近頃は随分と暑くなってきたものだから、地元にまつわる怪談噺なども記事にしてみようと思う。
下総国岡田郡羽生村、現在の茨城県水海道市羽生町に残る怨霊事件、『累ヶ淵』についてである。
この事件は元禄三年(1690年)刊行の『死霊解脱物語聞書』によって伝えられ、江戸時代を通じて重版されてきた怪談のロングセラーであり、明治の古典落語の名作として知られる三遊亭円朝の『真景累ヶ淵』はこの怨霊事件をベースに描かれた。
江戸時代においては、四谷怪談よりも有名であったとも言われ、お岩の容貌が凄惨な醜女と描かれたのも『累ヶ淵』の累の容貌の影響が少なからずあったのではないかとも推測できる。
『累ヶ淵』の怖さの真髄は、実際に日本のどこにでも当たり前にあるような農村で起きた事件であったこと、『死霊解脱物語聞書』が今でいうルポタージュの意味を持つものであったことにあるだろう。その当時、庶民の間では黙認されていた親による子殺しが、60年にも渡る因果の物語となり、人々の恐怖を大いにかき立てたのだった。
『累ヶ淵』に登場する与右衛門も累も菊も実在した人物であり、彼らの墓は茨城県水海道市羽生村の法蔵寺に残っている。ちなみに、寺に残る記録によれば、累の命日は正保四年(1647年)8月11日、享年は35歳となっている。
この事件の書き出しはこのように始まる。
『過ぎにし寛文十二年の春、下総国岡田郡羽生村という里に、与右衛門と聞こゆる農民の一子、菊と申す娘に、累といえる先の母の死霊とりつき、因果のことわりを顕し、天下の人口におちて、万民の耳を驚かすこと侍りしか…』
羽生村に住んでいた百姓、与右衛門は、妻をめとり、その間に娘をもうけた。その娘は累と名付けられ、彼女は両親に早く死なれたが、それでも土地持ちだったため、婿を世話するものがあり、結婚した。累の亭主も彼女の父親と同じく、与右衛門と名乗った。婿となった与右衛門は累とは彼女の土地を目当てに結婚したようなものだから、そのうちに土地は自分のものとしてそのままに、しかし別の女を妻にしたいと思うようになっていく。
累は、『死霊解脱物語聞書』によれば、『顔かたち類まれなき悪女にして、あまつさえ心ばえまでもかだましきえせもの』、容貌も心も醜悪であったと描かれているが、彼女の墓がある法蔵寺では、姿こそ醜かったが、心根はやさしかったと伝えられている。その当時、より多くの人が見知ったであろう『死霊解脱物語聞書』の方では与右衛門に疎まれても仕方のないような書き方に、読み手への逃げ道を残しているかのようである。
ともかくも与右衛門は累を疎ましく思い、殺害を思い至るまでになり、ついには実行する。
『なさけなくも女を川中へつきこみ、男もつづいてとび入り、女のむないたを踏まえ、口へは水底の砂を押し込み、眼をつつき咽をしめ、たちまち責め殺してけり』
与右衛門は累を騙して重い荷物を背負わせ、川に突き落として絞め殺したのであった。
この場面の挿絵に書かれた『所のもの見ている』との詞書通り、その殺人を目撃した村人もいたが、彼らはおぞましくもこの殺人を見て見ぬふりをしたのであった。
それでも、少しの救いになるのは、彼らが殺人を他言しなかったのが、累が殺されて当然のような女性だったからではなく、他言出来ないほど、殺人という行為があまりに恐ろしいものだったからだと言い伝えられていることである。
その後、与右衛門は思惑通り累の田畑を手にし、新しい妻も迎えたが、娶った妻たちは子どもを産むこともなく、次々と早世していくのであった。それは六人目の妻を迎えるまで続いた。
それでも六人目の妻が菊という娘を産んだ。その妻も菊が13歳になる年には亡くなってしまったのだが。
参考文献:『妖怪学講義 (著者 菊池章太) 講談社』
『学研 幽霊の本』