以下、私の友人のブログに書かれた経験談である。
そのまま引用する。
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ヴィパッサナーとかいう瞑想カリキュラムがある。
古くからの知人「榎木くん(仮)」は、数ヶ月前に「ヴィパッサナー」を知ったようだが、10日間からなるこの瞑想コースを一度体験したことから、最近ではすっかりヴィパッサナー瞑想の伝道師気取りだ。
私は、冤罪により1年1ヶ月もの期間、名古屋拘置所の独房に勾留されていた。「勾留」すなわち監禁であり拘禁である。
私の勾留生活は特別であった。冤罪だったからだ。
日本には「人質司法」という言葉があるが、私の勾留はまさにそれであった。
事件の被疑者となった際、その容疑を容認すれば、凶悪犯罪でもない限り、比較的早い時期に保釈されることになるが(それでも日本の刑事事件における勾留期間は世界一の長さで、国連などから非難轟々である)、否認した場合には、延々と独房に閉じ込められることになる。
私の場合、当局による誤認逮捕というべき事件であったため、本来であれば最長でも23日間の勾留で釈放されるべきところ、メディアが起こした時流により事件が注目されてしまったことから、ムキになった検察の謀略により、その勾留期間は異例の長さとなった。
榎木くんは、10日間の瞑想コースで、己が起こす騒音に気づいたそうだ。心静かに己と向き合ううちに、最も煩いのは自分自身であることに気づいたのだという。
私は元々、若い頃から武道を学んでいたし、禅にも興味を持っていたので、京都在住時代にはちょくちょく禅寺に修行の真似事をしにいったものだ。
ちなみに、榎木くんがようやく気付いたという「己が煩い」については、禅修行のうちでは、まずは誰もがこれに気づかねばならない初歩の初歩。まず最初にこれに気づかねば、その後の修行は決して進まない。
悟りから最も遠いような存在である榎木くんがこれに気付いたことは奇跡かもしれない。それはすごいことだ。
しかし、自分が初めて気付いからといって、他人がまだ知らないと思い込むのは正しくない。
一年一ヶ月の独房生活を送った私は、冤罪であることを主張しつつ、検察による明らかな人権蹂躙(監禁、辱め)に耐え抜き、人格を失わないまま保釈まで耐えた。ちなみに一年一ヶ月に及んだ私の勾留期間のうち丸一年は接見禁止がついていた。
接見禁止、すなわち弁護士以外との一切の接触を禁止(面会だけでなく手紙のやりとりも禁止)されていたのである。外部に対し、どころか、身内に対しても自分の意思を伝えることが禁止されていたため、まさに己と向き合うことでしか時間を過ごすことが出来なかった。
己が煩いなどという気付きは、当然のとこながら独房生活の前から知ってはいたが、もちろん独房の中でもその気付きは繰り返された。
人と会話が出来ない期間は、390日にも及んだ。
その間、一定の姿勢で座り続けなければいけないし、接見禁止がついていたため外部との連絡は取れず、自分の意思を家族にすら伝えることが出来ない。検察は冤罪と知るや否や、私への拷問を徹底して強化した。何一つ証拠もないうちに全国報道までされた。
誰とも会話出来ないままにそういう状況を独房の中で知る。これはまさに拷問であり、「己が煩い」に気付いたといって喜べる状態ではない。
月に何回かは同じ階の独房で問題者が出てくる。
真夜中に壁を叩き、大声で騒ぎ、しまいには壁に頭を打ち付けはじめ、、、。
私は同じ状況にあるからこそ、その気持ちがよく理解できる。
しかし、そんなことをしても、何も始まらない。だからこそ、そういう問題児が出ると、さらに自分を戒める。
どんなに苦しくとも、どんなに気を荒らされようとも、決して興奮しない。
興奮する暇があったら、法を勉強し、裁判に向けて資料を整理し、文章を綴り、とにかく自分を内面から出なく、外部から別人格で見つめることで、心を鎮めた。
榎木くんは、そんな経験をした私に、ヴィパッサナー瞑想10日間コースを「受けるべき」と言うのだ。
そして、散々に「自分が一番煩いことを知った」と嘯く。
それが榎木くんにとって一番の自慢だったようだが、その榎木くんの行為こそ非常に「煩かった」。
そして榎木くんの奥さん。
この人もナチュラリズムでオカルト主義を擬態するタイプであるが、ヴィパッサナー瞑想について私にこういった。
「とにかく信じなきゃだめ」
瞑想って、そういうものだったっけ?
ヴィパッサナー瞑想の真価について私は何も知らないが、少なくとも、榎木夫妻によって知らされた「ヴィパッサナー瞑想」は、私の最も嫌いなパターンの自己啓発セミナーにしか映らなかった。
ヴィパッサナー瞑想を本当に知る人にこそ、このブログは読んで頂きたい。
こういう輩を野放しにしないで欲しい。
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私はこの話を聞いて、ヴィパッサナー煩わしい、、、と思った。