ずいぶん前のことですが,3年間の滞在でいらしていたある日本人(30歳前後か)に,「私って,まるで社長夫人みたいなお金持ちの生活をしているのよね」と言われ,私はただ唖然として「そうなんですか」とだけ答えました。

見た目や暮らしぶりによる表面的な基準で,お金持ちだと言われているのでしょうが…。私のような庶民からすると桁外れの人がアメリカには大勢います。

家についていえば,大富豪のお宅にはおじゃましたことはありません。しかし,これまで日本ではお邪魔したことのないような立派なお宅にも数軒行く機会はありました。

近所の友人(日本人ではない)宅は豪華でホテルにあるようなカーブした広い階段がエントランスから吹き抜けの2階へと続いています。当時は新築でしたので,まだ地下の内装はできておりませんでしたが,4人家族で1.2階のバスルームは計8つ。オフィス(仕事部屋)にも暖炉とシャワールームがついていました。アイランドテーブルのついたキッチンのコンロはお茶をわかすためだけのもので,隣部屋が料理用のキッチンでした。洗濯機は3台。1階と2階,そして料理用のキッチンにタオルを洗うための洗濯機がありました。そこで,中東料理を教えて頂いたことがあります。クリスマスツリーは,吹き抜けの天井まで届くもの(5mくらい)で,オーナメントはサッカーボールのような大きさのものが吊るされていました。まるでデパートにいるかのような大きさ!10月に飾り付けを始めて,2月に飾りを外すのだと言っていました。寝室も小学校の教室のような広さで,浴室とは別の部屋に奥さんがお化粧をするためだけの個室がありました。テーブルや椅子も特注(布やガラスのカット)の調度品をあつらえてあり,たいそう立派なお宅でした。

確かに,豪華な家に住んでいる人はお金持ちといえそうです。しかし,クレジットカード社会のアメリカでは返済能力がなくてもお金を借り続ける人も多くいますから,決して皆がそうとも言えません。

さらに,日本と違って住まいを何度も替えるアメリカでは,家の大きさは決して経済的な判断の指標にはなりません。ダウンサイジング(Downsizing)といって,家族の人数の増減や退職後などに,引っ越しをする人が多くいるからです。芝刈りや雪かきなどが不要なコンドミニアムに住むのです。私の知っている退職されコンドに住んでいる方々は,実は他にも貸しコンド等の不動産を所有したり,フロリダに別荘を持っていたり,ボランティアなど社会貢献をされたりしています。「一軒家に住めないのは貧しいから」という価値観はありません。

ワシントンDCの商務省に勤務している友人も,大きな家の他に何軒も家を貸しています。この人の家は,林の中の長い私有道路の先にあります。都会の喧騒を離れてひっそりとした林の奥に,数軒の大邸宅がちらほら見えます。たいていの日本人は「怖い」・「不便」・「田舎」といった感想を持つと思いますが,アメリカの富裕層は利便性よりもプライベートを重んじる人が多いそうです。「都会に家が持てないのは貧しい証拠」と思うかもしれませんが,車社会のアメリカには「駅(学校)から徒歩5分の立地」という価値観はなく,このような静かな場所の方がはるかに高級なのです。

ヨルダンに住む主人の友人の豪邸の中には,何と噴水があるそうです。もう少し中東の政情が安定すれば,是非行ってみたいと思っています。

このような規模の違いを聞くと,ちょっと裕福な日本人が競い合おうと考えること自体が到底無理な話です。競って勝ち負けがあったとしても,無意味なものですし…。日本はモノカルチャーであり,さらに狭い海外の日本人社会では,差異を出そうとして競うのでしょうかね…。

Keep up with the Jones:「経済的・社会的に人(よくある名字でジョーンズ一家)に負けまいと見栄を張る」という慣用句があります。誰かが「~というレストランに行った」,「~という高級バッグを買った」,「~に旅行した」…など。人がしたことが自分のしたいことではないのに,競ってしまう。

派手な金銭使いがお金持ちであると思っている人にとっては,うちの主人は恐ろしく貧乏です。カードもチェックも一切持たずに仕事に行き,財布の中身は何と1ドル札が一枚だったこともしばしば。「今どき小学生でも100円くらいはランドセルに入れているだろう!」と呆れました。しかし,本人は何も使わないから問題ないと全く気にしていない。確かに,自分が必要なければ使わないのです。

いくら誰かと競い合っても,その人がそばから離れれば(日本に帰国してしまえば)その競争は一応終わります。しかし,また新たな競争相手が現れれば,再び競わねばならない。その繰り返しです。周りに振り回されるむなしい人生です。

家と並んで,衣類が経済的な豊かさの指標にもならないということもよくわかりました。渡米した当初は,「穴の開いた服を着ているとは…購入できないのかそれとも無頓着なのか」と不思議に思いながら人を見ていたものですが,「金持ちほど洋服にこだわっていない」のです。よれよれの服やジャージでパーティに来ていたからといって,貧しいわけでは決してなくただ気にしていないだけ。人が何を着ているかなどの見た目は全く気にならなくなったので,今は純粋に会話を楽しむことができるようになったと思います。

家や衣服などの見た目で金銭的な豊かさは判断はできませんし,第一他人の家の経済事情はどうでもよいこと。心の豊かさが大事なのです。

「私ってお金持ち」や「うちの子の成績は優秀」,「うちの家族は高級品嗜好なの」など,日本の文化では他人にそのようなことを言うことは一般的ではありません。言うのは自由ですが,日本人の考えからして実はあまりいいことがない。誘拐や盗難にもあいそう。だからといって,好感を得るために必要以上に卑屈になることもない。

アメリカに来て知った単語の1つに,insecure(形容詞)というのがあります。不安定な・壊れやすいという意味です。人を形容する場合は「自信のなさ」。完璧主義だという方にも数名出合いましたが,自分を卑下する人よりもむしろ,自分を大きく見せようとする人は“She is insecure.”なので,生きるのが大変だろうと感じます。

どんな住まいだろうがどんな服だろうが,何を食べようが構わない。せっかく自由の国アメリカに住んでいるのに,狭い価値観に縛られるのはナンセンスです。判断したり決めつけたり(~しないのはおかしい/~ならば~のはずだ)されても,気にしないことです。自分は自分らしく,自然でいられるのが一番だと思います。