ここ2カ月くらいで、演劇に興味もって、
お金と時間の許す限りいろんなのを観てます(。・ω・)ノ゙
そして今日は東京原子核クラブ@六本木俳優座劇場
観てきましたあ!
これが演劇ってやつか…
と実感した作品でした。
まず舞台装置が豪華でした。
光の使い方や、音の使い方がすごくきれい。
朝の光、夕方の光、音のもすごく立体的だった。
そしてやっぱ役者さんです。
笑う、泣く、怒る、酔っぱらう…みごとに騙されたです。
プロだから当たり前っていえば終わりだけどさ。
今度またこの人たちが出てる芝居観たいな。
ストーリー的には、
マキノノゾミの97年の作品で
昭和の戦前から戦後にかけてのある下宿を舞台にした話なんだけど
表題通り「原子核」がテーマなだけに、
今回の原子力発電所の問題にも改めて目をむけさせられる話でした。
ああもう最高じゃ。
私もエネルギー爆発させたーーーーい!!!
東京サンシャインボーイズもいつか観たい。あと12年後まで休止とは。
私の青春時代には観れないのねー!!!
って思ってたらそのメンバーの相島 一之さんが
6月に
モリー・スウィニー
ってシアタートラムで出るらしい!!!!ヾ(@°▽°@)ノ
U24は正規価格の半額でチケット買えるとは。
学生ってなんて素敵な立場なんだ。
学生ってそんなすごいのか。
学生って何様なのか。
あやかります。
残り1年弱。
なんかなぁ。
私の大学生活というのは
1年目 サークル(ほぼ部活)
2年目 サークル(ほぼ部活)+留学のための語学勉強
3年目 フランスにて苦しむ。諦め、ネガティブ、胃が痛む、涙。
そうして4年目にしてやっと、
モラトリアムな、一人の時間多すぎの暇~~~な大学生になった。
毎日、
本が読める、映画が観れる、
大学生ってこんな暇なのか。
・・・・・・・ま、就活だけどね。
これさえ無ければ完璧なモラトリアム人間だったのに。
説明会や選考だけじゃなく、実際は
エントリーシートやら業界研究やらのほうに
莫大な時間がかかる。
SPIだけはフランスにいる間にやっといてヨカターーー\(^_^)/
ただでさえ留学後にはもう出遅れていたというのに。
なんかもうちょっと本とか読みたかったし
映画館でオールナイトとか、
大学生らしいモラトリアムなことしたかったぜ。
幸田文の。
「おとうと」の冒頭を読んでからというもの、
幸田文の文章を目にするとその随所から
葉に艶めく露の光だとか、露の匂いだとかが伝わってくるようになってしまった。
古き良き日本!!!ヽ(゚◇゚ )ノ生まれてないのに懐かしい。
日本人の女性なら読んでみるべきかも。
本題のおとうとなんですが…
初めて読んだとき、
主人公げん(碧郎の姉)と、高校時代の自分が、ピッタリと重なったのでした。
げんっていうのは幸田文自身を投影してるはず。
父は幸田露伴と同じく小説家で、毎日書斎で仕事ばかり。
母は血がつながっておらず、家族なのにどこか他人のよう。
しかもリュウマチを患っているので家事に不自由な分、
娘のげんがそのほとんどを担っている。
弟のお弁当を作ったり面倒を見たり…。
弟の碧郎がこれまた根がとてもいい子で!
