▲『布施弁天』入口
『弁天茶屋』の『弁天ラーメン』がかなり気になりましたが、今回はすでにお蕎麦をいだだき、お腹一杯のため、残念ながら次回に持ち越しです

▲布施弁天 楼門『最勝閣』
文化7年(1810)の建立だとのことですから、慶応4年(1868)4月13日に布施に宿営したと言われている土方属する旧幕府軍の面々も目にしていたことでしょう。
『四天王』を安置し、『竜宮城』の門をイメージした造りとなっていて、竜、麒麟、亀、松、鶴等の縁起物が彫り込まれています。
享保2年(1717)建立。本堂も土方ら旧幕府脱走軍が宿営する前からあったものなので、彼らも目にしたのではないかと思います。
『四天王』を安置し、『竜宮城』の門をイメージした造りとなっていて、竜、麒麟、亀、松、鶴等の縁起物が彫り込まれています。
▲布施弁天 本堂
享保2年(1717)建立。本堂も土方ら旧幕府脱走軍が宿営する前からあったものなので、彼らも目にしたのではないかと思います。
本堂内部。鮮やかな赤基調の彩色が特徴です。
▲本堂から見えた庭園
▲三重塔
▲中央に見えるのが茶屋『花華』、右手に見えるのが鐘楼。鐘楼は文化15年(1818)の建立ですので、土方らも目にしていたのではないでしょうか。下から八角形の基檀、円形の縁、十二角形に配置された柱と非常に独創的な形をしています。設計にあたったのは、矢田部の名主 飯塚伊賀七。『からくり伊賀』と呼ばれ、当時としては奇抜な木製和時計や五角堂等を発明しました。
▲本堂の裏手から見えた景色
▲『布施弁天』は高台にあり、このような田園風景が眼下には広がっています。『七里ヶ渡』は中央に見える新大利根橋の下にありました。
▲『七里ヶ渡跡』と書かれた案内板
右の森の中にあるのが『布施弁天』です。外からは見えづらく、本堂の裏手に廻ると『七里ヶ渡』の方までぐるっと眼下を見渡せるようになっています。
『七里ヶ渡跡』へ向かう途中に庚申塔等の石碑が沢山祀られている場所がありました。1750年代のものから天保5年(1834)に建てられたものも混在し、これらの石碑も土方らの行軍を見送ったことでしょう。
この道の先に『七里ヶ渡跡』があります。
『七里ヶ渡跡』
七里ヶ渡は、布施と戸頭(取手市)との間に設けられていました。
江戸幕府は元和二年(一六一六)八月、この地を関所の役割を兼ねた定船場としました。当時の渡船地点は明治十三年作成の迅速測図、昭和三十一年頃の写真や当時の利用者の話等からこのあたりであったと推測されます。
幕府が江戸の防衛の意味から、利根川に橋をかけなかったこともあり、下総と常陸を結ぶ要衝としてこの七里ヶ渡は栄え、布施村には五軒の旅篭があって宿場町的な繁栄も見られました。また水戸街道の脇往還としての役割も果たしていたことから往来が多かったようです。
七里ヶ渡には布施河岸が併設されていました。当時、東北地方・利根川下流・霞ヶ浦沿岸の荷物は利根川をさかのぼり、関宿を迂回して江戸に向かうのが常でした。それが上流に洲ができて船の往来が困難になったため、布施河岸で荷を降ろし、陸路で江戸川の加村河岸(流山市)へ運ぶようおになりました。
明治二十三年に利根運河が開通すると、利根川をさかのぼってきた船は利根運河を通じて江戸川へ出るようになり、布施河岸の役目は終わりましたが、七里ヶ渡は昭和三十年頃まで続けられました。
利根川上流河川事務所
『七里ヶ渡跡』が見えてきました。
2本のすずかけの木が目印です。
『七里ヶ渡跡』は、流山から豊四季、花野井を経て、布施弁天、戸頭、小張、谷田部、土浦へと水戸街道に合流する街道で、『うなぎ道』とも言われ、利根川岸辺の沼地で獲れた鰻を江戸まで運ぶ近道として使われました。流山にも水切場があり、加村河岸から江戸川経由で江戸へとこれらの鰻が運ばれていたそうです。加村河岸は近藤が移送される時に使われた『矢河原の渡し』と併設されていました。
木元に水神宮と彫られた小さな石碑があり、このあたりが布施と戸頭を結んだ『七里ヶ渡跡』があったところになります。この渡しで享保4年(1719)3月25日に33人を乗せた渡船が強風に煽られ、川の真ん中で沈没し、20人が亡くなるという事故が起こりましたが、木元にある水神宮と石塔の祠は遺族や村人がこの事故の犠牲者の供養のために建立したということです。これらの石碑も当時この地から土方らの渡船を見送ったことでしょう。
