こんにちは、紅氏です❣️

タイトル通り全く趣味は関係ありません(´>ω∂`)

真剣にお話したいタイトルです。


あくまでも私の経験ですし

長くなるので、

本当に興味のある方だけ読んでください。



あなたは周囲にうつ病患者、いますか?

いない方
→今までたまたまいなかっただけです。

いる方
→その人をどう思いますか?


私がこの病気を患う以前、

「うつ病なんか気のせい」
「気に入らないことは潰せばいい」
「弱気だからいけないんだ」
「言いたいことは言えばいいのに」

と思っていました。

気のせい以外は

あながち間違えでもないと思いますが、

子どもだったなぁと。



大人になれば、

「潰せないものだらけ」
「潰される側」
「上下関係」

ばかりで、

持ち前の周囲の目の気にしなさも

高校生になるとなくなってしまいました。


かと言ってみんな同じ子どもだった

わけではないものです。


負けず嫌いで他人を認めるくらいなら
自分が努力してそんなの超えてやる。

言いたいことを言う権利は作るもの。

なんて過激すぎる思考なお子さんは

どれだけいたでしょうか。


今考えれば、知らないフリして

可愛がられた方が得だなぁなんて。



それはさておき、

今年24歳になる私は18歳で

うつ病になりました。

未だ治らず苦労します。


きっかけは、


①学費で親から大学進学を拒否された

奨学金ダメ、住んでる市内
の専門学校で教員に知り合いがいない

条件を満たしている学校は1校だけ。

決まっていたようなものでした。

しかも私の入学の年から、

学校の規模を広げまだ基盤が

成り立っていませんでした。

勉強は楽しかったです。


けれど人数の割に道具が足りない。

道具が回りきらず遅れれば

先生に理不尽に怒られる。


偏差値の低い学校で、

出身の高校から20低い学校から

進学してくる人が大多数なので

会話の噛み合う人がいない。


進学先でのうつポイントは2つでした。



②とにかく多忙

凄まじかったです。

1日眠れて3時間でした。


学校終わっても18時まで

実習の練習に付き合わないと

仲間はずれにされる。


18:30〜22:00までアルバイト。

アルバイトのない日は、

当日フリーターで暇な

付き合っていた元夫と

会わないと怒られるので出かける。
(そこで別れればと後悔しました。)
(出会いなく必死でした。)


アルバイトや会った後は3時まで課題。

朝6時起床でした。

課題も半端ない量です。

眠れない日もあったけれど、

何とか終わりましたが

アルバイトをしていなくても

終わらない人もたくさんいました。

頑張った方だと思います。


土日はアルバイトと教習所。。。

休める日がありませんでした。


アルバイト、元夫、課題、教習所

の4つがうつポイントでした。



③お金で揉める

アルバイト辞めればいいのに

って思った方もいるかもしれません。

辞められない理由はここでした。


親が教材費を払ってくれない。

何に追い詰められていたのか知りません。

学校の入学費、学費、教習所代、

全てお祖母様が出してくれました。


テキストや道具を頼んでも、

父「いいよ、お母さんに言いなさい。」
母「また必要なものがあるの?
      本当にお金かかって嫌になるわ」

と両親の意見も合わず、

一銭も払わないくせに教材ですら

渋られ嫌味を言われながら

ようやく買ってもらえるかどうかでした。

とてもストレスで自分で買うことにしました。


家族関係、金銭面での嫌味

この2つがうつポイントでした。



合わせると8つうつポイントです。


アルバイト、教習所、
家族関係、金銭面での嫌味

ここだけは親の協力あれば

何とかなったのではないか

と今でも思います。


元夫だけは自力で捨てればよかったと

反省しています。



そもそも専門学校、

学業専念の為アルバイト禁止でした。

奨学金がダメで教材費も払わないなら

自分でアルバイトしなければ

学校で必要なものすら買えない。


教習所だって強制でした。

両親は何故か
「教習所通わせなきゃ
いけないのにお金が足りない」

と揉めていて、

「忙しいし無理に今通う必要ない」

と言っても大人たちが

誰が払うかで揉めていました。




最終的に入学後3ヶ月で全く

疲れ果て何もかもどうでもよくなり

とりあえず眠たい身体動かないで

そのまま出席日数足りなくなって

留年しても辞めても額が変わらないと

両親は私の退学を決めました。


小さい頃から虐待を受けた挙句、

確実に半分は親のせいで病気になりました。


学校で人間関係や手際の悪さ、課題、

付き合っていた彼氏が構ってちゃんだった

ここは私がどうにかする場面です。

それは認めます。


けれど家族の残り4つ問題

これ被らなければ、

学校の課題なんてどうにもなりました。



もっと酷かったのは退学後。

動かなくなる直前から闘病状態でした。

構ってちゃんながら心配してくれた

元夫の付き添いで身体の不調検査に

行きました。


親は体調悪いことを否定し

病院通いを怒られ、

学校、教習所に行けと言われました。


教習所ではぼーっとしてて運転は危ないと

体調不良で止められた日だってあります。


その時はうつ病で体調不良とは

思っていませんでした。

どこの内科も異常なし。

ある日ある内科に行ったところ、

「それは内科じゃなくて
   心療内科に行ってください。」

と言われて度肝を抜かれました。


心療内科?偏見だ!

