筑波嶺の峰より落つる男女川 恋ぞつもりて淵となりぬる | 徒然探訪録

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『万葉集』の頃からずっと、いやもっときっと昔から、恋の歌や愛の歌は形を変えども、人々の間で今日まで歌い続けられてきた。
 
『歌垣』という歌を詠み合う行事が古にもあり、『万葉集』や『常陸風土記』にもこれについて記されている。

『歌垣』についての古代の記録が存在しているのは茨城県つくば市筑波山、大阪府能勢の歌垣山、佐賀県白石町の杵島山の三つで、これらは日本三大歌垣と言われている。

一人が和歌の上の句を詠み、その句に合わせてもう一人が下の句を詠むのを『歌合せ』、歌を詠み合うのを『友垣』というが、それらを合わせたのが『歌垣』である。

筑波山では優しい梅の香に包まれる春の頃、あるいは紅葉に美しく山が染まるこの秋の頃に、男女が歌を詠み合って季節を楽しむこの『歌垣』という何やらロマンチックな催しが行われていたようだ。

『常陸風土記』の『筑波郡』の項にこのような記録がある。
 
『坂より東の諸国の男女、春の花の開く時、秋の葉の黄づる節、相携ひつらなり、飲食を持ち来て、騎にも歩にも登り、楽しみあそぶ』

春の花咲く頃、あるいは秋の葉の色づく頃、東国の男女は筑波山にお弁当を持って山登りをしては、ある『遊び』を楽しんだようだ。

『坂』というのは神奈川県の足柄峠を指すといい、ここから筑波山までは歩けば300㎞くらいはあるらしいが、それだけ遠くからも参加者があった当時としては一大イベントだったのだろう。

この筑波山の歌垣がどんなものであったのかは『万葉集』巻九にある『筑波嶺に登りて?歌の会を為せし日に作りし歌一首』という高橋虫麻呂の歌より伺い知ることが出来る。

『鷲の住む 筑波の山の もはきつの その律の上に あどもいて 娘子壮士の 行き集い かがう?歌に 人妻に 我も交わらん 我が妻に 人も言問へ この山を うしわく神の昔より 禁めぬ行事ぞ 今日のみは めぐしもな見そ 言も咎むな』
 
この日ばかりは既婚者も独身者も関係なく、歌をやり取りしていつものパートナーでなくとも気に入った相手があれば、一時の性の謳歌が許されたのだ。 

だが、ただ楽しむだけではなく、水面下には売春による財物の授受も行われたようで、『筑波嶺の?歌に娉財を得ざる者は児女となさず』との記述も見られる。

また、もちろんこの?歌に参加した者全てがパートナーを得られたわけではない。

前述の高橋虫麻呂の歌には

『男神に 雲立ち登り 時雨降り 濡れ通るとも 我帰らめや』

という反歌が付されており、この一大イベントに参加したからにはもう男のプライドを賭けてただでは帰らないという覚悟を詠んだものなのではあるが、もちろん約束していた娘に振られてしまったり、何の収穫も得られず、一人寝のむなしい夜を明かした者もあった。
 
贈り物をくれるような男性に巡り合えなかった女の子達だっていたし、こんなちょっと寂しい歌を詠んだ男性達だっていたのだ。

『筑波嶺に 逢わむと 言ひし子は 誰が言聞けばか 神嶺 逢はずけむ』
『筑波嶺に 廬りて 妻なしに 我が寝む夜ろは 早やも 明けぬかも』

いつの時代も男女の恋にはシビアなところも多いのは変わらないらしい。


参考文献:『盆踊り 乱交の民俗学』下川耿史著(作品社)