
▲築地本願寺
1600年代頃から築地と日本橋魚河岸の魚問屋たちとの関係はすでに始まっており、日本橋から明石橋のあいだに開かれた町人地の水辺には河岸がもうけられて、魚介類も荷揚げされました。
江戸時代の築地は大半が武家地で、大名の別荘地である中屋敷や下屋敷が多くつくられ、下級武士の邸宅も分布しています。現在の築地市場にあたる場所は寛政の改革を断行した時の老中松平定信の下屋敷、浴恩園がありました。二万坪の園内に中国の景勝に見立てた五十一ヶ所のミニチュア名所をつくり、春風、秋風と名づけた池に桜と紅葉を植え春秋それぞれに楽しんだといわれています。


▲浴恩園跡
築地には、河口部の立地条件の良さから廻船問屋が多く、また、武家と町人の居住が隣接していたので屋敷相手の商売を目当てに米、炭、薪、肴屋などの問屋、仲買が集中して活況を呈してきました。南小田原町西南には御米蔵があり、周辺に精米をおこなう搗米屋も数多くありましたが、海岸地のため潮風で米が被害にあい、享保二年(1717年)に浅草蔵前に移されます。その跡地は安政二年(1855年)に武芸訓練のための講武所、1857年安政四年(1857年)に航海や砲術訓練のための軍艦操練所、明治元年(1869年)には外国人宿泊のための築地ホテル館と、幕末の時世を象徴する施設が次々と建てられることとなりました。
幕末の頃には明治政府により、江戸に居留地をつくろうという計画が実現し、明治元年(1869年)に築地鉄砲洲(現在の明石町付近)に設けられた外国人居留地は、あらたな首都東京における相互貿易市場として広く外国の異文化を取り入れる窓口となりました。こうして築地は先進的な学問、技術を摂取する場所となり、ホテル、ミッション・スクール、病院、税関、レストラン、パン製造、活版印刷、指紋研究、測量術、建築術、語学、宗教など、次々と輸入されてくる新しい事物の影響を受けながら、文明開化の一端を担うこととなります。昔ながらの漁師町の風情や江戸の心意気を残しながらも、西洋の最新の文化が行き交う町でもあったのです。
参考HP:『築地場外市場 公式ホームページ』