予言した国内の

予言した国内の

これまでの経験則からそうしたことが言えるのだそうだ

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あまり公言してきていないが、私は寺尾聰が好きだ。
そういえば、時折ハバナエクスプレス歌ってたなぁと、お気づきの人もいるかもしれないが若かりし頃、今もそうだがお小遣いないのに、シングルカットされた45ppmのレコードを買って擦り切れるまで聴いていたもんだ。
その寺尾聰の出演する映画で、阿弥陀堂だよりというものがある。
上田孝夫という主人公役を、寺尾聰が演じているんだな。
映画のあらすじ紹介では、心を病んだ妻を連れて帰郷した夫と、阿弥陀堂を守る老女との交流を描く。
と紹介されているが、この映画には、失われつつある楠木友里日本の原風景と、その里山へ帰って暮らす医師樋口可南子と売れない作家の主人公寺尾聰のスローライフな生き様が、物静かで、それでいて鮮やかに描かれている。
あぁ、そうだ。
胸を打たれた。
10年ほど前、一人で見に行った映画館で、気づけばその映像美に気づけば涙していた。
思えば、この頃から田舎に戻ろうと考えていたのかもしれないな。
だが、頑なに拒否して荒れるカミさんの手前、言い出せずにいた。
カミさんとうちの両親の性格やら考え方が全く乖離していたので、男にしてみればどうでもいいようなことでも、嫁姑の間ではとんでもない乖離だったのだろう。
そんな中で、婿養子に行った元同級生からの婿入り先会社の立て直しに手を貸して欲しいという言葉に、当時も今と同じく、次の仕事を何にしようか考えていた矢先たっだので、二つ返事でOKして岐阜県までやってきたんだったな。
渡りに船とはこのことだ。
岐阜はその元同級生がディレクターやっていた番組で、一緒にTVロケで廻ったところだったので、懐かしくもあった。
高山は版画の宿に泊まり、陣屋の朝一に屋台会館、平湯の孫六温泉にをめぐり、朝日村の野麦峠に登り、ワイドビュー飛騨にのり、下呂温泉めぐりを、女優島かおりさんとまわった。
当時は岐阜に住むなんて、夢にも思わなかったが、人生とは不思議なめぐりあわせの連続だ。
だから、思わずやってきた土地だというのに、若い頃にそんなこともあったためなのか、流れてきた土地という気がしない。
地元の町興しなどで、地元民面して躍起になっているのも、うちのチビが子供時代にその土地で豊かな思い出で過ごして欲しいという情操教育的な側面もあったが、何より自分が子供時代に楽しんでいたことを体験させたかったというのもあった。
仮住まいの土地で、地縁なんてつくるもんでないというカミさんとここでも真っ向から追突したので、夫婦仲は一向によくなる傾向もなかったが、ギリギリのさじ加減で、子供と一緒に遊べたのはよかったな。
自分の子だから当然といえば当然なんだが、考え方から行動パターンまで、うちの子がまるで自分の子供時代と同じでいるところ、子育ては環境とその接し方にあるんだな。
と実感できる。
故郷はもう、失われたと思った。
行った先び元同級生の会社は、自動車生産部品の町工場だった。
私がその会社に入った年を底に、右肩上がり続きだった経営も、円高による部品調達先の海外移転に加えて、某豊田市の大企業が大規模なリコールの煽りを受けて、会社も大幅に事業縮小せざるを得なかったこともあって、失速。
やりたいこともあったし、お世話になった会社を離れたのが2011年の1月末。
故郷に帰って半粕シXでもしながら、町興しとか、実家の設計事務所の仕事とかいろいろ考えてみると、少しは萩ニのことをやってから帰省しても遅くはない。
実家に帰るなら子供つれて勝手にどうぞと、カミさんは頑なにそうなったら本当に離婚できると嬉々としていた笑が、311あっさりその人生案は失われた。
