またしてもやってしまった。

このところ酷くなっている、娘への過度な叱責。


自分がアダルトチルドレン(以降、AC)なのだと理解してから少し良くなったと思ったけれど、過去からの報復という正当な理由ができたせいで、却って「親のせい」「私もされたこと」と、何故か「叱る」ことの正当性を強化してしまったようだ。


ACだからというのはやっぱり違う、自分の中で、認めなければならないことがあることは気付いていた。


私は怒ることが好きなのだ。



人に怒りをぶつけることに、一種恍惚とした感覚を覚えていることは、認めたくないが事実だ。

本音は、「怒りをぶつけることでスッキリした上、相手を思い通りに動かすことができるなんて最高!」といったところなのだろう。



と、薄々気付いていたが、それを認めると自分が虐待親やDV予備軍であると認めるみたいで怖かった。

だから、その感情に蓋をしていた。

だから、怒る理由、正当な理由をいつも探していた。ただ「怒りたい」から。



娘への意味のない叱責も、夫への不必要なダメ出しも、「やりたくないけど、母親の勤めだから」といった風を装って、自分が気持ちよくなりたかった、楽をしたかっただけなのだと思う。




村中直人氏の「叱る依存がとまらない」という本の題名を見た時、「やっと自分を正しく理解できるチャンスが訪れた」と感じた。


私は、アンガーマネジメントのような「怒ってもいいよー」じゃなくて、「叱る」というのは相手にとって意味のない行為であり、他人を利用して快楽を貪る行為だと、ビシッと言われたかったのだ。


そして、私はその快楽に依存している情けない人間なのだ、と。



本の中ではそんな風に容赦ない言葉は投げかけられない。もっと穏やかにわかりやすい冷静な視点を与えてくれる。


でも、本から受け止めることができた、そのストレートな意味は、今の私にとって1番必要な響く言葉だったように思う。


「叱る依存」になっている今の自分に、正当性を与えてはいけない。自分でも分かっていたけど、やめられなくて辛かったのは、「依存症」だからだ。

アルコール依存症に、お酒を飲む理由を与えてはいけないのと同様、私に「怒りをぶちまける」理由を与えてはいけないのだ。



「上の子可愛くない症候群」とか

「甘やかしたらダメになる」とか

「苦労しなきゃ学ばない」とか

「私もされた経験が生きている」とか

「ACだから仕方ない」とか

「世直し」だとか「なめられたくない」だとか…


ぜーーーーんぶ、「怒る」理由を探していただけ。消毒液ですら飲みたくなるアルコール依存症と同じ!!



って思ったら、少しは「ハッ」と気付けるようになるかな。

「苦しい」って思う気持ちも一緒に受容できるかな。

しばらく怒らない日が続くと、突然物足りなくなって爆発するのも、禁断症状だと思えば乗り越えられるかな。



何のメリットもない、むしろデメリットしかない、と思ってもやってしまうのは、脳に快楽を感じる回路ができてしまっているせいだと思えば、少しは自分を客観視できるようになるだろうか。




娘との関係が壊滅的になる前に、早く自分を変えなければ。本当に大変なことになってしまう前に。

大好きなのに、嫌いと思い始めている自分が怖いから、1日も早く、この情けない依存症を克服したい。