『新大利根橋』を渡り、戸頭へと向かいます。
『新大利根橋』を渡り切ったところの風景です。
▲『戸頭神社』
この神社も古くからあるもので、観応3年(1352)に足利尊氏が天下泰平武運長久を祈願したという記録が残っているそうです。この戸頭も『七里ヶ渡』が繁栄した頃はその恩恵を受けた地でした。
▲『戸頭神社』近くの『永蔵寺』の大木。こちらも当時からあったのではないかと思います。
江戸城無血開城の後、徳川慶喜は謹慎先の水戸へと向かい、これに不満を募らせた旧幕府軍は新政府軍との戦いへと身を投じて各地に散って行きました。土方が属した大鳥軍もそういった部隊にあたります。こうした部隊の中の一つに忠義隊がありましたが、彼らは平賀村(千葉県松戸市)の本土寺に駐屯し、この取手宿に使者を送って、軍資金や兵糧米を強要しました。取手宿は隣村の大鹿村とともに、金50両と玄米25俵の代金36両、86両を供出させられています。布施の商人にはこれが元で破産した者もいたそうです。忠義隊が取手宿で軍資金や兵糧米の強要を行っていた頃と前後して、近藤・土方ら率いる新選組も流山に入りました。しかし、流山入りした翌日には新政府軍に包囲され、近藤は投降、矢河原の渡しから板橋へと移送されてしまいます。土方はすぐさま近藤の救出に奔走しましたが叶わず、島田ら数名の隊士を連れ、市川国府台に集結した大鳥軍に合流し、小金宿から布施へ、布施河岸を渡り、戸頭を通って守谷・水海道・石毛・下妻・下館へと進んでいきます。下妻や下館においても、土方ら旧幕府軍により、忠義隊がこの取手宿で行ったような軍資金・人員・兵糧米の強要が行われ、望まぬ闘いへと身を投じなければならなくなった藩士たちもおリ、後にこのことで新政府軍からの追求を受けたりと、地元の人々は苦渋を強いられました。このようなその地を通る者にも通られる者にとっても非常に厳しい行軍の中北上を続け、宇都宮城奪取へと向かいます。一度は宇都宮城を奪取した旧幕府軍でしたが、それもすぐに奪い返されてしまい、またもや敗走、土方自身も怪我を負って今市へと移送されて行きました。北関東での土方の奮戦ぶりがかえって仇となってしまったところもあり、近藤はその直後板橋の馬捨て場にて斬首されてしまいます。近藤亡き後も会津、仙台、宮古、函館と転戦を続けた土方でしたが、近藤の死から1年後、一本木関門にて被弾、35歳の命を散らしました。
布施弁天の駐車場にいた猫。写真撮られたくないんだけど、眠過ぎて動けない
車の下に入り込んでしまっていたコ
このまま発進したら轢いてしまうので、エンジンをかけたら驚いて車の下からは出てくれたのですが…猫パンチを縁石にかまして地団太踏んでいました
名前知らないけど次会ったらトシと呼んどこう…
一通りパンチを終えると、じっとりと睨んでまいりましたが、特にご機嫌を取ることもせず、放置してきてしまいました
参考文献:『土方歳三日記 下』(筑摩書房 菊地明編著)
参考HP:『柏市豊勢地域ふるさと協議会』
『2008年 秋の四国相馬霊場八十八ヶ所巡り、大銀杏の古木を求めて』
『えくと28の旧街道てくてく旅日記』
『會東照大権現』
『七里ヶ渡跡』へ向かう途中に庚申塔等の石碑が沢山祀られている場所がありました。1750年代のものから天保5年(1834)に建てられたものも混在し、これらの石碑も土方らの行軍を見送ったことでしょう。
この道の先に『七里ヶ渡跡』があります。
『七里ヶ渡跡』
七里ヶ渡は、布施と戸頭(取手市)との間に設けられていました。
江戸幕府は元和二年(一六一六)八月、この地を関所の役割を兼ねた定船場としました。当時の渡船地点は明治十三年作成の迅速測図、昭和三十一年頃の写真や当時の利用者の話等からこのあたりであったと推測されます。
幕府が江戸の防衛の意味から、利根川に橋をかけなかったこともあり、下総と常陸を結ぶ要衝としてこの七里ヶ渡は栄え、布施村には五軒の旅篭があって宿場町的な繁栄も見られました。また水戸街道の脇往還としての役割も果たしていたことから往来が多かったようです。
七里ヶ渡には布施河岸が併設されていました。当時、東北地方・利根川下流・霞ヶ浦沿岸の荷物は利根川をさかのぼり、関宿を迂回して江戸に向かうのが常でした。それが上流に洲ができて船の往来が困難になったため、布施河岸で荷を降ろし、陸路で江戸川の加村河岸(流山市)へ運ぶようおになりました。
