夫にはバレンタインには,昔から「なーんにも要らない。内緒で買ったりとかダメ」と強調しているので,ホントに何も贈り物はない。それでいい,というかそれが良い。要る物は要る時に買う。バレンタインの日には欲しくならない。

 
まぁ,夫に花や装飾品をもらったとしても,SNSで公開しないけれど…。高級品は妬まれたり盗難の危険にさらされたりすることもあり,そもそもそういった金銭的な自慢は恥ずかしい。下品であり,イヤな感じを与えるだけ。イイネなんて思う訳がないし,嫌われるのは明らか。大事なプレゼントがあれば,見ず知らずの人に良し悪しを判断されたくないと思うが,そうでないんだろうなぁ...。プレゼントの背景もよく知らない他人のコメントは,大概的外れなのでは。

バレンタインデー待ってました!とばかりに公開するのは...うーん。バレンタインデーに何ももらっていない可哀そうな人というレッテルで結構...全く気にならない。
 
「バレンタインにもらった花」って…自分がどれだけ愛されているかを赤の他人にお伝えしたいのかな…何のために?いかに素敵な夫か恋人かをお知らせして承認欲求を満たすため?私の結婚や選んだ人は正しかったという確認を他人にしてもらいたいのか?夫婦2人だけがわかっていればいいことをわざわざ見ず知らずの他人に公開する辺り,満たされていないということをわざわざお知らせしているということ。それで満たされているので…何だかよくわからない。 
 
年に一回の大イベントなのに10本程度のバラでは映えないだろう(今のアメリカの物価上昇はヒドイ!)。10本なら愛情レベルが10というモノサシにも取られる。年の数というバラをどっさりもらっても年齢がバレるし手入れも大変だし,それに見合う素敵な花瓶もたくさんあるのか。
 
妻がSNSに花の画像を載せることを知っている夫は,きちんと花を贈ります。「夫が花を買い忘れたら今日の私のSNSに穴が開く」と気が気ではない奥さんのことを,ちゃんとわかってる気の利く夫。
 
明るい時間帯に花束を届け,妻は待ってましたとばかりに素早く太陽光で写真を撮って,人より先にSNSに載せる。それで,素敵なバレンタインが完成します。
 
もちろん,花は花でも,「妻が喜ぶ立派な花=SNS上で映える花」を贈らねば大変なことになることを心得ている。高価な花で本数も多く。間違っても,造花やお供え用,ましてやその辺で摘んだ花ではいけない(冬に自然に生えている花って何だろう)。友人との比較もあるし,去年のSNS画像も残っているので今年はグレードアップしていなければならぬ。
 
精神的な圧力をかけられて買う花。SNSでどれだけ気が利く夫かどうかが公開される。そういうふうにコントロールしてくる妻を夫はどう思ってるんだろう。こういうのが当たり前になっているから何とも思わないのかもしれないし,公開されることによって夫も承認欲求が満たされて嬉しいのかもしれない。プレイ感が否めない。うーん…。
 
自分で買った花で自作自演もできるし,いつの画像かも誰の画像かもわからなくてもSNSには投稿できる。エスカレートしていけば,こういう間違った方向に突き進み,SNSに支配されてゆく。そして,何を大事に生きているのか自分を見失ってしまう。
 
こういうことにいちいち振り回されるのは時間も無駄なので,気にしない・見ないのが一番でしょうねぇ。
 
まぁ…そもそも人に何か贈ってもらおうとか気づいてもらおうとか期待するのがモンダイ。そして自分が大事に扱われていないことを知ると,ガッカリしたり。意味もなく疲れます…期待しないとラクになる。
 
バレンタインに何か特別なことをしたければ,夫に花を贈るとかご馳走を作ったり自分で何か計画すればいい。開き直って,「夫に無理やり買わせた花」とか,「バレンタインの売れ残りセールの花束」とかいうタイトルの方が断然おもしろい。
 
実際,バレンタインデーが終われば店の関連商品は50~75%引きになり,最後には90%まで値が下がることも。むしろ早くバレンタインデーが終わらないかなーとさえ思う。年末にクリスマス後のセールで,ノーマン・ロックウェルのコーヒーカップ(ココア付き4つセット)を150円ほどで買った。今は,この異常なまでの物価高を何とか乗り越えたいところだし。
 
私は,バレンタインを忘れるくらいテキトウでザッとしている人が良い。サプライズイベントやプレゼントを綿密に計画するようなマメで無駄にお金を使う人はちょっと…。自分も気が利かないし,プレッシャーを与えたり与えられたりしたくない。何か要る時は要るってちゃんと前もって言います,がいい。
 
昔から夫が気が利かなくても全く気にならないが,気にならない妻がいることが理解できない人は多いのだろう。だから,SNSでうらやましがらせようとする。うらやましくないなんておかしいとか本心ではねたんでいるとか,強がっているとか。その思考が,理解できない人もいるということ。