この間のNHKのあさイチは、田房永子さんの「母親がしんどい」を中心とした毒親との関係でした。
観ていて気付いたこと。
毒親=親離れに失敗した子供から見た親
なんだということ。
(虐待や放置などの親失格系毒親ではなく、良かれと思ってとか、教育ママとか過干渉系毒親の話です。)
私も先日書いた記事では自分で読み返すのも情けなくなるくらい、「いい歳してどんだけママに甘えてるんじゃ!!!」という内容でした。
あさイチでも、結局は離れられない親子、しかも、どちらかというと親はサッパリしたタイプだったりして、共依存という風ではなく、「“親”という職業を生きたタイプ」の人達のように感じました。
男尊女卑で典型的な昭和の専業主婦家庭において、「母親」というのは1つの職業だったのだと思います。そしてその言葉は「教師」と近しい立場にあったのではないでしょうか。
つまり、「師」であり「規範」であったわけで、子供に対して絶対的な立場から指導する職業だったのだろうと思います。
でも、「母親業」ってOJTも研修制度も、そもそも正しいテキストやロールモデルすらないわけです。
(その点は今も変わりませんが、今ならまだ知ろうとした時に調べる術があるだけ良いですよね。)
ただ結婚し妊娠したというだけで、「妻業」「母親業」というダブルワークを余儀なくされる、さらには「嫁業」が付随する場合すらあり、昭和の女性とは、いかに困難な人生を送っていたのだろうと思うと、胸がギュッとなります。
で、我が母を含め、今回特集されたような「良かれと思って」派毒親というのは、「一生懸命」仕事をしたタイプ、昭和でいうところの“モーレツ社員”的な母親たちなのだろうなーと感じました。
大局的に物事を見る余裕もなく、目の前の課題をこなすことでいっぱいだったのでしょう。
目の前の課題というのは、
- 衣食住を“正しく”満たしてあげる
- “人に恥じない”進路を与えてあげる
ということだったのではないでしょうか。
それだけだって、本当今と比較したらどれだけ大変なことか。掃除・洗濯・炊事、どれを取っても今より労力がかかりますし、機械にも宅配にも任せきれませんから。
そういう目の前のことをこなすのに、一番簡単なことは「あげる」という言葉通り、管理型の子育てなのだと思います。それは、今でもお受験界では当たり前で、お利口さんというのはえてして管理しやすいものだからです。
そして、子供側は、ヘタに“お利口さん”であればあるほど、自分で何も決められなくなっていく、のですね。
で、親側は、ただ真面目に育てているだけだから、子が20歳になるとかそういう適当なタイミングで、「はい、無事子育て終わりました!」と手を離す。
子からしたら、「え?!?!聞いてないよ!」となる。飼われたインコを鳥籠から窓の外に出すのと同じことです。
真面目に親の言うことを聞いて生きてきたのに、肝心なところで何も助けてもらえないどころか、親に管理されてきたせいで自分の意思すら分からないまま、社会の荒波に放り出されてしまって、散々な目に遭います。
「親の言うことは絶対」だったり、過度に干渉してきたり、子供に人格を認めなかったりした子育てに原因があると、子が涙ながら訴えたとて、親当人たちは感謝こそされても非難される謂れはないという訳で、会話になりません。
子は、育ててくれたことに感謝しているのに恨まなくてはならない、とてもアンビバレントな状態になってしまいます。結果、「毒親」という評価を下すことで、半ば無理やり親離れをしようと試みるわけです。
つまり、毒親の1番大きな「毒」は、
親離れへの移行期間の欠如なのではないだろうか、と思った次第です。
日々の生活の「て・に・を・は」が毒親を作るのではなく、子が親から上手に離れられるような道筋を作ったか否かによって、子が親を「毒」と評価するかどうかが決まるのではないか、と思いました。
上述の通り、これは、衣食住を正しく提供し、愛情と責任を持って育てる意志のある「毒親」に限る話ですが。
自分を擁護するつもりもないですが、感情の波をうまくコントロールできないことも、家事をサボってだらしなくする姿も、「大人だからってパーフェクトでもない」し「親というのはプロフェッショナルではない」ということを伝える点で、ま、いっか、と思っても良いのかな、と感じました。
そんな小さな日々のイザコザよりも、どんな小さな子供でも人権を持っていることを念頭に入れて、考えを示す訓練をさせて、親子の意見を擦り合わせる機会を持つようにすれば、一生を拗らせるような「毒」は回らないのではないか、という目線でこれからの子育てを考えてみよう、と結論付けたら、少しだけ気が楽になりました。
少なくとも、これだけ大局的に考える余裕がある点で、私は母とは違う“母親”であり、例え似た行動をすることがあるとしても、その根本にある考え方が同じなわけではない。
自分と母親を無理やり重ねてしまわないように。
娘と自分を勝手に同一視しないように。
一歩ずつ、です。