もう10年くらい前のこと。日本食品店で買い物をしていたらアメリカ人女性に声をかけられた。塩と豆腐を探しているということで,どうも特別なメーカーか何かのよう。カリフォルニアに住んでいる日本人の友人が教えてくれた料理を,一人で作るのだという。一応どんなものを作るのか聞いてみたところ,「それなら,どの塩でも豆腐でも大丈夫でしょう」と思ってそれぞれの売り場に案内した。
確か,塩は一種類しか置いてなかったように思う。次に豆腐売り場に行って,探している豆腐に近そうなものをいくつか教えてみた。が,どうも納得がいっていない様子…。塩は世界中どこにでもあるから,「わざわざこれでなくても,普段使っているものでいいよ。例えばMorton(女の子が傘を指しているイラストのついた)とか」と言ってみたら,呆れたような顔で絶対に違うと言われた…。
それならと,「その日本人に今電話できれば,直接聞いてあげるよ」と申し出た。電話はすぐに通じた。
「塩は,沖縄の塩。〇〇というブランドの□□という商品。豆腐は,京都のもので商品名は△△」という説明。うーん…聞いたことない商品名だ。日本でも入手するのは難しそうな感じ…。
「そういうのはミシガンの日本食品店にはありません。似ているものはあるので,他のもので代用するように話しましょうか」
「いいえ,ダメです。それでないと作れません」
「…」
電話は終了。アメリカ人女性にこの会話の内容を告げると,ものすごくがっかりして店を出て行かれた。
その沖縄のナントカ塩と京都のカントカ豆腐で作った日本食は,すごーくおいしかったのだろうとは思う。友だちである日本人の手による日本食で愛情もこもっており,おいしさも倍増だったろう。しかし,カリフォルニアとミシガンの日本食事情は全く違う。塩は日本で購入されたものかもしれないし,ミシガンで入手できないことは予想しなかったのだろうか。余計なお世話だが,買えたところで日本料理を作ったことがないという彼女にそれを使いこなせるのかという疑問もある。代用品を提示してあげるのが親切ではないかと,残念な気持ちで後姿を見送った。
「この鍋でないとこの料理はおいしくできない」,「これと同じプリント布がないとバッグはできない」,「この道具がないとこのカードはできない」…そんなことはない。高級鍋や布を販売することが目的ならば話は別だが,代用品を提示してあげるのが思いやりであり,ものごとに柔軟に対応できる力だと思う。広く使えない物をいちいち準備していたら,お金も時間もかかる。せっかくのチャンスも逃すし,創造性や応用力を培うこともできない。「こだわり」は今では「シェフのこだわり」のようにいい響きで使われるようになっているが,以前は「頑固さ」を意味するマイナスの意味であった。
「常に一流のものを」という考え方もあろうが,子どもには子ども用の道具や材料があるように,初心者には初心者の道具や材料で十分だと思う。「ま,こんなもんでしょ」で次に進めばいいのである。