これだけ具合い悪い。

何かしら重い病気があるんだ。

そんな「心の病気」に

努力家の自分が負けず嫌いが

なるわけがない。

「心の病気」がこんなにつらいわけない。


ともう表情にも出せず心で激怒。

行くだけ行こうと元夫に説得され、

さすがに母が参上し心療内科受診したところ

「軽いうつ病です。」

との診断でした。

母は怒りながら号泣してわけがわかりません。


そんなのうつならどうしたらいいか

わからないし、何をしたらすぐ治るのか

ネットで検索し絶望。


もう通院もつらい、動けない、寝たい。

立ってるとふらつく、座っても

血の気が引いてきて

横にならないとつらい。


5月半ばにうつ病診断、

その後7月末までほとんど

布団で寝たきりで過ごしました。


さらにつらかったのが、

7/1に退学した後家族は私を

「ニート」と呼びました。

誰のせいでなったと思ってる?

とモヤモヤ嫌な思いしながらも

怠け者と怒鳴られて悲しくても

初めのうちは怒る気力もありませんでした。



本当の地獄はここからでした。



うつも良くならない7月下旬、

またまた強制的にアルバイト。

引きこもりにならないように

だったらしいです。

周りは心配に思うかもしれません。

しかし本人は
「疲れているから休んでいる」
のです。

今までの蓄積された疲れを

取りきるには
その倍どころの時間で済みません。


とにかくその時に、お祖母様のお金

これ以上無駄にしないという思いだけで

疲れを我慢し免許を取りました。


少し元気になった夏にはバイト代で

とにかく友だちと遊びました。


そしたらある日すんごく父に怒られました。

突然、
「少し家事でもしたらどうなんだ、
     嫁に行って恥ずかしい思いをするぞ。」

と言われました。


中学生の頃、

母が仕事と遊びで家にいなかったので

一通りの家事はできました。

「お母さんが家事しなかったお陰で
      最小限の家事なら
            あんたよりよっぽどできるけれど?」

とようやく言えるようになった嫌味を

言ったらぶちギレられましたw

「本音を言うぞ。
     お前はいつまでそうやって
      病気って言い訳して自立しないんだよ!」

って怒鳴られました。

心外でした。

若いのに遊ぶ気力もなくなってしまった。

怒る気力もなくなってしまった。


親のせいで。


親のせいでできなくなったのに

自分で努力して

私なりにできなくなってしまった、

アルバイトであったり外出であったり

人との関わりというものを

必死で取り返していたつもりでした。


遊ぶのも必死だった私は、

涙が止まりませんでした。

久しぶりに本気で怒れました。


「誰の努力の怠りで、
    子ども自分たちが勝手に沢山産んだくせに」

「そんな責任も自分でとれないくせに」

「私がどれだけ嫌な思いをし続け
    反論する気力もなく黙って聞いて」

「お前たちのせいでなった病気と
    頑張って闘っていると思っているんだよ!」


頭は大混乱でしたが、

今でも言ったことそのままでなくとも

内容、そして文脈が成り立たない言葉を

発したのははっきり覚えています。


図星&それでもうつが理解できない両親は

逆上しました。

「じゃあお前はいつまで
     親のスネかじって生きるつもりだ?」

即答しました。

「22歳まで。
      大学行かせてくれなかったけれど
       1万歩譲って同級生が大学卒業する
            22歳までにしてやるよ!」

「お前らは何とも思わないのか?」

「自分の親に子の学費教習代払わせて、
    そんなお前らが自立してんのか答えろ!」

って言ったら両親は怒りつつも

私に対して何も言い返せませんでした。


その後18〜19歳になる年は

必死にバイトして必死に就活しました。


その頃、障害者でなかった私は

もちろん自分が障害者に1歩ずつ

足を踏み入れていることも知らず、

自分=障害者になるだろうなんて

障害者という言葉も微塵も浮かばず。


19〜20歳になる年で前職に就職しました。

20〜21歳になる年で少しお金が貯まったので

嫌で仕方ない実家をさっさと出ました。


その後は望まない結婚だったり、

結局元夫からもモラハラだらけ、

職場ではセクハラ。


うつ病も徐々に悪化し躁鬱になり

その状態で元夫が放棄した義母と

母が放棄した祖母の介護をし、

またストレスと疲れを溜め込み

仕事をやめました。

祖母が亡くなる1か月前に
突如意識を失い痙攣。


祖母が亡くなる10日前に

意識障害ありの痙攣を起こし、

癲癇発作と認定されて障害者になりました。


さすがに現在両親は

私に対して酷いことを言いません。

1度嫁にいってしっかり自立し
(私が就活の間に元夫は警察官になりました)

嫁入り先は義父は難聴のフリで

私より酷い躁鬱だった義母をシカト。


義父も元夫も協力せず義母の介護疲れで

元夫の姉が行方不明になるような家。


それでも自分が躁鬱で同情した私は

治療と仕事と家事と介護。

更には自分の母が放棄した祖母までもです。


今両親は私を責める資格などないのです。

元々ないことを気づかず嫌な思い、

たくさんさせられましたけれどね。




ここまでが理解されない病気を負った

私が体験したことです。


病気になってこれだけ嫌な思いを

することがあるんです。


だからこそ私が大切にしている人に

自分と同じ目にあってほしくない。


心のそこから願っています。。。