自分が今まで正しいと信じていた何かは、

誰かが正しいと言ってた何かだった。



それは自分の本音はなく、誰かにとっての正解だった。



自分の心の底から沸き上がってくる感情や想いに蓋をして、

人から認められる為に頑張るから、いつもソコには自分がいない。



自分が本当にほしいことに気付かないまま、

 

今よりもっと幸せになれる為に必要そうな事を目標にして、

歯を食いしばって耐える事こそが努力であり、

苦しみの先にもたらされる結果こそが誇るべき大切なモノだと勘違いしていた。



自分に厳しくしてストイックに生きなければ成長しない。

 

自分を甘やかしてはいけない。

 

そんな感覚が正義だと信じていた。



自分の承認欲求には気付かないふりをして、

実際に控えめな自分を演じ、本当の願望や欲求にも蓋をしていた。



身近な人、例えば親や友人、彼女や仕事仲間、

みんなにアイツは凄い、と言われたかったり、認められたい。



それが本音だったのに、

 

人から認められたいが為にブランド物を持ったり、

 

SNSで飾った生活を晒している人、

 

そんな承認欲求が強い人を見ては、

 

自己承認が出来ていないからだなと、どこかでさげすんで見ていた。



承認欲求の満たし方は違っていても、

人から認められたいという想いは自分も強く持っていたのに。。



誰かに認められるために頑張ること。



そのプロセスは苦しみと不安にまみれてるのに、

結果を出すまで我慢を重ね

努力している自分を確認する事で安心感が得られる。



歯を食いしばって耐える力がある自分は根性があるとか、

逞しくてタフなんだと感じられるから、

 

そんな男でいることが大切だと思い込んでいた。



どんなに激しく辛い経験をしても、自分は鬱になったりしない。

俺はタフなんだと、偽りの自分像に酔い、

 

鈍感になっていることにも気付かなかった。



鈍感でなければ、苦しみや不安に飲み込まれてしまう。

 

本当はそれが恐ろしく、

 

いつの間にかその恐れから心のシャッターを下ろし、

 

自分を見失っていることにも慣れていった。



喜怒哀楽の感情が解らなくなり、

 

何が楽しくて何が好きなのか、

 

自分が解らなくなり、

 

楽しいと思うことをしても心が喜んでいる訳じゃない。

 

でも何をしていても、

 

どこかで何かの不安や恐れをいだいていて、今ココに自分はいない。

 

今この瞬間にある目の前の現実ではなく、

 

過去やってしまったことの後悔や罪悪感にまみれながら、

 

未来にはまた何かが起こって苦しみが続くので無いかと、

 

未来や過去にばかりフォーカスして不安がっている自分がいた。



今この瞬間にフォーカスしても、

 

常に周りの人の目が、評価が気になって仕方がない。



正解を探し、それさえあれば安心出来ると、

 

幸せになれると信じていた自分の周りには、

 

今思うと本質を突いた考えを持っていた友人も沢山いた。



自分を生き、そして今を楽しみ、人生を味わっているように見えた。

 

そんな友人を見て、益々自分が間違っていると感じ、

 

劣っていると感じ、自己否定に走る自分がいた。



華やかな結果を出してもっと誇れる自分になる事で、

 

自己否定がなくなるんじゃないかと信じていたが、

 

偽りの自分を生きる事に限界を感じて

 

それをやっと認められたのが2022年、45歳になった時だった。

 

 

ありのままの自分を受け入れ、

 

無条件で愛でて良いんだという気づきは、

 

まるで母親のお腹の中にいるような安堵感だった。


過去の自分の意識が、今の現実を創っている。

 

今目の前の現実は、自分の内面を知る答え合わせでしかない。



本当の自分に戻り、自分なりの歓びを大切にして、

 

願い、想像すれば、これからの現実として創造されていく。



大きな気づきと共に、安心感を感じられたことで、

 

やっと自分で生きて良いという許可が自分に出たんだ。



そんな経験の経緯と共に、自分の想いや考えを綴っていこうと思う。