純粋すぎてそれゆえにひょんなことから不良になってしまう。
そしてもともと病弱だったからか、結核にかかり、入院することに。
げんが碧郎を見る目はつねに温かい。
これは私も5歳下の弟がいるのでよくわかる。
しかも弟は今病気にかかっている。
そして私の母親も、病気を患っていて、
私が高校生の時、家事全般を任されていたことがある。(まあ血はつながってるけど)
今なら納得しているけど、
高校生の時は無性に悲しかった。
他の子は親にお弁当作ってもらったり
制服のアイロンかけてもらったりしてるのに…
病気の母親から、あんたはただの下僕だ、と言われた時は、
それを真に受けてしまったりして。私は家族に道具としてしか必要とされていないんだーって思った。
まあ今となっては、青かった自分、ドンマイwwwヽ(゜▽、゜)ノって感じですがw
碧郎が結核で入院するときのげんのやるせなさ。
医者からも、教養のある家庭で結核患者が出るのは残念なことだ、なんて言われて、
でも家族を責めてもどうしようもない。
うら若き乙女の青春の日々を投げ捨てて、弟の看病をすることになる。
病院の外からはいつも
「おやとこのおかせるつみ~」とか謎の呪文みたいなのが聞えてきて
げんを責めたてる。
それから、病院の「白」。
これもなんて圧迫的な色だろう。
死には逆らえない、すべての力を削ぎ落すような、無力感、虚脱感でいっぱいになるような色。
碧郎の病気はどんどん悪化していく。
周りの看護人たちがそれを隠そうとする中で、
碧郎は一番に死期が近いことを受け止めている。
その上で精一杯生きようとしてる。
それはまるで「赤」のイメージ。
げんが白にばかりとらわれているのに、碧郎は外にある赤いカンナの花に注目し、
同じ病院で亡くなった患者には
赤い花を見舞ってやってくれとげんに頼む。
赤は結核患者には失われていく一方の「血」の色でもあるし、
生への湧き上がるエネルギー、上昇の色でもあると思う。
でもどっちの色も悲しいよね。
赤は死が近いからこそ感じる色だし。
ほんとに切ない。このへんからずうっと涙が止まらんでしたよ…
そしてたどりつくは鍋焼きうどんのシーン…!!!
うおおおおおお。゚(T^T)゚。
久々に弟の意に沿った食事を作ってあげて、それを食べさせてあげる。
何口か食べたあと、弟は「ねえさんおあがりよ。」という。
一人で食べる食事の味気なさに気づいてあげられなかったげんは
謝って食べようとするが、
「いいんだってば。もう試験は済んだようなもんなんだ。――ねえさんて人がいいんだね。
それに較べるとおれは悪党だ。肺病が悪党なんだ。」
結核は伝染病。それを盾にして碧郎はげんをテストしたということ…
せつねえええええ
そしてそれを境に碧郎がげんに対してまるっきり素直になっちゃうのね。
私も、弟とはなかなか素直になれない関係で、
もっと素直になれたら楽なのにって思うことがよくある。
本当は愛情があるのに、私は弟の何の役にも立ってあげてないって思う。
それでいて変なとこで私が弱くて、甘やかしちゃうからな…
もっと私が強くならないといけないんだけど。
最後のシーンはリボンでげんと碧郎の手をつないで、
目が覚めたときにひっぱって起こせるようにするもの。
こないだの日曜ロードショーの山田洋次監督の『おとうと』でも
同じ演出だったので、(話はまったく別ものだけど)おぉっと思いました。
この夜で最期なんだよねぇ…
しかも碧郎が最後に目に映したのは血の繋がっていない母っていう…
きっと今までの碧郎への仕打ちを、すべて許したんだろうね…
それくらい、最後は気持ちが浄化してたってことかな。
家族ってなんだろうね。
血がつながってるから、
他の友達とかとは明らかに違う存在だって思うけど、
でも同時に
たかが家族って思うこともある。
家族だからって、わからないことってたくさんあるんじゃないかな。
たとえば親が私に言うことって、
一番私をわかっている人なんだから、信じて従おうっていう気になるんだけど
やっぱり「自分」にはかなわないときっていうのもある。
本当は、ごく普通の人間関係と同じように
もっと正面から、言葉と態度で示して付き合っていかないといけないものじゃないか。
感覚的なものに頼りすぎちゃいけないんじゃないか。
ああ、少なくとも、恥ずかしくて素直になることができなくても、
その裏の気持ちをくみ取ってあげることができたらなぁ。
「おとうと」の冒頭を読んでからというもの、
幸田文の文章を目にするとその随所から
葉に艶めく露の光だとか、露の匂いだとかが伝わってくるようになってしまった。
古き良き日本!!!ヽ(゚◇゚ )ノ生まれてないのに懐かしい。
日本人の女性なら読んでみるべきかも。
本題のおとうとなんですが…
初めて読んだとき、
主人公げん(碧郎の姉)と、高校時代の自分が、ピッタリと重なったのでした。
げんっていうのは幸田文自身を投影してるはず。
父は幸田露伴と同じく小説家で、毎日書斎で仕事ばかり。
母は血がつながっておらず、家族なのにどこか他人のよう。
しかもリュウマチを患っているので家事に不自由な分、
娘のげんがそのほとんどを担っている。
弟のお弁当を作ったり面倒を見たり…。
弟の碧郎がこれまた根がとてもいい子で!
