「俊也の妹」という肩書きは割と気に入っている。「マクドナルドのアルバイト」よりも、「北高の2年生」よりも、ずっと色の付いたおしゃれな肩書だ。「俊也の妹」以外の肩書は何も欲しくなくて、全部捨てた。今度は「タワレコの店員」という肩書欲しさにアルバイトで働いている。週5日出勤、フルタイムだ。顔採用もあるかもしれない。けど、やっぱり一番強い肩書は「俊也の妹」だった。
俊也は「インディーズバンドのボーカリスト」で、「18歳のアパレル店員」で、「美帆のお兄ちゃん」だ。タワレコに勤める店長は俊也と顔なじみで、仲が良い。だから結局、最後にはお兄ちゃんの名前を借りて、わたしはここにいるというわけ。
最悪なのは「舟場 美帆」という名前だ。その前は「山田 美帆」、その前は「岡島 美帆」。嫌みのようにわたしはSNSの表示を変える。「岡島/山田/舟場」と、プロフィール欄に書き添えるのはみんなにわかってもらうためじゃない。わたしは、なんでもよいのだ。最後に「俊也の妹」とさえ、書き込めるのなら。
舟場が買った大きな家には俊也の広い部屋がある。俊也はあてがわれた部屋の照明を変え、いつでも薄暗い橙の照明で部屋が照らされている。そこには俊也のギターも、聞き込んできたCDも、大きなスピーカーがついたプレイヤーも、おしゃれなMacもあって、洗礼された俊也の心の中みたいに落ち着く雰囲気のある部屋だった。
ここにはわたしの欲しいものが揃っているから、いつも俊也の部屋でくつろぐ。グランジロックを聴きながら、英語の参考書をぺらぺら読む。わたしは近いうちにシアトルに行く予定。街を見てみたいから、行く予定。
わたしが5歳の時、岡島から山田に変わった。母は、旧姓に戻ったと言った。わたしは岡島でよかった。急に山田と呼ばれても、誰のことだかわからない。母はわたしたちを養うと言って、働きに出た。最初の頃はわたしも俊也も、母を労わった。「毎日ご苦労さま」というと、「あなたたちのためならがんばれる」といつも言う。働く理由は、いつもわたしたちにあるのだと言った。生きるために働くんじゃない、わたしたちのために働くんだそうだ。そう言いながら、わたしが中学生になる頃には母の代わりにいつもお札があった。それを俊也が管理する。一緒に惣菜を買いに行ったり、たまに俊也が料理した。わたしは何も出来ないから、手伝うだけだったけれど。
俊也はなんでもできた。俊也はわたしよりふたつ上なだけだけれど、わたしは「幼い女の子」だからと、いつでも抱きしめてなぐさめてくれた。泣いていなくても、抱きしめてくれた。「だいじょうぶだよ、だいじょうぶだよ」、その言葉を聴いていると、どんどん泣けてきた。きっと、俊也は自分の涙をわたしに預けていたんだと思う。
俊也は勉強をがんばった。とにかく高校はちゃんと出るんだと言ってがんばった。時々、俊也の担任の先生がうちに来て、応援してくれた。俊也は働きにも出た。俊也は働くことを「わたしのため」とは言わなかった。ときどき、酔った母が帰ってくることもあった。俊也は黙って受け入れていた。良い子でいようとするみたいに、ハキハキと話した。けれど、わたしを目の届くところに置いて、決して害がないように守ってくれていた。俊也は立派なお兄ちゃんだった。いつも目をきょろきょろと泳がせて、先々のことを考えているみたいだった。
俊也は自分でお金を貯めて、高校に通った。高校に通い出してからは、よく笑うようになった。先輩にもらったというボロのギターを毎日、毎日弾いていた。その一方で、わたしの高校受験のために必死で働いてくれてもいた。
「世界に、たったふたりだね。俊也」
いつごろからか、俊也は毎日手料理を用意してくれる。わたしも寄り道せずに家で俊也とごはんを食べる。
俊也に話しかけても、気まずげに黙ってテーブルを拭くだけだ。
わたしたち兄妹はとても静かだった。みんなのようにスマホも持っていない。テレビもあんまり見ない。会話も、ない。
「わたし、俊也のことが好きだよ」
そう話しかけた時だけ、俊也は申し訳なさそうにニコリと微笑んでくれる。
私の言葉は嘘じゃない。世界には、俊也とわたしのふたりきりだ。兄妹だったとしても、同じ苦労を知らない他人より、ずっと俊也のことが信頼できる。ほかの誰よりも尊敬している。だから、キスもセックスも、わたしが与えられるものだったら、全部俊也のものでいい。
俊也は困った顔で、距離を置く。俊也は世界が狭くないから、他人を信用できるから、きっと、他に好きな人がいる。俊也は決してそれをわたしに話さないけれど、きっとそう。
