パクリ問題について、その真偽を言及しようとすると、意外に根の深い話になりやすい。
一目瞭然のパクリ作品でも、熱心なファンはパクリはないと擁護する。
あるいは、オマージュという理屈の下、パクリでなく芸術的な行為なのだと主張する。
逆に、そのものの本質から外れた、表面的な些細な一部を取り上げ、これを証拠にパクリだと指摘する人もいる。
音楽でいえば、コード進行が同じ、とか。
例えば、ブルースの場合には、定番のコード進行がある。
だから、みーんなコード進行は似たり寄ったり。当然、聴いた雰囲気も似てくる。
こういう部分をパクリだ何だと指摘する人は、自分の無知を証明しているようなものだ。
パクリ問題の真偽言及は、感情問題へと発展し得る、危ない行為であるということか。
人の感情相手となれば、いかなる手段を用いても、その真偽は確かめられないですよね。
でも、本当は明白なんですよ、パクリ問題は。要は、こんな感じ。
1.パクリの場合
作った本人の心は、ちゃんと知っているのです。
これは「真似しちゃった」って。
でも、恥ずかしいから恍ける者が多いようですね。
あるいは、オマージュとか言い出すのもいます。
ただし、オマージュの場合、誰かに指摘される前に、
作家本人が事前に発表しなければならないはず。
1.パクリじゃない場合
ネタ元作品を、見た事も聞いた事もない。
自分で作ったと思っていたものが、違う形で存在していた事に驚く。
あるいは、元々の指摘が間違いであり、パクリ問題ではなかった。
こういうわけで、作った本人の心には、その真偽は明白なのです。
ただ、指摘された瞬間に自己催眠をかけ、恍け続けるやつが多いですけどねー。
そう、ここが問題。
パクリ問題を言及するには、これに対応出来る知性や技術などが必要となるが、もう一つ肝心な事、、それは、人間性の問題。ここは一つチェックポイントとみた。
さて、話をループさせる事にもなるかもしれないが、ここで、パクリ問題の本質的なところを言及してみよう。
一つの、もの凄い天才的な発明があるとする。
新しいカルチャーが始まってしまうくらいの発明だ。
電球とか、蓄音機なんかは、まさにその類いだ。
では、世界中の家電産業は、エジソンのパクリという事か。それを言えるのは、エジソンだけなのである。(私はこの男を好きではないが)
家一軒、これは発明の宝庫である。
洞穴で住んでいた頃を思えば、土台、柱、壁、窓、屋根と、至る所に、巨人による発明の形跡があることがわかる。また、それぞれの、機能性、質、デザイン、コンセプトなど合わせると、夥しい数の発明が発見できるはずである。
パクリ問題を解決するには、まず、現実的に立証出来るだけの、専門知識や技術、あるいは、その問題を本質的に理解できる知性が必要となる。そして、道徳面における虚偽の判断には、経験や分析力が必要となるが、尽きるところ、各作者のモラルに問うところが大きい。
ところが、発明家にお金を払えば、問題は解決する。パクリ商品を売った利益の一部を、ネタ元に還元するのである。これが著作権の基本概念ということになる。
ただし、これにも大きな問題があるのである。
その事情は様々であろうし、問題点の性質や状況も様々であろうが、ニセ者が著作権を有しているというケース、これが結構多いのである。
また、これは、著作権の崩壊を意味するのである。
「権利」が「金」に直結した時点で、終わりになったのか。
くどくど書いてたら疲れてしまった。
こんな風に、パクリ問題は話がややこしくなる。
一目瞭然のパクリ作品でも、熱心なファンはパクリはないと擁護する。
あるいは、オマージュという理屈の下、パクリでなく芸術的な行為なのだと主張する。
逆に、そのものの本質から外れた、表面的な些細な一部を取り上げ、これを証拠にパクリだと指摘する人もいる。
音楽でいえば、コード進行が同じ、とか。
例えば、ブルースの場合には、定番のコード進行がある。
だから、みーんなコード進行は似たり寄ったり。当然、聴いた雰囲気も似てくる。
こういう部分をパクリだ何だと指摘する人は、自分の無知を証明しているようなものだ。
パクリ問題の真偽言及は、感情問題へと発展し得る、危ない行為であるということか。
人の感情相手となれば、いかなる手段を用いても、その真偽は確かめられないですよね。
でも、本当は明白なんですよ、パクリ問題は。要は、こんな感じ。
1.パクリの場合
作った本人の心は、ちゃんと知っているのです。
これは「真似しちゃった」って。
でも、恥ずかしいから恍ける者が多いようですね。
あるいは、オマージュとか言い出すのもいます。
ただし、オマージュの場合、誰かに指摘される前に、
作家本人が事前に発表しなければならないはず。
1.パクリじゃない場合
ネタ元作品を、見た事も聞いた事もない。
自分で作ったと思っていたものが、違う形で存在していた事に驚く。
あるいは、元々の指摘が間違いであり、パクリ問題ではなかった。
こういうわけで、作った本人の心には、その真偽は明白なのです。
ただ、指摘された瞬間に自己催眠をかけ、恍け続けるやつが多いですけどねー。
そう、ここが問題。
パクリ問題を言及するには、これに対応出来る知性や技術などが必要となるが、もう一つ肝心な事、、それは、人間性の問題。ここは一つチェックポイントとみた。
さて、話をループさせる事にもなるかもしれないが、ここで、パクリ問題の本質的なところを言及してみよう。
一つの、もの凄い天才的な発明があるとする。
新しいカルチャーが始まってしまうくらいの発明だ。
電球とか、蓄音機なんかは、まさにその類いだ。
では、世界中の家電産業は、エジソンのパクリという事か。それを言えるのは、エジソンだけなのである。(私はこの男を好きではないが)
家一軒、これは発明の宝庫である。
洞穴で住んでいた頃を思えば、土台、柱、壁、窓、屋根と、至る所に、巨人による発明の形跡があることがわかる。また、それぞれの、機能性、質、デザイン、コンセプトなど合わせると、夥しい数の発明が発見できるはずである。
パクリ問題を解決するには、まず、現実的に立証出来るだけの、専門知識や技術、あるいは、その問題を本質的に理解できる知性が必要となる。そして、道徳面における虚偽の判断には、経験や分析力が必要となるが、尽きるところ、各作者のモラルに問うところが大きい。
ところが、発明家にお金を払えば、問題は解決する。パクリ商品を売った利益の一部を、ネタ元に還元するのである。これが著作権の基本概念ということになる。
ただし、これにも大きな問題があるのである。
その事情は様々であろうし、問題点の性質や状況も様々であろうが、ニセ者が著作権を有しているというケース、これが結構多いのである。
また、これは、著作権の崩壊を意味するのである。
「権利」が「金」に直結した時点で、終わりになったのか。
くどくど書いてたら疲れてしまった。
こんな風に、パクリ問題は話がややこしくなる。