純粋すぎてそれゆえにひょんなことから不良になってしまう。
そしてもともと病弱だったからか、結核にかかり、入院することに。
げんが碧郎を見る目はつねに温かい。
これは私も5歳下の弟がいるのでよくわかる。
しかも弟は今病気にかかっている。
そして私の母親も、病気を患っていて、
私が高校生の時、家事全般を任されていたことがある。(まあ血はつながってるけど)
今なら納得しているけど、
高校生の時は無性に悲しかった。
他の子は親にお弁当作ってもらったり
制服のアイロンかけてもらったりしてるのに…
病気の母親から、あんたはただの下僕だ、と言われた時は、
それを真に受けてしまったりして。私は家族に道具としてしか必要とされていないんだーって思った。
まあ今となっては、青かった自分、ドンマイwwwヽ(゜▽、゜)ノって感じですがw
碧郎が結核で入院するときのげんのやるせなさ。
医者からも、教養のある家庭で結核患者が出るのは残念なことだ、なんて言われて、
でも家族を責めてもどうしようもない。
うら若き乙女の青春の日々を投げ捨てて、弟の看病をすることになる。
病院の外からはいつも
「おやとこのおかせるつみ~」とか謎の呪文みたいなのが聞えてきて
げんを責めたてる。
それから、病院の「白」。
これもなんて圧迫的な色だろう。
死には逆らえない、すべての力を削ぎ落すような、無力感、虚脱感でいっぱいになるような色。
碧郎の病気はどんどん悪化していく。
周りの看護人たちがそれを隠そうとする中で、
碧郎は一番に死期が近いことを受け止めている。
その上で精一杯生きようとしてる。
それはまるで「赤」のイメージ。
げんが白にばかりとらわれているのに、碧郎は外にある赤いカンナの花に注目し、
同じ病院で亡くなった患者には
赤い花を見舞ってやってくれとげんに頼む。
赤は結核患者には失われていく一方の「血」の色でもあるし、
生への湧き上がるエネルギー、上昇の色でもあると思う。
でもどっちの色も悲しいよね。
赤は死が近いからこそ感じる色だし。
ほんとに切ない。このへんからずうっと涙が止まらんでしたよ…
そしてたどりつくは鍋焼きうどんのシーン…!!!
うおおおおおお。゚(T^T)゚。
久々に弟の意に沿った食事を作ってあげて、それを食べさせてあげる。
何口か食べたあと、弟は「ねえさんおあがりよ。」という。
一人で食べる食事の味気なさに気づいてあげられなかったげんは
謝って食べようとするが、
「いいんだってば。もう試験は済んだようなもんなんだ。――ねえさんて人がいいんだね。
それに較べるとおれは悪党だ。肺病が悪党なんだ。」
結核は伝染病。それを盾にして碧郎はげんをテストしたということ…
せつねえええええ
そしてそれを境に碧郎がげんに対してまるっきり素直になっちゃうのね。
私も、弟とはなかなか素直になれない関係で、
もっと素直になれたら楽なのにって思うことがよくある。
本当は愛情があるのに、私は弟の何の役にも立ってあげてないって思う。
それでいて変なとこで私が弱くて、甘やかしちゃうからな…
もっと私が強くならないといけないんだけど。
最後のシーンはリボンでげんと碧郎の手をつないで、
目が覚めたときにひっぱって起こせるようにするもの。
こないだの日曜ロードショーの山田洋次監督の『おとうと』でも
同じ演出だったので、(話はまったく別ものだけど)おぉっと思いました。
この夜で最期なんだよねぇ…
しかも碧郎が最後に目に映したのは血の繋がっていない母っていう…
きっと今までの碧郎への仕打ちを、すべて許したんだろうね…
それくらい、最後は気持ちが浄化してたってことかな。
家族ってなんだろうね。
血がつながってるから、
他の友達とかとは明らかに違う存在だって思うけど、
でも同時に
たかが家族って思うこともある。
家族だからって、わからないことってたくさんあるんじゃないかな。
たとえば親が私に言うことって、
一番私をわかっている人なんだから、信じて従おうっていう気になるんだけど
やっぱり「自分」にはかなわないときっていうのもある。
本当は、ごく普通の人間関係と同じように
もっと正面から、言葉と態度で示して付き合っていかないといけないものじゃないか。
感覚的なものに頼りすぎちゃいけないんじゃないか。
ああ、少なくとも、恥ずかしくて素直になることができなくても、
その裏の気持ちをくみ取ってあげることができたらなぁ。
今までやっていた就活がすべて途絶えた。
