「友情」でも「平和」でも,「絆」でもない。はたまた,「勇気」や「感謝」でも,「愛」でもない。
日本語力が極めて低い夫が最も好きな日本語…それは...
「sukeredomo/すけれども」。
「今朝は晴れていますけれども,午後からは雨になるでしょう」といった...まさかの,文の接続の一部分。
「『すけれども』って,すごくいいなあ!どういう意味?」と聞いてくる。一応説明するけれど,ピンと来ない様子で,また聞いてくる。「あっほら,また『すけれども』って言った。何度聞いてもいいなあ!」とか,「NHKのアナウンサーがすごい早口で言ったけど,ちゃんと聞き取ったぞ」とか...。
日本語がわからないと,よく耳にするそこだけを切り取って反応するのだな…。日本人の私は単語や内容に注力するために気にも留めないが,夫は確実に聞き取っている。内容はおいといて,「すけれども」のみに集中して二人でニュースを聞いてみても,私は何度も聞き逃すのである。「けれども」が来そうな文が始まるという予想はできるのに,だ。
で,一体「すけれども」のどこがいいのかと言えば,流れるようにスムーズでプロフェッショナルな響きが素晴らしいそうだ。意味ではなく,響き。発音がScared of allに似ているそうで(だから何なのだ)。確かに,くだけた日常会話では聞かないから,品格も感じるのだろう。
日本語がわからないのに,「yujo/友情」や「heiwa/平和」のような日本語が好きだと言えば,怪しい。嘘臭い。ストレート過ぎて返って薄っぺらい。愛や感謝に反論する人はいないことを知っているだけ。信頼できない。
同様に,私もfriendshipやpeaceといった単語ではなく,mosquito(蚊)やdiarrhea(下痢),constipation(便秘)といった英語の響きの方が断然好きである。モスキートはフランスのブランドっぽくオシャレだし,ダイアリーアの綴りこそ伝染病を思わせるが,リズミカルな音はシックで豪華である。コンスティペイションは,コンスティテューション(constitution/憲法)に似ているので,厳格でプロフェッショナルだ。
好きなものは,好きだというそれだけのこと。