今日昔の旧友たちと久しぶりにご飯を食べた。あの頃は一緒に車にも乗れなかった詩、お酒ものめなかったけれど、学校以外の場所で、私の10代はずっとこの人たちと一緒に過ごしてきたなぁと懐かし記憶が蘇り、そして、みんなを見ながら自分が大人になったことに気づいた。
みんな独立して、立派に生きている。
自分たちの時代と今の時代とでは、人に対して、先生に対して、秩序に対して、いろいろな考え方が違ってきていることの狭間についての話しが飛び交っていた。
今日の仲間は、昔、お習い事の一つに、私は小さな頃からバレエを習い始め、18歳まで続けさせてもらえた環境にあり、その時に一緒に過ごした仲間が今日会った仲間だ。
しあわせなことに、その頃の私の周りは、世界に目標を置くことが、それ程難しい環境ではない恵まれた環境にあり、その時の仲間
私以外、みんなバレエダンサーとして世界で、日本で活躍し、今もなお、とても高いポテンシャルの持ち主ばかり。
何故この香川県にあれ程の実力者が、それも揃いも揃って集まっていたのか。
あの頃のバレエに対す没頭のレベルを思い返すとさすがに、今はそうなかなか、その様な子はいない。
しかし、あの頃の当たり前の努力は今思うと全てを捧げる気合ではなく、行動と努力の日々だったように思う。
しかし、今バレエをモノにできなかった私ですら、周りの、先輩の努力を見ているのが普通で、通り道であったことで、毎日夜遅くまでのレッスン、公演前の連日連夜の練習も何事でもなかったように思う。
始発で、学校に行く前にレッスンをし、学校が終わってすぐお稽古場に戻り、最終の電車で帰る。これを高校生活15.16才の頃からみんな当たり前かのようにやってる中で、努力とは、こういうことだと当たり前のようにやっていくことだと感じていた私。
だから、本気で何かに没頭する事から得られる数多くのことを自然に知る環境が私にはあったということになる。
今日はお酒も飲みながら、ヨーロッパで人生の半分以上ダンサーとして過ごしてきながら、今この香川県に戻ってきて感じる日本の文化や習慣、日本の教育や母親と子供の関係について話す機会もあった。
何十年も会えていなかった間、一人一人の生き方に人生にいろいろあったとしても、バレエをやり続けていること。その情熱と、人生に本気で今も向き合っている姿には本当に感動する。
ずっとこの人たちと一緒に、共に重ねてきた時間はみんなの本気が本気を助け、諦めそうになっても、諦める逃げる選択を作りださなかった本物の仲間だったのだと今日改めて感じた。
そして、自分の中でにもその時間を共有し、経験し、その時間の流れと環境の中に存在していたことを考えると、今の結果で、考え方で、今の自分で本当に良いのか?。。
この人たちの中に居て恥じない自分なのか?と自問自答したくなった。
その反面、私にもその経験と血が流れていること、それをとても嬉しく思える時間だった。
依存し合う表面的な良い関係と、一瞬、表面的に見えるやさしさは見えにくいが、自分の目標に向かい、精神的にも経済的にも自立を目指し、その中で学ぶ人の気持ち、自分の在り方を知ろうとしている、生き方が誰かの勇気に変わる自立しあった人たちとの関係。
私は後者を選びたい。
今私が考えていることにとても整理できる時間になった。
物事に、心から本気で向かいあった時、恐れがなくなる静かな心の状態を知っている。
周りが無理だといい、良くない出来事が起こり、自分がたった一人かもしれないと感じるようなことが起こったとしても、それでも消えたない湧き上がってくる何かがあることも知っている。
ブレないしなやかなシンプルな自分。
きっと通常の何十倍もの大変な出来事が起こっているはずなのに、失敗も、うまくいかない結果もシンプルに受け入れ、未来に反応する心と感情と自分の責任に対しての怖がらない冷静さ♡
私はこんな風に感じる瞬間をこの人たちに育てられたのだと、その延長で物事を判断し、その脳の分析回路の延長に今の自分がいることを少し納得できた気がする。
いろんな経営者の後姿に感銘を受けることが多いが、私には私しか経験していない過去があり、私は師に、人に、愛情にとても恵まれている。
他人の芝生は蒼く見えるが、私の芝生もきっと外から見ると蒼く見えていることもあるのだ。
彼女たちを通して、私はもっとやれるし、結果も出せる人であること、今まで与えてもらえた世界観やポテンシャルをもっと発揮し、そして、新しい仲間と同じ経験ができる環境を引き寄せ、創れるんだと、私の過去を振り返って感じた。
私を置いてある環境のレベルを引き上げることができるのは私にしかできない。
いろいろ批判したり、文句を言ったりする人に限って何もカタチに出来ないのだ。
人がどうであれ、結果を出す人は結果を出す過程で学び、批判は自分の未熟さの象徴だと知る。
