例えば、レオナルド・ダ・ヴィンチ。
この人の肩書って、何になるんでしょう?
画家、彫刻家、発明家、建築家、音楽家、天文家、医学者、思想家、、、。
「芸術家」と言えばそれまでですが、では芸術家が、何で食っているのかといえば、絵を売ったり、彫刻を売ったり、、、。
少なくとも、当時の情勢では、「芸術家」とかいいながら食って行けるほど、生温い世の中じゃなかったでしょうに。ミケランジェロなんて、あんな数の彫刻、ありゃあ作るの大っ変ですよ。そりゃー、身体壊しちゃいますよ。
ダビンチの場合は、ミケランジェロと違って、芸術的作品の販売よりも、設計などが多かったようですから、すると、これで金もらっている間は、「建築家」という事になってきますね。
ところが、ダビンチが残した手記の中には、未払いの設計料を催促する手紙が多く、当時の依頼主(貴族階級)の経済状態が逼迫していたた様子がここに窺えます。彼はあれだけの仕事をしながら、けっこう踏み倒されてしまっていたようなんですよ。ひどい話だ。
では、ダビンチは何して食っていたのか。。
実はダビンチ、リュートという弦楽器の奏者として、よくお城に招かれていたようなんです。つまり、ミュージシャンとして。
もちろん、こればかりが彼の収入源であったというわけではなさそうですが、少なくとも、このギャラで食い繫いでいる期間の彼に、あえて肩書きをつけるとすれば、やっぱり「ミュージシャン」ですよねえ。
一般的なダビンチの印象からすると、ちょっと意外な感じがしますが、お約束の切り口でなく、例えば、「ダビンチの経済活動」というテーマで事実を掘り下げてみれば、きっと、妙な感じの人物像が浮かび上がってくるんじゃないでしょうか。
ちょっと見方を変えてみれば、演奏聴かせてギャラもらって食い繫ぐあたり、ルネサンスの縦ロール(髪型)よりも、南部のバーで弾き語るブルースマンの方が、イメージ近いかも。
そう考えると、、、やべえ、渋いぜ、レオナルドっ!
肩書ってのは、言ってみりゃ看板と一緒。
ここは『○○屋さん』です、と分かるように付けたもの。
仮に、依頼先がどんな惨い失敗をしてくれようと、あるいはどんなヤブであろうと、その肩書きが日頃掲げる看板と一緒であれば、詐欺というわけではない。
歌一つ唄えず、楽器一つ扱えず、音符一つ知らず、そういう音楽プロデューサーが多い世の中って、変でしょうに。
芸術系の大学に行かないと、芸術が分からんと思い込んでいる世の中って、これも変でしょうに。ダビンチの時代「芸術」の大学なんてなかったし。。
今の肩書きっていうのは、20世紀以降に大流行した「アカデミズム主義」の残りカスみたいなもので、本当に、全く、何の意味も成さない幻のようなもの。
では、何故、こんなモノが普通に存在しているのか。。
それは、無知の「不安」から。
発する側も、受ける側も、肩書きを基準に仕事を決めていく。
もしもこれで問題が起きたとすれば、それは、どちら側もが、本質を見抜く事が出来なかったから。
つまり、1.何をするために、2.どんな専門家に依頼するか、これが分からないから、肩書きから対象を選ぶようになる。
そこに、「知ったかぶり」が絡んでくると、詐欺の類いの話に発展してしまうので、それはまた後日。
ダビンチのようなオリジナルの生き方をした人に、ハマる肩書きがあるはずがない。だって、唯一の生き方だから。
僕の肩書きも、ダビンチを真似てるわけじゃないけど、ない。
ないけど、受けた仕事は確実にこなす。プロだから。
ひっぴーは自由でなければいけない。自由でいるから、ひっぴーには保障がない。保障がないから、出来るやつになるしかない。それがひっぴーの生き方。
つまり、保障なく生きるためには、色々出来ねばならない。色々やってきた
だから、肩書きは難しいんですよ。
最後に、ダビンチの肩書き、とにかく多くの事に精通しているから、1つに絞る事が出来ない。僕らから診たら大天才で、いかにも何でも知ってそうな感じがするけど、きっと本人は「真理探究家」だったんだろうなあ。