昨年から流行した「忖度(そんたく)」という言葉。

 

辞書で調べると、

「他人の気持をおしはかること。また、おしはかって相手に配慮すること」

と書いてある。

意味は分かる。

意味は分かるが、使い方によって、どのようにでも解釈できてしまう言葉だ。

 

「忖度」は、最近では森友問題で多用されている。

安倍も麻生も、あれは笹川たちが勝手に「忖度」してやったことだとして、自分らには責任がないといっている。

 

本来、「忖度」というのは、例えば秀吉が信長にやったという「草履」の件、ああいうのを言うはずだ。

あくまで、相手の気持ちを「推し量った」結果、行動したものなのだ。

 

私は、森友問題でいう「忖度」を考えると、「示唆」そして「教唆」という言葉を思い出す。

極道の親分が、「ヤツは死ぬかもしれんなあ」と言ったとする。

すると子分がヤツを殺してくれたりする。

これは示唆した結果だ。

もしも親分が、「誰かヤツ殺してくれたらいいなあ」と言ったとする。

これは「教唆」に当たる可能性が大きいので、刑事罰の対象となり得る。

 

さて、森友問題。

全て安倍の秘書が絡んでいたはず、という説も浮上しているが、もしそうだとしたら、秘書に対して安倍が示唆あるいは教唆した可能性は高い。

仮に、具体的に示唆・教唆していなかったとしても、関係者に「安倍」の名があれば、役人は必要以上に気を使い回すことになるだろう。その後の行動次第で、彼らの今後の人生に大きく影響するだろうから。

 

極道者の場合は、苛烈に進化する暴対法により、仮に示唆・教唆してなくとも、子分が犯した罪は「使用者責任」

を問われ、親分が捕まることがある。親分の全く預かり知らない所で起きた事件だとしても、「使用者責任」を問われるのである。

 

極道者に対する「暴対法」が厳しくなったのには、極道世界の検量構造が原因している部分がある。

つまり、絶対的な優劣関係・従属関係があるからこそ、「使用者責任」が問われるものと考えられる。

 

ここで気づかないだろうか。

安倍・麻生と各省庁の官僚との間、そこには明らかは従属関係が存在している。

その威力は、極道世界のそれとは比較にならない。

 

安倍・麻生は、ひと昔前の極道親分がやっていたように、「あれは現場で勝手にやっていたことだから」とシラを切っているが、民主憲法の基本概念は「国民が権力者を縛る」ことにある。

どの段階までやれば「示唆」で、どこまでやれば「教唆」にあたるのか、あるいは安倍や麻生に「使用者責任」はないのか、追求したいところだ。

 

野党議員はどう思っているのだろうか。

もしも安倍・麻生を糾弾したいのなら、「使用者責任」の概念に基づき、示唆・教唆の線を洗い出した上で、言及・追求するべきだと思う。

国民の代表を務める男たちである。

法網を掻い潜ることだけを覚え偉そうにしているが、国民のリーダーだからこそ権力にモノを言わせて勝手にさせてはならないのである。

 

道義上の問題から言えば、「使用者責任」これに尽きるのではないか。

そして、リーダーだからこそ、道義上の問題を追求されて然るべきだ。

道義上の問題をものともしない不敬な態度をハッキリ見ることができれば、少しは国民にも響くのではないか。

 

佐川の行為に刑事訴追の可能性があるというのなら、使用者にも刑事罰があって当然ではないか。