私は,自分の記事に覚悟と責任を持って書いている。
感染者でも研究者でも医療従事者でもないのに,「ウィルスに勝つ」という言葉を使うことに,違和感を覚えないか。ワクチンができるなどしてこのウィルスで死亡する人がいなくなる時代が来たら,もしくは自分が感染しなかったら,「ウィルスに勝った」ことになるのだろうか。全世界で既に38万人近くも死亡しているのに。収束したとしても,諸手を挙げて万歳などできるわけがない。
ネット上で感染者数や死者数を報告することについて,アメリカ人の夫は「言論(表現)の自由が保障されているから,こういう人は法に反しているわけではない。無神経さとモラルの欠如」と。死に至ることも少なくないこの恐ろしい感染症で,毎日膨大な数の人が命を落としている。たとえ死者数を書かなくても,感染者だけがウィルスの死者になるという事実は明白。感染者数の報告にありがたいと思う人がいるとは考えにくく,不快感と恐怖心をあおっているだけだ。
「日本に住む日本人が,毎日SNS上で日本人の感染者数を報告する」と置き換えれば,これがどんなに道徳的でないかがわかるはず。ありえない。抗議が殺到するだろう。
中島みゆきの歌に「4.2.3.」という曲がある。1998年に発表された「私の子供になりなさい」というアルバム(英訳付き)の最後に収録されている。
歌詞はこうだ。「…日本人が助けられましたと興奮したリポート…人質が手を振っています元気そうです笑顔ですとリポートは続けられている…担架の上には黒くすすけた兵士…」。そして,「この国は危い…平和を望むと言いながら 日本と名の付いていないものにならば いくらだって冷たくなれるのだろう...慌てた時に 人は正体を顕すね」と続く。
SNS上で感染者数を報告することはこういうことだと,12分19秒に及ぶこの曲を思い出した。ジョージ・フロイド氏の事件後の抗議も,根本は同じだ。感染したのは日本人ではない。ウィルスで死亡したのは日本人ではない。差別されたのは日本人ではない。差別したのも日本人ではない。殺害されたのは日本人ではない。
「差別はいけません私は差別されたことがありません差別なんて見たことはありません周りに差別する人なんていませんそんな人いるんですか…暴動は怖いです商品を略奪されたお店の人はかわいそうです」,歌詞はこうだ。「私は感染していません私の周りにも感染者はいません収束を望みます支援金ありがとうございますでもボランティアはしません寄付金は出しません医療従事者がんばって下さい陰ながら応援しています…」。「書きたいことは書きますでも批判しないで下さい悪気があるわけではないのです誤解かもしれませんただ読み流して下さい」。
私は日本ではなく,アメリカに住まわせてもらっている。国籍や人種,宗教や生活習慣などが違う人たちと同じ国で共存している。日本人だからといって特別で何かしら優遇されることはない。みんなと同じだ。いろいろな人達のことを知りたいし,知らなければいけないと思う。知らなければ理解も尊重もできない。「旅の恥はかき捨て」と,いつまでもいいとこ取りの旅人気分ではいてはダメだ。権利だけではなく,義務と責任がある。発信することにも責任がある。
先日(5月28日)書いたが,杉山特命全権大使によるメールを読んだか。そして,ちゃんと理解・解釈したか。
感染・失業・憎しみであふれたアメリカは,これからどうなるのか。あらゆる人たちと協力し合って助け合わなければ,この困難を乗り越えることはできない。退職した医療従事者が大勢,現場にボランティアとして戻って来られている。暴動を収めるためにどれだけの人々が命をかけて安全を守ろうとしてくれているか。略奪や放火の映像を見て,「よそは大変だね」と傍観していないか。
ウィルス感染により,ミシガン州では多数の死者が出ている。全然知らない人の死。ホームレスだったり貧困のため等で,ネット上で何も発信したことのない人。ネット社会の現代において,SNS上で個人で何も発信しない人は,最初から社会に存在しなかったことになっていないか。生きている時も何も言わない。死んでも何も言わない。だから,十把一絡げで扱っても構わない…。日本人である前に,人間の心を失っていないか。
「死者100人以下だから少なくてよかった」と死に麻痺している恐ろしさ。それが自分の親だったら,自分の子どもだったら,それが自分自身だったら。知らない人にも家族があり,一人ひとりに人生のドラマがあったはずだ。どうして想像しない?
傍観者もいじめた人と変わらない。