何を結果とし、何を自分のしあわせとするかによるが、それを分からない人がいつも批判、批評する。
ホリエモンや孫正義が寄付をする額を聴いたとき、私は心が震えた。
何億もの寄付をできるなんて、持ってる人は違うわね~なんて邪まな心で言っている人がいるけれど、そんな人こそ心からの寄付が出来ない人だ。
そして、本気でお金と向かいあったことがない。
お金はその人の意思であり、お金がどれだけの人を救えるのかを考える必要がある。
お金が持つ温かな愛について考え、お金が持つチカラをしあわせに変えようと死ぬほど努力した人でなければ大きなお金は手に出来ないように世の中がなっていることも知らない。
外から見ただけで何を知っていると言うのだろう。。
どんなに悪どいと言われる人でも、誰よりも、人のことを考え、お客様のことを、スタッフのことを、誰よりも必死で、誰かを想って日々過ごし、始終努力しなければお金など、手に入れられないのに。。。
だから、素直に私はその人たちを素晴らしいと思う。
お金はその人の意思で心の現れだと書いたが、私の周りにいるうまく言っている人はみんなそうだ。
お金に興味があるわけではない。
自分の責任、使命、誰かのことを、誰よりも自分がリスクを追いながらも守ろうとしている人たちで、その生き方に憧れて努力し、挑戦し続けている。
会社の売り上げは誰かをしあわせにした数の評価であり、売り上げの低迷とは、しあわせだと感じた人が減っている明らかな証拠だ。
だから売り上げを上げ続ける会社にしていくことが、私の使命であり、それが出来ればそれを創った全ての人がそれを受け取るシステムが会社という真の存在の在り方なのではないかと私は思っている。
売り上げはお金の数字ではない。自分たちが作ったしあわせの数を数える数字である。
だから、本気で売上を考えている人が、私は真の心のある人のように感じる。
私は尊敬と感動とありがとうと感じる
感情の中に生きていきたい。
だから、駆け引きも、上っ面も、陰口も嫌い。他人からの評価など、本当にどうでもいい。
毎日思うことは、考えずに毎日を過ごすことには必ず飽きがき、自分の心と人生が右往左往する。考えずに毎日を過ごすことの未来は、深い悩みを必ず心に生む。
その時程憂鬱な時間は無いのだ。
人は人である以上進化しながら生きていかなければならない動物に作られている。
だからそのような憂鬱を人は人生で感じることになる。
考えて生きること、自分の人生の目的が合致できる人と一緒に日々積み重ねていくことが大切で、とても重要なことなのだと感じた1日だった。
みんな独立して、立派に生きている。
自分たちの時代と今の時代とでは、人に対して、先生に対して、秩序に対して、いろいろな考え方が違ってきていることの狭間についての話しが飛び交っていた。
今日の仲間は、昔、お習い事の一つに、私は小さな頃からバレエを習い始め、18歳まで続けさせてもらえた環境にあり、その時に一緒に過ごした仲間が今日会った仲間だ。
しあわせなことに、その頃の私の周りは、世界に目標を置くことが、それ程難しい環境ではない恵まれた環境にあり、その時の仲間
私以外、みんなバレエダンサーとして世界で、日本で活躍し、今もなお、とても高いポテンシャルの持ち主ばかり。
何故この香川県にあれ程の実力者が、それも揃いも揃って集まっていたのか。
あの頃のバレエに対す没頭のレベルを思い返すとさすがに、今はそうなかなか、その様な子はいない。
しかし、あの頃の当たり前の努力は今思うと全てを捧げる気合ではなく、行動と努力の日々だったように思う。
しかし、今バレエをモノにできなかった私ですら、周りの、先輩の努力を見ているのが普通で、通り道であったことで、毎日夜遅くまでのレッスン、公演前の連日連夜の練習も何事でもなかったように思う。
始発で、学校に行く前にレッスンをし、学校が終わってすぐお稽古場に戻り、最終の電車で帰る。これを高校生活15.16才の頃からみんな当たり前かのようにやってる中で、努力とは、こういうことだと当たり前のようにやっていくことだと感じていた私。
だから、本気で何かに没頭する事から得られる数多くのことを自然に知る環境が私にはあったということになる。
今日はお酒も飲みながら、ヨーロッパで人生の半分以上ダンサーとして過ごしてきながら、今この香川県に戻ってきて感じる日本の文化や習慣、日本の教育や母親と子供の関係について話す機会もあった。
何十年も会えていなかった間、一人一人の生き方に人生にいろいろあったとしても、バレエをやり続けていること。その情熱と、人生に本気で今も向き合っている姿には本当に感動する。
ずっとこの人たちと一緒に、共に重ねてきた時間はみんなの本気が本気を助け、諦めそうになっても、諦める逃げる選択を作りださなかった本物の仲間だったのだと今日改めて感じた。
