兄は壮絶な死を遂げました
私がなぜ兄の死に対し『怒りと後悔』の念を持っているか。
兄は1992年、平成4年に死亡しました。
兄は某社の採用試験に合格し、田舎から出て尼崎に住居を持ちました。
働き始めたのはあの憎い神崎工場です。
1975年 昭和50年アスベストは『発がん物質として認定。吹き付けアスベスト原則禁止に
1980年 昭和55年WHO世界保健機関がアスベストを『発がん物質』と認定
1982年 アスベストの危険性を何十年も前から知りながら無視して製造をつづけ労働者を危険に晒したと
してアメリカのジョンマンビル社が訴えられ倒産。
1983年 昭和58年アイスランドが、その後ノルウエー、スイス、デンマーク、スエーデン、オーストラリ
ア、オランダ、フインランド、イタリア、ドイツ、が平成4年までに全面使用禁止としています。
1987年 昭和62年日本で社会問題になり国会でも取り上げられながらどうして全面禁止に出来なかっ
たのですか?
1995年 平成7年阪神大震災が発生により倒壊した建物の解体工事などにより飛散したアスベストが
大気環境を汚染し、大きな社会問題になり、やっと、やっと本当にやっと吹き付けアスベスト
が全面禁止となったのです。
そして2005年 知っている方もいると思います。某社が労働者79名がアスベストにより死亡したとの発表
をしたのです。それ以前に私の兄は死んでいるのに・・・
遅い。遅い。あまりにも遅い発表!!
兄の死後13年も経ってから・・・
兄のたどった中皮腫発病から死まで。
『最近太ってベルトがきつうなったんよ』
『お兄ちゃんビールの飲みすぎちゃうん』
『最近神崎工場で一緒に働いていたやつらが次々死ぬんよ』
そんな会話をしてすぐです。
『飯が食べられんようになってなー』
『胃でもこわしてんのとちゃうの?病院行ってみたら。』
そして入院。手術。
『開腹しましたが腸が消し炭みたいになっており、全体が癒着し手の施しようがなく
すぐに閉じました』
『お気の毒ですが回復の見込みはありません。』と主治医。
それからまもなくのある日、義姉から『今日あたり危ないかもしれない』と連絡をもらい仕事を早退して
病院に駆けつけました。
それまでなるべく悟られないようにとお見舞いは極力控えていたのですが姉、兄、私、が行ったので、
『こんなにみんなが来てくれたって言うことはもうあかんねんなー』そう言ったのです。
気づいていたのです。
点滴をうちながら『怖いわー、怖いわー』って何度も何度も言いました。
点滴のビンを見ながら『あの角角っとしたあれ怖いわー』
『もうあかんねんなー』 『怖いわー、怖いわー』
3時間くらいその状態が続きました。
本当に息を引き取る寸前までいろんなことをしゃべっていました。うわごとではありません。
そうしてまるで瞬間の出来事のように兄は息を引き取ったのです。
お葬式のときも、その後も会社としてのあやまりの言葉は一言もありませんでした。
誰が兄を殺してしまったの?
命よりも儲けのほうが大切だったの?
国はどうしてこんな危険なものを知りつつ放置したの?
誰が得をして、誰が泣いたの?
わたしは無茶を言ってるの?
知ってる人がいるなら教えてください。
主治医は幸いにも中皮腫のことをよく知っており後に主治医の頑張りで労災を認めてもらうことが出来ま
した。
後に義姉が話してくれたことですが、兄が個室に変わるとき
『なんで元気やのに、手術もうまくいったってゆうてたのに個室に変わるんや』とふさぎこみ
次の日『俺を騙したんやな』と義姉につかみかかったそうです。
あの時世間に公表するすべを知っていたら、もすこし私に力があったら兄の死を無駄にしなくても良かっ
たかもしれない。
今でもづっと後悔しています。
アスベストのことを耳にするたび『お兄ちゃん無力な私を許してください』って誤っています。
そんなことが背中にくっついているので、どうしてもアスベストに過敏に反応してしまいます