2月~3月の、 NHK Eテレの音楽白熱教室は、
クラシックの巨匠、バッハ、モーツァルト、ベートーベン、ショパンの4人をとりあげ、
音楽と社会の関係、時代がどういう音楽を求めたか、というテーマを、
イギリスの王立音楽院の教授が、学生へ講義するもので、
とても興味深いものであったので、じっくり見てまとめてみようと思った。
といっても、バッハとショパンは見過ごし、
オンデマンドでこれから観る予定(T_T)
なので、まずは二回目の「モーツァルト」、
音楽院の副学長、ティモシー・ジョーンズ氏の講義。
氏の話によると、モーツァルトは、才能はあったけれど、
神がかった天才というわけではない。
その幼少期からの教育、勉強の成果で、
時代がどういう音楽を求めているかを熟知していたという。
父 レオポルトの英才教育により、
小さい頃から旅をして、著名な音楽家と交流していた。
ザルツブルグの宮廷に仕えていたが、モーツァルトは
仕事先のウィーンにて一大決心し、
父の反対を押し切って、25歳でフリーランスでやっていくことを決意した。
活躍の主な舞台は、社交界の音楽付きのパーティーで、
作曲家として、ピアニストとして、もてはやされた。
その音楽会は、最初と最後は同じ交響曲が演奏され、
その間に10~12曲のソナタやアリア、オーケストラ曲をはさみ、
3~4時間続くというもの。
その頃はまさにジャズのような、、
主題に基づいた即興演奏を行っていたという。
モーツァルトの即興が凄くて、人々はその場でしか味わえない
ライブ感を楽しみに、通ったのだそうだ。
オペラの注文も次々と制作。
一人で、物語から台詞、音楽すべてを作るのだから
すごいことだ。
モーツァルトの音楽は、まさに人を楽しませる音楽。
わたしも、そういう躍動感が好きなのである。
レオポルトからは、折に触れ、
時代がついていけるような音楽を書くことを
アドバイスされていたという。
ところが、モーツァルト31歳の時、
父レオポルトが亡くなり、アドバイスしてくれる人がいなくなり、
少々難しい音楽となり、、、
その二年後にはフランス革命勃発で、世界的な緊縮ムードにより
音楽環境が悪くなった上、、、
モーツァルトは演奏旅行をせず、新しい聴衆を開拓しなかったので、
人気が凋落、落ち目になったらしい。
起死回生をかけた「魔笛」が成功するも、36歳を前に世を去る。
、、と晩年は恵まれなかったようだが、
モーツァルトは気まぐれな天才ではなく、
誇り高き音楽家であった。
作曲依頼の注文期日に遅れたことはほとんどなく、
素人に近い音楽愛好家のために書いた作品でも、今日傑作と言われる名曲。
Wikipediaによると、、
死去する3年前の手紙に自分自身のことを語っている。
「ヨーロッパ中の宮廷を周遊していた小さな男の子だった頃から、特別な才能の持ち主だと、同じことを言われ続けています。目隠しをされて演奏させられたこともありますし、ありとあらゆる試験をやらされました。こうしたことは、長い時間かけて練習すれば、簡単にできるようになります。ぼくが幸運に恵まれていることは認めますが、作曲はまるっきり別の問題です。長年にわたって、僕ほど作曲に長い時間と膨大な思考を注いできた人は他には一人もいません。有名な巨匠の作品はすべて念入りに研究しました。作曲家であるということは精力的な思考と何時間にも及ぶ努力を意味するのです。」
努力の賜物だったわけだ。
クラシックの巨匠、バッハ、モーツァルト、ベートーベン、ショパンの4人をとりあげ、
音楽と社会の関係、時代がどういう音楽を求めたか、というテーマを、
イギリスの王立音楽院の教授が、学生へ講義するもので、
とても興味深いものであったので、じっくり見てまとめてみようと思った。
といっても、バッハとショパンは見過ごし、
オンデマンドでこれから観る予定(T_T)
なので、まずは二回目の「モーツァルト」、
音楽院の副学長、ティモシー・ジョーンズ氏の講義。
氏の話によると、モーツァルトは、才能はあったけれど、
神がかった天才というわけではない。
その幼少期からの教育、勉強の成果で、
時代がどういう音楽を求めているかを熟知していたという。
父 レオポルトの英才教育により、
小さい頃から旅をして、著名な音楽家と交流していた。
ザルツブルグの宮廷に仕えていたが、モーツァルトは
仕事先のウィーンにて一大決心し、
父の反対を押し切って、25歳でフリーランスでやっていくことを決意した。
活躍の主な舞台は、社交界の音楽付きのパーティーで、
作曲家として、ピアニストとして、もてはやされた。
その音楽会は、最初と最後は同じ交響曲が演奏され、
その間に10~12曲のソナタやアリア、オーケストラ曲をはさみ、
3~4時間続くというもの。
その頃はまさにジャズのような、、
主題に基づいた即興演奏を行っていたという。
モーツァルトの即興が凄くて、人々はその場でしか味わえない
ライブ感を楽しみに、通ったのだそうだ。
オペラの注文も次々と制作。
一人で、物語から台詞、音楽すべてを作るのだから
すごいことだ。
モーツァルトの音楽は、まさに人を楽しませる音楽。
わたしも、そういう躍動感が好きなのである。
レオポルトからは、折に触れ、
時代がついていけるような音楽を書くことを
アドバイスされていたという。
ところが、モーツァルト31歳の時、
父レオポルトが亡くなり、アドバイスしてくれる人がいなくなり、
少々難しい音楽となり、、、
その二年後にはフランス革命勃発で、世界的な緊縮ムードにより
音楽環境が悪くなった上、、、
モーツァルトは演奏旅行をせず、新しい聴衆を開拓しなかったので、
人気が凋落、落ち目になったらしい。
起死回生をかけた「魔笛」が成功するも、36歳を前に世を去る。
、、と晩年は恵まれなかったようだが、
モーツァルトは気まぐれな天才ではなく、
誇り高き音楽家であった。
作曲依頼の注文期日に遅れたことはほとんどなく、
素人に近い音楽愛好家のために書いた作品でも、今日傑作と言われる名曲。
Wikipediaによると、、
死去する3年前の手紙に自分自身のことを語っている。
「ヨーロッパ中の宮廷を周遊していた小さな男の子だった頃から、特別な才能の持ち主だと、同じことを言われ続けています。目隠しをされて演奏させられたこともありますし、ありとあらゆる試験をやらされました。こうしたことは、長い時間かけて練習すれば、簡単にできるようになります。ぼくが幸運に恵まれていることは認めますが、作曲はまるっきり別の問題です。長年にわたって、僕ほど作曲に長い時間と膨大な思考を注いできた人は他には一人もいません。有名な巨匠の作品はすべて念入りに研究しました。作曲家であるということは精力的な思考と何時間にも及ぶ努力を意味するのです。」
努力の賜物だったわけだ。