わると茶碗などをすすいだあとに布で拭いて、
箱膳を重ねて戸棚に入れておく。

 囲炉裏のふちを「オクラブチ」といい、つやのでる欅(けやき)で作ることが多い。
オクラブチは家長の「顔」にたとえられ、これを踏んではいけない。
自在鉤(じざいかぎ)は縁起をかついで「松竹梅」で作られたものがおおく、
鉤棒を支える「横木」は魚や扇形などがおおい。
(魚は火を鎮めるなどの意味もあるといわれる)

 お年寄りは、朝起きて囲炉裏に座って、火をおこして湯を沸かし、
若い人が起きてくる前にお茶を飲むのがひとつの楽しみであったが、
昭和20年代なかばから30年になると囲炉裏をつぶす家がおおくなった。
囲炉裏がなくなると、どこに座ってよいかわからなくなり、
居場所のなくなってしまったお年寄りもいた。

 囲炉裏とドジのあいだにはかまどがあった。
「クド」ともよんでいる。
かまどでご飯を炊いたり、鉄瓶をかけた。
囲炉裏をつかっていた時代でも、ご飯を炊くときにはかまどをつかった。
戦後しばらくまでかまどをつかっていたが、
生活改善のため昭和30年代なかばには、石油コンロをつかい始める家もみられた。
昭和40年代初期にはプロパンガスが普及しはじめ、しだいにかまどがなくなっていった。
 (資料館の説明書きより)



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農業と養蚕の歴史


山々に囲まれた楢川地区は耕地に恵まれず、規模の小さな自給農業で、
おもに「米、麦、蕎麦、栗、稗、大豆等」を栽培していたが、
自用に不足し、質も良くなかった。
そのため、専業農家はほとんどなかった。


明治時代になると、養蚕がおこなわれるようになり、
繭の販売収入を得るようになった。
繭は諏訪市の「片倉製糸」の仲買人が多く、
各家をまわり、出来具合をみて値段をつけていた。


大正時代には、農家のほとんどが蚕を飼うようになり、
集落単位で養蚕組合がつくられ、稚蚕の共同飼育がおこなわれるほど盛んになった。
蚕の豊蚕を願って、どの集落も蚕神様をまつり、
石碑を建立したりして祈願をしていた。
「オカイコ」「オカイコサマ」と敬語でよんだものである。


しかし、第二次世界大戦がはじまり、食糧不足になると、
蚕の餌である桑をこいで麦をつくるようになった。
(桑をこくのに奨励金がだされた)
農家にとって、もっとも大きな現金収入であった養蚕はこうして壊減していった。
戦後、一時復活するが、昭和二十年代後半には、ほとんどおこなわれなくなった。
(資料館の説明書きより)


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▲ハイトリック(自動蠅取り器)

名古屋の尾張時計店(現尾張精機製作所)が製作し、
大正八年に発売され、その後他社から類似品が出るほど人気の商品だったそうです。
モーター室の隣の柱状の板に酒、酢、砂糖(蜂蜜)を混ぜたものを塗布しておくと、
蠅がそのにおいでこの板に止まります。
この板はモーターで回転しており、ひっくり返って蠅を網の中に捕える仕組みです。
ゼンマイ駆動で、一回ネジ巻きすると十数時間動きます。


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楢川歴史民俗資料館の隣にある鎮神社では
八月十一・十二日の両日に氏子総出の盛大な例祭が執り行われますが、
例祭に使われる神輿や幟等です。


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▲宿札。当時の宿場でお金として通用していたものです。


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▲鎮神社。
疫病流行を鎮めるために下総香取神社から主神をまねいて祭祀をはじめたとされています。


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▲鎮神社の狛犬は子連れです。


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▲高札場。


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▲水場。


奈良井宿高札場
高札場は、江戸時代、幕府が定めた法律などを人々に周知徹底させる目的で、
掟、条目、禁制などを板に書き掲げていた場所である。
宿場町の高札場には、とくに宿継ぎの駄賃を定めた高札なども掲げられ、
また、宿場間の距離を測る基点ともなっていた。
奈良井宿の高札場は、京方の入り口にあたるこの場所におかれ、
明治のはじめごろまで使われていたが、その後街道の廃止にともない撤廃された。
この高札場は、当時の絵図にもとづいて昭和四十八年に復元されたものである。


水場
奈良井宿の町並みを特徴づけている水場は生活に欠かせない生活用水の確保や、
火災が発生した場合に連なる家々への延焼を防ぐために、
山からの豊富な沢水や湧き水を利用して設けられた。
また、中山道を歩く多くの旅人が難所鳥居峠を越えるために水場で喉を潤した。
現在奈良井には六箇所の水場が整備され、
それぞれに水場組合を作り、維持管理を行っている。

(奈良井宿の説明板より)


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▲奈良井宿の町並み