持ち駒も、モチベーションも、ゼロになった。
また1からの出直しである。
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
私は今まで
「働くとしたら、自分は何をしたいか」
という考え方だった。
それでいくと、ずっと自分に対して疑ってばかりの就活だった。
「自分が何をしたいから、そのためにどうやって働くか」
これじゃないとダメだ。モチベーション無くなるのも当たり前だわ。
気付くのが遅かった。
私はいつもそうなんだ。馬鹿だなあ。
心の中で納得のいかないまま就活していて、
いつも
「私がやりたいのはこんなことじゃないはずだ」
って思ってた。
もうひとつ私の心の中にあったものは
「私は人を感動させたい」
という思いだった。
考えてみれば、
中学では合唱、高校ではミュージカル、大学ではゴスペルやR&B…と、ずっと、
「人を感動させるにはどうしたらいいか」
ということを追求してきた自分がいたんだな。
感動させるって、つまり、人の心を動かすって、本当に難しい。
大学のサークルでは、カバー曲をやっていたけど、
私たちはとにかく
本物に近づけることを追求していた気がする。
どうしたらそのアーティストのように聞こえるか
真似することに一生懸命になりすぎた。
でもお客さんにしてみれば、そんなもの聞くぐらいだったら、
そのアーティストのライブやCD聞いたほうがずっといいって思うに決まってる。
そんなことじゃ人は感動しない。
高校のときのミュージカルでは、
内輪でパロディー劇みたいなものをやったことがあった。
あれも、外のお客さんにとっては絶対につまらないものだ。
なぜなら、与える側、つまり表現者にとってのお客さんの中に知らない人がいないから
プレッシャーがない。
だから演技をする際、気力がなくなって楽(ラク)である。
そういう演技は、たとえどんなに表現技術が巧みであっても、
観客にとっては全く面白みのないものになる。
小手先の技術じゃない。
それから、フランスに留学して最後の月…
毎月、フランス人同士のお茶会・懇談会のようなものに
なぜか居座っていた私に、
「お別れの前に、日本に帰ってからの決意表明のスピーチをしてほしい」
と頼まれた。
1年間もいたのに全然上達しなかったフランス語で、
必死に、普段伝えられなかった感情や、感謝の気持ちを文面に起こして準備した。
感動させようなんて気持ちはさらさらなかった。
焦燥感でいっぱいでスピーチした。冷や汗をかいて声も震えた。
なのに、終了後みんな褒めてくれた。
心から感動してくれたようで、私は思ってもなかったことでびっくりした。
本当に人が感動する時っていうのは、
与える側が、「本気」になることだと思う。
ドラッガーでいうと真摯さというものですか…
本気と書いてマジと読むってやつですか…
コメディーにしろお笑いにしろ、ただふざけてちゃ全然面白くない。
プロってみんな本気だからこそ面白いんだと思う。
三谷幸喜の喜劇もね!
自分が本気になることが、結果的に人を感動させる。
ただ、この「本気」って、
相当エネルギーの必要なことだ。
まったくもって楽(ラク)じゃない。正直ツライ。
でも、楽(たの)しい。
それは私が今までの人生で身を持って経験したことだからわかる。
…はあ。結局何が言いたいかわからんくなってきたぞ。ヽ(;´ω`)ノ
まだまだ感動させることについては模索中です。
私にとっては、この本気っていうのが理想の将来像にもつながっていたりする。
本気になって遊べる大人っていうのに私はすごく憧れる。
あと、地位とか肩書を抜きにして正々堂々と自信を持てる人。
自分の信念に従って正悪を見極めて判断できる人。
この就活で散々、いつまでも学生気分のアマちゃんだーとか何とか、
世間はそんなにあまくないんだよー、あーやっぱりねー…とか気付いたわけですけど、
そんなことに気付くために就活やってるんじゃないんだよ。
そんな世知辛い世の中でも、すがりついていきたい何かを見つけたいんだよ。
生きていく希望を。ああやっぱり生きてるといいことあるなって思える生きがいを。
だからね、学生にアマちゃんだとか世間知らずとかいう言葉を無責任投下しないでほしい。
またスタートしなきゃなぁ。
東北復興のためにも
長期的な目で見て、まず自分が希望を持って一生懸命生きることだ。
そしてこれからの世代に受け継ぐことだ。
