6月上旬に…一番元気な苗のジニア・ネギ・パセリを来客(親戚)にあげたんだが,一か月ほどして会った時には全部枯れたと。「旅行に行ってたんでしょう。ごめんね,家を空ける可能性のある人にあげてしまって」と謝ると,いやずっと家にいたと。
(仕方なく)もう少し生長してこれまた一番いいパセリを植木鉢でプレゼントした。これが枯れたかどうかは,もう聞かない。
見せるだけ見せてあげないのはケチなようで,よかったら持って行ってといろいろあげるんだけど,育てられないならもらわないで欲しい,というのが本音。一番いい苗からあげているんです。欲しいと言われた訳ではないのにあげた私が言えることではないのは,十分わかっている。植物にも気の毒なことをした。これきりにします。...とここに書きつつ,またあげるんだろうな。人にどう思われるかを気にしないようになればどんなにラクになれることか。
別のアメリカ人にジニアの切り花もあげたりしたが,あまり長持ちしないで処分に至ったという。「水は毎日替えるんですよ」とアドバイスしたが,うーん。毎日水を替えるなんて当たり前のことだろうが,そうでないのか。
夫からは,あげたらその瞬間に忘れろと言われる。相手の反応はもちろん,その後のことなんて聞いてはいけない。
植物の種を育ててみてわかったのは,「たまたま私が店で買って来て育てたからここにある。誰かが買うこともあれば,私が種まきをしないことも失敗することだってあった。花や実をつけてくれて,昆虫もやって来た。植物とも縁があるんだなぁ」と。だから愛着もあるし,人にも大事にしてもらいたいなあという思いが強い。
アメリカ人は,ホントに何でもすぐに捨てるし,基本的にモノを大事にしない。確かに,買った物でももらった物でもどうしようが,本人の自由なんです。日本のようにお返し義務を伴わないので,つまり一方的にもらいっぱなしでいいこともあってか,要らない物でもどんどんもらう。ゴミの分別もラクだから(燃える・リサイクルの2択),捨てるのが簡単なことも拍車をかけるのだろう。その場をフレンドリーに保つのが得意な文化であり,ハグして大げさに喜びつつ別れたらポイと捨てたり(想像)。
たまにゴミのようなものをくれる人がいる。台所の棚を片付けていた時に出てきた使い古しのスポンジとか,亡くなった義母の家から出てきた色褪せた25セントの飾り物とか。要らないと言っているのに,気にしないでどうぞきっと使うわよとか(遠慮ではないのは明らか!)。こういうことができる間柄だと言えば聞こえはいいが,自分がどれだけ軽んじられているか思うと,虚しくなる。いつか夫も「えっ,これを?どうしてまた…何もくれなければいいのに。親切のつもりだと思うが,よけい惨めにさせる」と言っていた。あげればいいってモンじゃない。
食べ物でも,アメリカ人は「これあげるわ。食べないなら捨ててね」という。私の返事は,「食べ物は捨てません」か「ありがたいけれど,これは食べないのでもらわないでおく。誰か他の人にあげて」だ。断らないで喜んだふりしてもらうと,好きだと思われてまたくれるから。ある日本人はコーラが好きかとアメリカ人に聞かれ,ついYESと答えてしまったため,毎日コーラを飲むハメに(笑)。見てて気の毒になり断ればと言ってみたが,相手が気を悪くするからいいと言われた。そんなことはないのに。
私は人に食べ物をあげる時は「あなたがこれを好きかどうかはわからない。捨てるんだったら(私が食べるから)あげない」とハッキリ言う。言えるようになった。厳しいようだけど,捨てるとわかってる物でもうちがお金を出して買ったり作ったりした物だ。気を遣ってもらわれるのも困るし,要らない物をあげる必要はない。
いろんな効率を考えるお国柄なのに(返品制度や食べ物の持ち帰り等),もったいないという意識がないのはいまだに理解できない。(侵攻・天候不順・円安)に物価高で食料不足だから,無駄ばかりするアメリカ人も少しは考えを改めるとよい。
中国人の友人は元レストラン経営者でもあり,自分の食べ物に絶大な自信を持っている。まあ,そのくらいでないと商売はできない。自分の作るモノは全部皆が大好きだと思っているフシがあるので,嫌いなモノについては言い出せるはずがない。先日ようやく「パクチーは苦手」だと言った(正しくはテキストメッセージに書いたのだが)。渡米前からの付き合いだが,これを言うのに,20年ほどかかった。