ことば
あなたが「それ」をどう伝えたいか・与えたいかではなく、
相手が「それ」をどう理解するか、どうしたら受け取れるかを大切にしなさい。
クラスで想いが溢れそうになるたび、
いつか先生が教えてくださった言葉を思い出す。
みんなとの学びの時間の中では、
みんながおなじことを異なった言葉で表現する。
同じように、わたしという楽器から表現されたひとつの言葉を、
みんながそれぞれに理解し、受け取ってくれる。
おなじ「音」が異なる楽器から個性豊かな言葉になって表現される。
日々の生活の中でも同じように、
数限りなく交わされるすべての言葉が、
そんな風にして生まれる。
たとえば、あなたを愛している、という想い。
見つめる目、触れた手のぬくもり、
そんな言葉にならない「音」で表現されることもあれば、
全く正反対の意味を持つ言葉で表現されることもある。
受け取る「あなた」がその表現の中に変わらず存在する
「愛している」
の音を聞き受け止めることができるからこそ、
それはその形で表現される。
その音がどうして、どんな風に生まれるのか。
どんな存在で、どんな役割を持っているのか。
そんな音の秘密をわたしが理解できる言葉で教えてくれる聖典と出逢えたことで、
わたしはわたしの世界が好きになれた。
そして、その教えをわかちあってくれるみんなの存在があるから、
わたしはわたしの世界に存在する音、
そして「わたし」という音が
どんどん好きになる。
昨日もとってもとっても幸せな夜でした。
みんないつもありがとう。
声
声、という字はもともと神さまへと祈りを届けるための楽器から鳴り響く
「おと」
いう意味を持つという。
人間のからだが楽器になるとき、声はただの音になる。
どんなに見た目をごまかしても、かくすことのできない「わたし」の音。
その声がからだのどこから出てきているか、どこに響くか。
声の質。
震え。
口の表情。
舌の筋肉の使い方。
それはどんな自己紹介の言葉よりも
その人の歩んだ道や今のこころの色柄を見せてくれる。
こうありたい、わたし。
こうみせたい、わたし。
こうありなさいと言われた、わたし。
そうじゃだめと調教された、わたし。
そのわたしを作るための道具になった声を使っていると、
わたしという楽器は形を変えていつの間にか自分の音が迷子になってしまう。
そんな時は母音を唱えて、一度お母さんの子宮に戻してあげればいい。
長年の癖で変わった楽器の形や出なくなった音はすぐには直らないけれど、
道具から音に戻った声は忘れていた「わたし」を思い出させてくれる。
妖精みたいな女の子から太くて頑固な音が出てみたり、
おひさまのように豪快に笑う男の子も本当は、自分を表現することが苦手だったり。
どんな音もみんな愛おしくてたまらなくて、
その瞬間にみんなと恋に落ちてしまう。
マントラを学ぶ時間、
本当にわたしが伝えたいことはここにあるのかもしれないな。
半年ぶりの基礎講座。
みんなとあいうえおしながらやっぱり全員と恋に落ちちゃった(笑)
あっという間の5時間でした。
次は11月。
今度は大好きなラクシュミータントラの教えをベースに
みんなでまた「あいうえお」しましょ♡
ご一緒下さったみなさま、愛しい愛しい音をありがとう。
お母さんになること
お母さんになること。
女の子に生まれて、小さな頃からいつの日か、
当たり前のように叶うと思っていた夢。
30歳を過ぎて、
それは女の子だからって当たり前に与えられるものでは決してなく、
願ってもがんばっても、どうにもならないこともある夢だと知った。
この数年、息つく暇もなくがむしゃらに神さまから与えられたお役目を果たしてきた。
周りを見回せばもう、みんなお母さん。
子供ができたよ、生まれたよ、の嬉しいお知らせの度に、
心の底から幸せを祈る自分と、
取り残されてしまった切なさややるせなさに押しつぶされそうになる自分とがいた。
リトリート、という名前のついた少しだけ特別な時間を、
17人、
それぞれに祈りを込められ女の子として生まれたみんなと過ごした4日間、
みんながわたしの夢を叶えてくれた。
この4日間、わたしの役割は
まっすぐ目を見て、お話を聞くこと。
わからないことは、わからないと言うこと。
知っていることは、惜しみなく伝えること。
上手にできたら、一緒に喜ぶこと。
弱いところも、かっこ悪いところも、隠さないこと。
悲しい時も、寂しい時も、嬉しい時も、優しく抱きしめること。
痛いところを、撫でてあげること。
みんなの変化を見逃さないこと。
見守る勇気を持つこと。
信じること。
おいしいごはんを作ること。
それは、わたしの知っている母の姿と同じだった。
わたしは、お母さんになれた。
リトリートの最後、お腹の中に命を宿したかなえちゃんをビンドゥに、
