安冨歩著「生きる技法」より。
そうか、子供の頃の私は、自由を奪われていたんだなぁ、と分かる。
お姫様の服が欲しい
髪を伸ばしたい(ふわふわパーマにしたい)
ピンクと紫が大好き
キャミソールのワンピースを着たい
ヒールの靴を履きたい
マニキュアを塗りたい
爪を伸ばしたい
眉毛を整えたい
髪を染めたい
可愛くなりたい
バナナを一房全部食べてみたい
くだらないこと。
そう切り捨てられていた。
そう、本当にくだらない。
そんな小さなことくらい叶えてあげれば良かったのに。
「そんなことばっかり興味を持って、少しは手伝ったらどうなの」
「本当に趣味が悪い」
「そんなのは娼婦のすること」
「ほんっと派手好き女。ミーハーでやだねー」
なんでだろう。
なんでそんな風に言われなきゃいけなかったんだろう。
伸ばした爪にマニキュアを塗ってお出掛けしたかっただけなのに。
プリンセスやフリルやリボンが好きなだけなのに。
流行りのお洋服を着てみたかっただけなのに。
コルベットやフェラーリをカッコいいって言っただけなのに。
今、娘を前にして出る言葉。
高級車をかっこいいと言えば「見る目あるね!将来有望だね!」
お化粧したいなら「ママがとびっきり可愛くしてあげる!」
服の趣味が違ったら「うーん、こっちの方がもっと似合う気がするけどどぉ?」
素直に、ごく当たり前に、そういう反応が出てくる。何も否定する理由を感じない。
親と、季節ごとにデパートに服を買いに行くのは楽しみだったが、いつも、欲しいものはほとんど手に入らなかった。
「これが良いな」って言っても「そんな高いもの!」と言われるし、値段を気にすれば「子供が値札ばかり見るんじゃない」と言われる。
「これが好き」って言えば「はぁ…」とあからさまにため息をつかれたり、「趣味が悪い」といわれたり。
逆に、「これは?」と手渡されるものに好きなものは一つもない。でも、断ってばかりだと怒られる。
最後は、母の気にいるものの中から妥協できるものを見つける作業になり、本当に疲れた。
「妹は好きなものがはっきりしていて、すぐに決まって買い物が楽しいのに!」といつも怒られた。
ちょっとした一つ一つの「好き」とか「やってみたい」の気持ちを、ことごとく否定され、やらせてもらえない、を繰り返していくうちに、私は自分が好きなものが分からなくなった。
自分は、ダサくてセンスがなくて、顔がデカくてちんちくりんなんだと思ってた。
大学生になって、バイトができるようになって、自分で好きなものを買えるようになって、少しずつ少しずつ、自分を知った。親に言われていた私と、他人から見る私は全く違った。
国立大へ進む選択肢もあったけれど、私は華やかな道が似合う人間になりたい、って断言できて良かった。
いつも気付けばレールの上に乗せられてきた人生の中で、身体の中の自由を求める力が働いた瞬間だったのだと思う。
就職先も、世間知らずだった私は、内定先を正しく判断する術を持たず、大手を蹴って小さな不動産屋さんに就職しそうだった。親は小さい方を喜んでいる風にも見えた。
でも、私は、自分がより自分らしく居られる場所を、直感で選び取ることが出来た。
優柔不断で何も自分で決められなかったはずの私が、その2つの大きな人生の分かれ道に於いて、間違わずに自分の足で歩めたことは、自分を誇らしく思えるきっかけになった。
親にいつも嘲笑われていた私の夢。
「可愛いお嫁さんになること」「可愛い子供を育てること」。
最大限の理想形で、今その夢を叶えることが出来ているのは、あの分かれ道において、「自由」を手にすることが出来たからなのだろうと思う。
私の場合、親の手を振り解くことで得た自由だったが、娘にとっては、願わくば、親の手が支えになってくれたらと切実に思う。
子に自由を与えられる親になれたなら、自分の人生は成功だったと、胸を張って言えるだろう。