近藤勇の足跡を辿るー三鷹・近藤勇生家跡・龍源寺ー | 徒然探訪録

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先日は連休だったため、ちょっと遠出しまして、高速にのって調布・町田へと車を走らせ、野川公園の駐車場に駐車し、辺りを少し散策しました歩く
野川公園の案内板にも近藤勇について書いてありました。


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野川公園を出るとすぐ右手に近藤神社が見えてきます。



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近藤神社に並ぶようにして近藤勇 産湯の井戸近藤勇の生家跡の案内板があります。

案内板には『この地は新選組局長近藤勇の生家跡である。近藤勇は、天保五年(一八三四)宮川久次郎の三男(幼名勝五郎)としてこの地に生まれ育った。十五歳の時天然理心流近藤周助に入門、翌年理心流の目録を得て周助の養子となり近藤姓を名乗った。当時、宮川家の屋敷は面積約七千平方メートルの広さがあり、建物は母屋のほか蔵屋敷、文庫蔵、乾燥納屋、農具入納屋等があり、周囲はケヤキ、カシその他の大木や竹林が茂っていた。現在の跡地は、屋敷の東南部に位置し、昭和十八年に家がとりこわされるまで使用していた井戸を残すのみである。(調布市教育委員会)』とあります。


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近藤勇 生家跡の碑近藤勇についての説明板が並んであります。

説明板に書かれた近藤勇の概略です。

近藤生家 「宮川家」
 天保五年(一八三四)十月九日、武蔵国多摩郡上石原村辻(現在の調布市野水一丁目)の宮川家に生まれ、勝五郎と名付けられた。天保九年(一八三八)の上石原村「宗門人別五人組帳」によれば、宮川家は多摩大沢村龍源寺の旦那(檀家)で、家族構成は百姓源次郎(宮川家の当主は代々「源次郎」を名乗った)六十七歳を筆頭に、倅の久次郎四十歳(近藤勇の父)、娵のみよ三十七歳(勇の母)、孫の音次郎九歳、粂蔵七歳、勝五郎五歳の六人であった。宮川家は裕福な農民であったといわれているが、「宗門人別五人組帳」の記載をみる限りでは、石高は七石一斗二合で、上石原村では中間的な階層に属していた。
 
天然理心流入門、近藤家養子に
 龍源寺にある「神聞血判帳」(近藤周助の門人帳)によれば、宮川家の三兄弟は、嘉永元年(一八四八)十一月十一日に揃って天然理心流近藤周助の門人となっている。嘉永二年六月に周助が宮川勝五郎に与えた目録も龍源寺にある。同年十月十九日付けで周助から上石原村の源次郎(勝五郎の父)宛に養子縁組の書状が出され、勝五郎は入門後あまり時を経ずに天然理心流を継ぐため周助の養子となったことがわかる。養子になって周助の旧姓島崎を名乗り、名前も勝太と改めた。安政四年(一八五七)頃までには島崎勇となり、万延元年(一八六〇)三月に松井ツネと結婚した。その後、近藤勇を名乗り、文久元年(一八六一)八月、府中六所宮(大国魂神社)で天然理心流四代目襲名の野試合を行い、翌年には一人娘の瓊が生まれた。
 
浪士組に参加して京へ、そして新選組結成
 文久三年(一八六三)二月、近藤勇は上洛する将軍・徳川家茂警護のために編成された浪士組に道場の門人たちと共に参加したが、浪士組が江戸へ戻ることになった時、京都残留の嘆願書を提出し、京都守護職の任にあった会津藩預かりとなり、京都市中の見回りに当たることになった。以降、慶応四年(一八六八)一月、隊士と共に江戸にもどるまで、当時政局の中心となっていた京都で新選組局長として活躍した。
 
近藤勇、板橋で死す
 慶応四年三月、甲陽鎮撫隊が甲州街道を甲府へ向かう途中大久保剛と名を変えた勇は、上石原村の鎮守である上石原若宮八幡神社を遙拝して戦勝祈願、西光寺向かいの名主中村勘六家で歓待を受けたと伝えられている。甲州柏尾山で官軍に敗れ、その後、新たに隊士を募集して下総流山に陣をしいた。しかし、そこで官軍に包囲されて出頭、慶応四年四月二十五日に板橋において刑死した。勇の甥宮川勇五郎は、板橋の刑場で肩の鉄砲傷(慶応三年十二月伏見墨染付近で負傷)を目印に首のない勇の遺体を掘り起こし、上石原村の生家近くにある龍源寺へ埋葬した。勇の無言の帰還を一族の人びとは野川にかかる相曽浦橋で迎えたと伝えられている。龍源寺の近藤家墓所には、勇の一人娘瓊と結婚して近藤家を継いだ勇五郎やその息子久太郎も眠っている。また、近くには勇のいとこで新選組隊士だった宮川信吉(勇の父久次郎の妹の子)の墓もある。


