西山は、もともとはミュージシャンであった。しかし、持ち前の創作意欲により、ラジオや映像、コンピュータゲームなど制作に参加し、ディレクターを経てプロデューサーにまで駆け上がった。

典型的な「叩き上げ」の人間である。

制作会社や代理店に所属した経験もなく、何の後ろ盾もないフリーの立場でありながら、メジャーレコード会社や、映画会社、ゲームメーカなどから直接依頼を受け、制作を請け負っていた。

 

また若い頃から大手出版社にライターとして起用されたという遍歴もあり、2冊の著作物を発表している。

 

さらには、日本における格闘技ブーム全盛の時代、プロ格闘技選手や興行主などから依頼され、犬猿の仲であった格闘技団体同士を水面下で繋ぐなどして、その功績から、プロ格闘技協会の理事長まで務めるに至った。

 

40歳を手前にした頃、再び音楽業界に戻ったが、ジャンル細分化により混沌とする業界の苦境を見て、新たな事業形態を模索するようになった。

ダウンロードコンテンツの黎明期、周囲の理解を得られぬ劣悪な環境において、新たなコンテンツ制作に身を切る形で乗り出した。

アーティストの舞台となるCLUBの流行が徐々に下火になる中、地方の町興し的なイベントに率先して参加し、例えば、宮崎・都城市で行われた1万人規模の野外フェスでは、現地の主催者の負担を極限まで減らすため、損得勘定抜きでブッキングから舞台監督まで1人でこなした。

 

そんな毎日を送る中、ある出来事が起きた。

肺癌による実父の死、そして2人の姉妹の癌化、それらが西山の運命を大きく狂わせていった。