そして、自分の中でにもその時間を共有し、経験し、その時間の流れと環境の中に存在していたことを考えると、今の結果で、考え方で、今の自分で本当に良いのか?。。
この人たちの中に居て恥じない自分なのか?と自問自答したくなった。
その反面、私にもその経験と血が流れていること、それをとても嬉しく思える時間だった。
依存し合う表面的な良い関係と、一瞬、表面的に見えるやさしさは見えにくいが、自分の目標に向かい、精神的にも経済的にも自立を目指し、その中で学ぶ人の気持ち、自分の在り方を知ろうとしている、生き方が誰かの勇気に変わる自立しあった人たちとの関係。
私は後者を選びたい。
今私が考えていることにとても整理できる時間になった。
物事に、心から本気で向かいあった時、恐れがなくなる静かな心の状態を知っている。
周りが無理だといい、良くない出来事が起こり、自分がたった一人かもしれないと感じるようなことが起こったとしても、それでも消えたない湧き上がってくる何かがあることも知っている。
ブレないしなやかなシンプルな自分。
きっと通常の何十倍もの大変な出来事が起こっているはずなのに、失敗も、うまくいかない結果もシンプルに受け入れ、未来に反応する心と感情と自分の責任に対しての怖がらない冷静さ♡
私はこんな風に感じる瞬間をこの人たちに育てられたのだと、その延長で物事を判断し、その脳の分析回路の延長に今の自分がいることを少し納得できた気がする。
いろんな経営者の後姿に感銘を受けることが多いが、私には私しか経験していない過去があり、私は師に、人に、愛情にとても恵まれている。
他人の芝生は蒼く見えるが、私の芝生もきっと外から見ると蒼く見えていることもあるのだ。
彼女たちを通して、私はもっとやれるし、結果も出せる人であること、今まで与えてもらえた世界観やポテンシャルをもっと発揮し、そして、新しい仲間と同じ経験ができる環境を引き寄せ、創れるんだと、私の過去を振り返って感じた。
私を置いてある環境のレベルを引き上げることができるのは私にしかできない。
いろいろ批判したり、文句を言ったりする人に限って何もカタチに出来ないのだ。
人がどうであれ、結果を出す人は結果を出す過程で学び、批判は自分の未熟さの象徴だと知る。
何を結果とし、何を自分のしあわせとするかによるが、それを分からない人がいつも批判、批評する。
ホリエモンや孫正義が寄付をする額を聴いたとき、私は心が震えた。
何億もの寄付をできるなんて、持ってる人は違うわね~なんて邪まな心で言っている人がいるけれど、そんな人こそ心からの寄付が出来ない人だ。
そして、本気でお金と向かいあったことがない。
お金はその人の意思であり、お金がどれだけの人を救えるのかを考える必要がある。
お金が持つ温かな愛について考え、お金が持つチカラをしあわせに変えようと死ぬほど努力した人でなければ大きなお金は手に出来ないように世の中がなっていることも知らない。
外から見ただけで何を知っていると言うのだろう。。
どんなに悪どいと言われる人でも、誰よりも、人のことを考え、お客様のことを、スタッフのことを、誰よりも必死で、誰かを想って日々過ごし、始終努力しなければお金など、手に入れられないのに。。。
だから、素直に私はその人たちを素晴らしいと思う。
お金はその人の意思で心の現れだと書いたが、私の周りにいるうまく言っている人はみんなそうだ。
お金に興味があるわけではない。
自分の責任、使命、誰かのことを、誰よりも自分がリスクを追いながらも守ろうとしている人たちで、その生き方に憧れて努力し、挑戦し続けている。
会社の売り上げは誰かをしあわせにした数の評価であり、売り上げの低迷とは、しあわせだと感じた人が減っている明らかな証拠だ。
だから売り上げを上げ続ける会社にしていくことが、私の使命であり、それが出来ればそれを創った全ての人がそれを受け取るシステムが会社という真の存在の在り方なのではないかと私は思っている。
売り上げはお金の数字ではない。自分たちが作ったしあわせの数を数える数字である。
だから、本気で売上を考えている人が、私は真の心のある人のように感じる。
私は尊敬と感動とありがとうと感じる
感情の中に生きていきたい。
だから、駆け引きも、上っ面も、陰口も嫌い。他人からの評価など、本当にどうでもいい。
毎日思うことは、考えずに毎日を過ごすことには必ず飽きがき、自分の心と人生が右往左往する。考えずに毎日を過ごすことの未来は、深い悩みを必ず心に生む。
その時程憂鬱な時間は無いのだ。
人は人である以上進化しながら生きていかなければならない動物に作られている。
だからそのような憂鬱を人は人生で感じることになる。
考えて生きること、自分の人生の目的が合致できる人と一緒に日々積み重ねていくことが大切で、とても重要なことなのだと感じた1日だった。