公メディアニュースではなんの報道もされないが、地元発信のブログなどでは、地元のほうれん草が水洗いしたのにメーター振り切っていたために全量出荷停止となった、あの原発事故の後遺症を見聞きするに、もう、フクシマ原発のすぐ南にある故郷には、もう子供連れて戻れないと思った。
まさかの故郷消失。
高齢化してやがて仕事もなくなるだろうに、いつまでもこの賃貸マンション暮らしもできまい。
いずれ故郷にと思っていたこともあるが、戻れないともなると、この先どこへ行くのやら。
事故で実際に被災された方たちよりは、まだはるかに恵まれているとは言え、日本全国では、これからのことを思いっきり方向転換せざるを得ない人がどれほどいらっしゃるんだろうか。
という気持ちにいるときに、政治家の後手後手な対策やらぶざまな姿を見ると、ますます国政を信じられなくなってしまうから困ったもんだ。
いっそ、混乱させるくらいなら、外国に媚売るような政策などせず、両目を潰して、なにもしないでほしいものだ。
あ。
野田くん、わかってらっしゃる。
だから両目眼帯したのかな笑。
まぁ、寺尾聰の話からだいぶ逸れた半粕シXのくらしを実践している人のセミナーを聞きにいったあたりからなんとなくくすぶり出した想い。
映画では、田舎出身の売れない作家が、心身を患っている女医を連れて故郷の寒村に戻るところが描かれているが、寒村に身をおいて、目の前の、今自分ができることをコツコツとこなし、無いものねだりをせず、あるもの探しで満足するマインドを描いている様は、まさに知足の精吹B
遠回りしてきたが、皮肉にも震災のおかげで、そういうマインドを思い出させてもらったようなものだ。
小水力発電など、エネルギーの地産地消の素地ができつつある今、街を捨て、原発を廃し、己と向き合う暮らしをもういちど再確認する時代がそこまで来ているような気がする。
阿弥陀堂だよりあみだどうだよりは、南木佳士の小説を原作としたもので、この医師であり作家である生き様も、現代社会の病理を描いているような気がする。
この作家は世間の評価を期待して書いてない。
自分に向き合って書かれたものが、たまたま映画になっただけのことと思い、映画化に関してはなんの関心も持たずにいたそうだ。
台本もシナリオも見ない。
完成試写会にも行かない。
渋々と、原作者としての思いを映画パンフレットに短く記しただけだった。
その生き様が、すべてを語っている。
どんなものであれ、すべては、自分のための生き方の実践なんだ。
ほかのひとがそれをどう解釈し、どう映像化したかに、自分の意見を出さない。
この作品もそうだ。
表現したい想いはあるにしろ、それを押し付けようとしない。
そんな原作者の姿勢にも共感できた。
政治家のこうであるべきだは傲慢だ。
枠を決めて国民を押し込み、その中でやらせてコントロールする様は、まるで国民ブロイラーだ。
養鶏場と変わらない。
飼い主を襲う鶏は裁かれ、おとなしい鶏たちには海外から安く持ち込んだ薬づけの餌を与え、病気予防にと西洋医学でまた薬漬けし、気力のない烏合の衆を育て、メと烙印押した弱者を切り捨て、優れたものを国外へ出荷し、その対価でまた国民ブロイラーを発展させる。
そんな政策に見えなくもない。
日本らしい生き方をさせない国策もよろしくない。
萩ニ政策にしても萩ヲに丸投げするような政策で、何が政治家だ。
やる気のある秤ニにやらせろ。
もう皇室と国民だけでいい。
国会議員も県会議員も無能な役人は不要だ。
つぶやくような憤りと、なつかしい映画を、ふと思い出した朝。
映画阿弥陀堂だより2002年10月5日、東宝系公開。
監督脚本小泉堯史音楽加古隆上田孝夫寺尾聰上田美智子樋口可南子幸田重長田村高廣幸田ヨネ香川京子助役井川比佐志小百合小西真奈美中村医師吉岡秀隆おうめ婆さん北林谷栄阿弥陀堂だよりキャスト紹介画像群hljasitewebhpprmdimvnsotbmischtbousourceunivsaXeiDNMpTTkFYeGmQWntdCkAwsqi2ved0CFsQsAQbiw1613bih865