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あたりはこのような感じです。




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近藤道場撥雲館はこちらと通りを挟んで斜向かいにあります。


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近藤道場 撥雲館



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天然理心流道場「撥雲館」

 豪農であり、かつ篤農家でもあった近藤勇の父 宮川久次郎は、広い自分の屋敷内に寺小屋を開くとともに、幕末時盛んであった武術の一派「天然理心流」の道場を持って、勇とその兄をはじめ近在の子弟を集めて学問や武術を指導していた。
 天然理心流は、近藤長裕を初代とする流派で、江戸に道場を持つかたわら多摩地方に広く出稽古を行い、門弟の指導にあたっていた。小技よりも気迫を重んじ、いかなる相手にも動じない極意必勝の実践を大事にする武道であった。三代目近藤周助は、月に二・三回招かれて久次郎の道場に通っていたが、勇の度胸と技量を見込み、嘉永二年(一八四九)近藤家の養子として迎えいれた。時に勇十六歳、後二十八歳で四代目を襲名した。
 この道場は、明治九年(一八七六)に近藤家の養子となり、勇の一人娘 瓊と結婚して天然理心流五代目を継いだ近藤勇五郎(勇の長男音次郎の次男)の道場で、勇五郎は多摩一円の門人三千人を指導したともいわれている。
 勇五郎は明治九年に父から分け与えられた屋敷内の納屋を道場とした。この道場が「撥雲館」である。その名の由来は、ある時ここを訪れた山岡鉄舟(元幕臣。近藤たちが浪士組に参加して上洛した時の浪士取締役)が命名し、看板を揮毫したと伝えられている。「撥」という字は「とりのぞく」という意味を持っているが、「撥雲」という館名は暗雲を取り除くという意味で、当時の世相からみてうなづけるものがある。撥雲館は、その後手狭になったため、門下生の協力で昭和七年(一九三二)北側空地に改築し、盛大な道場開きが行われた。しかし、勇五郎は翌年八十三才で亡くなった。その後も道場は門人たちの手で維持され、昭和五十年代まで稽古が続けられていた。
 太平洋戦争が始まり、調布飛行場の建設に伴う勇五郎宅取壊しの際にも、門人たちの熱意によって、道場は勇五郎の娘の嫁ぎ先である東隣の峯岸家の土地に移築された。さらに戦後になって、人見街道の拡幅のため再移転する時、再び近藤家の敷地内の現在地に移築され、今日にいたっている。(調布市・調布市教育委員会)

                   
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龍源寺に向かう道すがら『蕎麦・懐石 御狩野』というお店があるので、そちらでお昼をいただこうと思っていたのですが、あいにく休店日でした。


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この後、布田道を歩く予定でしたので、スタート地の『いずみ浄苑』へと続く『鶴川街道』沿いにある『かごや』でお昼ごはんにしました。


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安くてお腹一杯になるお店なので、布田道を歩く時にはまたお世話になるかもしれません。店内は座敷席が3つ、テーブル席も8席くらいはあり、見た目より広い店内です。


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今回注文しましたのは、みそラーメン¥600。メニューも豊富で、メインの蕎麦・うどんから丼物、今回注文したような中華、焼き魚などの和定食もあり、見たところメインのお蕎麦などはかなりの大盛りなので、男性客が多いようでした。このみそラーメンもスープがこぼれそうな程でしょう笑2?


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そんなお昼ごはん事情はともかくとして、龍源寺へ向かいました。龍源寺の門前には近藤勇の胸像天然理心流の石碑があります。


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史蹟 近藤勇墓所と書かれた石碑



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近藤勇と天然理心流


 この地に生まれた近藤勇は、鹿島神道流を修行した近藤内蔵助長裕が創始した『天然理心流』の四代目を継いだ剣豪です。その真髄は「誠の剣」であり、「力の剣」であると言われています。
 古武道は日本人の心のふるさとであり貴重な歴史的文化遺産であります。『天然理心流』の木刀五本の形と柄砕三組の演武のフィルムが日本武道館の古武道協会に永久保存されています。
 三鷹市剣道連盟では、近藤勇先生慰霊剣道大会を毎年開催しています。

                          昭和六十三年三月吉日
                            三鷹市剣道連盟 会長 石川金次
              

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近藤勇 胸像


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龍源寺


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近藤勇の墓は本堂の左手を抜けてすぐにあります。




▲次回予告 布田道

次回の記事に使用する画像は、こちらに使用したのものの流用になりますが、布田道を歩かれる際のご参考になりましたなら嬉しいです。