それからわたしは「舟場」になった。
わたしが受験の頃、母は舟場を連れてやってきた。「これからは4人で暮らそうね。家も用意してあるから」。母は、昔のようににこやかで、華やかな顔を見せてそう言った。舟場は、害のなさそうな顔をした、中年のおじさんだった。
「前の奥さんには捨てられて」と自己紹介をした舟場に、同情していたのは母くらいだ。俊也は明らかに困った顔をしていた。けれど、「美帆のことは心配しないで」という言葉には安心したようだった。
俊也は稼いできたお金を全部自分の趣味につぎ込んだ。新しい家で、どんどん俊也は物を増やしていく。CDも、Macも、コンポも、照明も、なんでも。わたしはそうして、俊也の世界を見た。彼がどんなものに刺激を受けてきたのかを、ようやく知ることができた。
わたしは通えることになった高校を2年で辞めた。俊也は卒業したほうが良いと諭したけど、興味がなかった。
「わたしみたいな学力だったら、早いうちに見切りを付けて他の世界を見つけた方が早い」という説得に、俊也は納得をしてくれた。わたしも、勉強が得意じゃない。良い大学へ行って、良い会社に入るだなんて、夢見たこともない。
日に日に増えていく俊也の世界を構成するものたち。必死になって、わたしはそれを追いかけた。俊也は、高校を卒業してもバンドを続けた。立派な大学に通いながら、バンドを続けた。
わたしはステージに立つ俊也が好きだ。どんなに小さいステージでも、どれだけ観客が少なくても、目の前で歌ってくれる俊也が好きだ。俊也がとても幸せそうだから、わたしはもっと、幸せになれた。わたしは世界に、もう俊也以外の好きな人はほしくなかった。けれど、俊也の周りにはたくさんの人が集まった。俊也のことを愛してくれる人が、たくさん集まった。俊也はわたしといる時間より、彼らといる時間の方が長くなった。そうして、家には帰らず、わたしを舟場に置き去りにする日も増えた。それが気に入らなくて、わたしは毎晩、俊也を探し歩いている。
だれが声をかけてきても、「俊也の妹」といえば話は通る。通らなくても、関わらない方が良いのかもと距離を取ってくれる。わたしが探していたという話が、人のすきまを抜けて、俊也に届くことを祈りながら、深夜街を徘徊する。
ときどき、見知らぬお兄さんにジュースを奢ってもらうこともある。綺麗なお姉さんが泣きながら吐いているのを介抱したこともある。毎日わたしに声をかけてくる男には「美帆ちゃん」と呼ばれる仲になった。わたしは、「俊也の妹」だ。俊也はこの街のどこかにいる。薄暗い地下でライブをやっているかもしれないし、お酒を飲んでいるだけかも。わたしには、世界でたったひとりの片割れなのだ。俊也なしでは、生きられない。
わたしはまだ、スマホを持っていない。携帯電話を一度も必要としたことがない。連絡する相手は俊也以外にいないし、俊也はいつでも連絡をしなくても届く距離にいた。いまだって、街を歩けば俊也に出会った人の言葉を聞くことが出来る。追いかけて、追いかけて、会えない日にはまたタワレコで働いて、俊也の好きなCDを眺める。いつかこの棚に俊也の作るCDを並べるのはわたしだと決めて。
歩いて、歩いて、見つからない日には街で歌を歌うことにした。アカペラで、俊也の真似をして俊也の歌を歌う。たまに、小銭をくれる人もいた。そうしていると、酔った俊也がときどき顔を出す。わたしは俊也のために右手を差し出す。俊也はわたしの手を取って、見知らぬアパートへと連れて帰る。居候している部屋があるという。俊也はそこで、一度だけわたしを抱いた。「俊也のことが好き」。そう言い続けるわたしに口付けて、「一度だけ」と約束した。感動だとか、興奮だとか、そういう感情はなかった。なるべくしてこの形に収まったんだと、実感だけがそこに残った。安らかな顔で眠る俊也のことが好きだった。
わたしは、俊也のものだ。俊也も、わたしのものだ。だから今、遠く離れて俊也を暮らしていても、わたしは「俊也の妹」として、「タワレコの店員」として、俊也の作るCDがこの店に届くのを待っている。
首に巻いたチョーカーは、俊也がくれた誕生日プレゼントだ。これが、「俊也のもの」である証。
世間は、わたしのような人間を受け入れないんだそうだ。だけど、世間がわたしに俊也以外の物事の全ての色を奪っていってしまったのだから、とやかく言われる筋合いはない。わたしは、「俊也の妹」。だれが俊也を愛しても、わたしは「俊也の妹」。これ以上に素晴らしい称号を、わたしは知らない。