今日、義姉と私とで、義母を病院に連れて行きました。


5年前迄は、亡き義父が連れて行っていましたが、今では私達の役目です。


義父は長い間、妻(義母)を自宅で介護をしていました。(いわゆる老老介護になるのでしょうか。)











今日の病院の帰り道、誰からともなく、震災の話が出ました。


その中で義姉がふと、


「そういえば、今年も届いてたな。
お父さん宛に、、

日本赤十字から募金依頼の手紙。」












5年前、身体が丈夫で、気功もするような義父が、腰の痛みを訴え、病院で検査すると膵臓癌でした。


《末期癌の為、手術も放射線治療も、効果は無いです。》と宣告されました。


でも我々は、諦めきれずに、
大学病院でセカンドオピニオンを受けたり
良いドクターのいる病院に転院もしました。


義母には、癌と知らせたくない。


という義父の意向もあり、結局は、自宅療養をしつつ、通院にて抗がん剤を投与する、という選択をとりました。


当時、義父と義母の二人暮らしだった為、私と義姉が、実家に出向き二人をサポートする事になりました。


うちの下の子は未だ3歳。
(と言えど、発達障害を持っているので、実質1歳の子と同じ位です。)


その頃、発達障害ではないか?と懸念し、それなら早期療育をと、障害児施設に通園していました。
同時に、大学病院の発達検査(障害の診断の為)を申込んでいました。


簡単に言うと、私の心は
この子はやはり発達障害なのか?
そうで無い事を祈りたい。
と悶々と過ごしていました。


そんな心に余裕のない日々の中で、義父の末期癌と向き合う事となりました。


朝、子供や主人を送り出して、急いで実家に行き、義母に適当な嘘をつき、義父を連れ出し病院に連れて行く。。


点滴が終わるのを待ち、実家に送り届け、義父と義母のご飯を作り、下の子の施設バスの時間に間に合う様に急いで帰る。


小学校から帰って来た上の子に、塾のお弁当を作り送り出し、下の子のお世話をして寝かし付け、家事を大急ぎで済ませる。


ご飯を座って食べた記憶すらない、目の回る様な日もありました。


義姉はとても優しい人で、うちには手の掛かる子供達がいるからと気遣ってくれて、積極的に義父のサポートをしてくれていました。


二人で、出来るだけの事をしていたつもりです。


しかし、あんなに優しく紳士的で辛抱強かった義父は、人が変わった様になりました。


当たり前です。


健康には、人一倍気を遣っていた義父。
毎年、がん検診は必ず受けていたそうです。悔しかったのでしょう。


そして何より、病気の妻を残して、自分が先に逝く事を無念に感じていたと思います。




そんな日々を送っていた時に、あの大震災がありました。


その日は、義姉が義父を病院に連れて行く日でした。


父は、抗がん剤の点滴をしながら、ベッドに備え付けの小型テレビで、あの震災の津波の映像を無言で観ていたそうです。











あの日を境に、
義父は、以前の義父に戻りました。
(と、私は感じました。)




それからは、微熱があっても、吐き気があっても、癌なのだから仕方ない。


と自分の病を受け入れた様でした。


孫達に対して、いつもの優しい笑顔を見せ、そして嫁の私にも、前と同じ労いの言葉をかけてくれました。


そして、何時間もパコソンに向かい、残された者が困らない様にと、事務処理を始めてくれました。


それから数週間後、義父は、天国へ逝きました。



後に、遺品の整理をしていた時、


震災から間もない日付印が押された、郵便局の振込用紙が見付かりました。


大きなお金を、日本赤十字社宛に義援金として振り込んでいたのです。


家族全員、誰も知りませんでした。


あのしんどい身体で、寒い中、郵便局迄、どうやって行ったのかな?


と一同、胸が詰まり、頭が下がる思いでした。



あれから5年。
昨日の様に思い出されます。





5年前の3月11日


義父は震災の映像を観て、自分の魂を取り戻しました。

 




そして、私も大事な事を知りました。


人は、誰かに生かされているのだと。


そして、ふと、3回の出産の事を思い出していました。


(上の子は、母子共に生死を彷徨いました。
真ん中の子は、死産でした。
下の子は、928gの未熟児で、生存率が6割だと宣告されました。)



我が子に障害があっても無くても、今、この瞬間、生きている事に変わりは無いのだ。


と気付かされ、そして心から障害を受け入れる事ができたと思っています。




あの日も確か金曜日。
もう少し寒くって、そしてこんな感じに晴れていた気がします。
{79E92173-15BA-476D-8970-0A85654DF0EE}