明治二十三年に利根運河が開通すると、利根川をさかのぼってきた船は利根運河を通じて江戸川へ出るようになり、布施河岸の役目は終わりましたが、七里ヶ渡は昭和三十年頃まで続けられました。
利根川上流河川事務所
『七里ヶ渡跡』が見えてきました。
2本のすずかけの木が目印です。
『七里ヶ渡跡』は、流山から豊四季、花野井を経て、布施弁天、戸頭、小張、谷田部、土浦へと水戸街道に合流する街道で、『うなぎ道』とも言われ、利根川岸辺の沼地で獲れた鰻を江戸まで運ぶ近道として使われました。流山にも水切場があり、加村河岸から江戸川経由で江戸へとこれらの鰻が運ばれていたそうです。加村河岸は近藤が移送される時に使われた『矢河原の渡し』と併設されていました。
木元に水神宮と彫られた小さな石碑があり、このあたりが布施と戸頭を結んだ『七里ヶ渡跡』があったところになります。この渡しで享保4年(1719)3月25日に33人を乗せた渡船が強風に煽られ、川の真ん中で沈没し、20人が亡くなるという事故が起こりましたが、木元にある水神宮と石塔の祠は遺族や村人がこの事故の犠牲者の供養のために建立したということです。これらの石碑も当時この地から土方らの渡船を見送ったことでしょう。
『新大利根橋』を渡り、戸頭へと向かいます。
『新大利根橋』を渡り切ったところの風景です。
▲『戸頭神社』
この神社も古くからあるもので、観応3年(1352)に足利尊氏が天下泰平武運長久を祈願したという記録が残っているそうです。この戸頭も『七里ヶ渡』が繁栄した頃はその恩恵を受けた地でした。
▲『戸頭神社』近くの『永蔵寺』の大木。こちらも当時からあったのではないかと思います。
江戸城無血開城の後、徳川慶喜は謹慎先の水戸へと向かい、これに不満を募らせた旧幕府軍は新政府軍との戦いへと身を投じて各地に散って行きました。土方が属した大鳥軍もそういった部隊にあたります。こうした部隊の中の一つに忠義隊がありましたが、彼らは平賀村(千葉県松戸市)の本土寺に駐屯し、この取手宿に使者を送って、軍資金や兵糧米を強要しました。取手宿は隣村の大鹿村とともに、金50両と玄米25俵の代金36両、86両を供出させられています。布施の商人にはこれが元で破産した者もいたそうです。忠義隊が取手宿で軍資金や兵糧米の強要を行っていた頃と前後して、近藤・土方ら率いる新選組も流山に入りました。しかし、流山入りした翌日には新政府軍に包囲され、近藤は投降、矢河原の渡しから板橋へと移送されてしまいます。土方はすぐさま近藤の救出に奔走しましたが叶わず、島田ら数名の隊士を連れ、市川国府台に集結した大鳥軍に合流し、小金宿から布施へ、布施河岸を渡り、戸頭を通って守谷・水海道・石毛・下妻・下館へと進んでいきます。下妻や下館においても、土方ら旧幕府軍により、忠義隊がこの取手宿で行ったような軍資金・人員・兵糧米の強要が行われ、望まぬ闘いへと身を投じなければならなくなった藩士たちもおリ、後にこのことで新政府軍からの追求を受けたりと、地元の人々は苦渋を強いられました。このようなその地を通る者にも通られる者にとっても非常に厳しい行軍の中北上を続け、宇都宮城奪取へと向かいます。一度は宇都宮城を奪取した旧幕府軍でしたが、それもすぐに奪い返されてしまい、またもや敗走、土方自身も怪我を負って今市へと移送されて行きました。北関東での土方の奮戦ぶりがかえって仇となってしまったところもあり、近藤はその直後板橋の馬捨て場にて斬首されてしまいます。近藤亡き後も会津、仙台、宮古、函館と転戦を続けた土方でしたが、近藤の死から1年後、一本木関門にて被弾、35歳の命を散らしました。
布施弁天の駐車場にいた猫。写真撮られたくないんだけど、眠過ぎて動けない

車の下に入り込んでしまっていたコ


一通りパンチを終えると、じっとりと睨んでまいりましたが、特にご機嫌を取ることもせず、放置してきてしまいました

参考文献:『土方歳三日記 下』(筑摩書房 菊地明編著)
参考HP:『柏市豊勢地域ふるさと協議会』
『2008年 秋の四国相馬霊場八十八ヶ所巡り、大銀杏の古木を求めて』
『えくと28の旧街道てくてく旅日記』
『會東照大権現』