ヤントラを描いた。
みんなが奏でる祈りの歌の波の中で、
みんなの内から沸き起こる母なるエネルギーの力強さに指が震えた。
かなえちゃんと子宮の中から無邪気に笑うゆいちゃんがあまりに美しくて
涙が止まらなかった。
わたしもなおも、みんなと離れることが寂しくて、
最後のマントラが唱えられなかった。
本当に幸せな時間だった。
子宮に種を受け入れ、宿し、自分の一部として育み、
いつか一つの命として生み落とす。
そんな風にして、いつか、
赤ちゃんを授かる日が来るかもしれないし、
来ないかもしれない。
でも、この場所で、わたしは、ここに来てくれるみんなにとって、
わたしの知っている母と同じような存在でありたい。
みんな、ありがとう。
またいつでも、おうちに帰ってきてね。
タイ古式マッサージ∞マントラ二ドラ

どこまでもまっしろしろな、幸せな夜でした♡
みんなで癒しの空間を作ってみると
癒し手であるセラピストちゃんたちもそれぞれにリズムやアプローチの仕方が違って
生み出されるエネルギーの流れもとっても個性的。
いろんな角度からいろんなエネルギーの波がくる中でのマントラ二ドラははじめてだったけれど、
その、それぞれに個性的で愛おしいみんなのエネルギーを
無理に調和させようとしたり変えようとする必要はなくて。
目を閉じれば、みんなの真ん中に同じものが見つかる。
そのひとつひとつに寄り添って声で抱きしめていったら自然にまあるい音の輪ができた。
そして目を開けたら、お父さん係のちばけんちゃんがお地蔵さまみたいな顔をして
気持ちよさそうに輪の真ん中で瞑想してました。
はじめて出逢う相手に身をゆだねる。
はじめて出逢う相手の抱える痛みを共有する
そして、はじめて出逢う相手とひとつになる。
そんな奇跡みたいなことが、チェンマイチェンマイではひょいっと起こってしまう。
きっとそれは、チェンマイチェンマイファミリーのセラピスト全員がお互いを思いやって、
見守りあって、愛情をかけあうことで、
この居心地のいいやさしい空間を日々作り出していてくれるからなんだな。
8月15日、平和を願う日だった昨日は
セッションの最後みんなで手をつないで大きな輪を作り、平和のマントラを唱えました。
年齢や性別、様々なバッググラウンドも何も関係なく、
手をつないで、一緒に幸せを祈ることはこんなにも美しい。
親子ほど年の離れた方が帰り際、少しだけはずかしそうに
「一緒に平和のマントラを唱えて、祈ることができてよかったです」
と言ってくださった言葉が胸に残りました。
さみちゃん、素敵なお誘いをほんとうにどうもありがとう♡
&チェンマイファミリーのみなさま、あったかい家族にまぜてくださって、ありがとう♡
わたしはあなたを愛する準備ができた
TKVデシカチャー先生がNārāyaṇaのもとへと戻られた。
YOGAとは、人と人とが出逢い、そのつながりを育むこと。
そして、いつかそのふたつ以上の魂がひとつになること。
この数年、デシカチャー先生が教壇に立つことはなかったけれど、
デシカチャー先生の伴侶であるメナカ先生がわたしたちに教えを授けてくださる時いつも、
デシカチャー先生とメナカ先生はひとつだった。
お互いの魂がお互いから一時も離れることがないこの二人の先生の関係こそが、
この伝統が伝えるYOGAの中でわたしが受け継ぐものなんだと理解した時、
デシカチャー先生が微笑んだ気がした。
ヨーガスートラ第一章第一節。
「atha yoga-anuśāsanam」
わたしはあなたを愛する準備ができた。
あなたのことばに耳を傾け、
あなたに、わたしの今をすべて捧げる準備ができた。
そこに愛がなければ、その道をともに歩むことはできない。
そこに愛があるからこそ、与えられた教えをありのままに受け入れ、奇跡を起こすことができる。
YOGAはひとりでは成しえない。
そこに愛する存在がいるから、YOGAが存在する。
クリシュナマチャリア先生から、息子であるデシカチャー先生へ。
デシカチャー先生から、伴侶であるメナカ先生、そして息子のカウストブへ。
その学びの場には、当たり前のように、家族の輪がある。
家族があって、わたしがいる。
家族こそが、わたしに与えられた最初のダルマ、それがあってこそ、
広がっていく縁の中でその時々に与えられる役割を果たしていくことができる。
それがわたしの先生の示してくださった、わたしのYOGAの道。
二人の先生がずっとずっとわたしたちを導いてくださるように、
わたしも、導かれ出逢う魂を愛し、その言葉に耳を傾け、
わたしの今をすべて捧げていられますように。
śrī gurubhyo namaḥ

Photo of Sir from T. Krishnamacharya





