2024年JAF全日本ラリー選手権第8戦(最終戦)

「第51回MCSCラリーハイランドマスターズ2024」

 

『旅の途中』

 

10月14日(月)朝タカタ全日本ダートラ取材から帰ってきて、

WEB掲載も終わらないうちに、17日(木)の夜、

全日本ラリー選手権第8戦(最終戦)の開催地、高山に向かいました。

勿論下道。行きは野麦峠経由。

14時までにはラリーHQに着かないといけないので、あまり寄り道はできませんでした。

 

 

 

 

1 道の駅はくしゅう(山梨県北杜市)

 

自宅を出て3時間半。道の駅はくしゅう。

「南アルプスの天然水」はサントリーの商品。

こちらは「南アルプスの美味しい天然水」。ボトルに詰めました。

 

 

昼間の写真拝借

 

 

この日は更に2時間走って塩尻の道の駅で車中泊。(写真なし)

 

 

2 新島々の野菜直売所(長野県安曇野市)

 

 どれでも1袋税込100円。お値打ちと思い3袋買いました。

 

 

 

 

 

 

4 「アクティブプラザ アルプスの郷」

 

翌日14日(金)朝 休憩兼朝ごはん。 

 

 

 

ここは数年前まで「村の駅 アルプスの郷」(写真は8年前)でした。

 

トイレのコンセントがなんでこんなに多いのか?不思議です。

 

 

5 野麦峠

 

野麦街道

 

松本市街地から車でアルプスエリアにある奈川地区を通る主要地方道39号奈川野麦高根線
野麦街道を走り、野麦峠を目指しました。

 

 

 

 

 

旧野麦街道入口

北アルプスを越える峠道でよく利用される野麦街道は、野麦峠を経て飛騨に出るルートです。
松本平や伊那の人々の正月にかかせない飛騨鰤(ぶり)を運んだので

別名「鰤街道」と呼ばれています。

 

 

 


 

 

 野麦峠

 

野麦峠は長野県・岐阜県の県境。

明治~大正時代、信州へ糸ひき稼ぎに行った飛騨の若い娘達が、

吹雪の中を命がけで通った野麦街道の標高1672mの難所。

かつて13歳前後の娘達が列をなしてこの峠を越え、

岡谷、諏訪の製糸工場へと向かいました。

故郷へ帰る年の暮れには、雪の降り積もる険しい道中で、

郷里の親に会うことも出来ず死んでいった娘たちも数多いと言われています。

 

 

 

 

 

 

野麦峠側の野麦街道

 

 

 

お助け小屋

この峠には「お助け茶屋」と呼ばれる茶屋があり、

旅人は疲れた体を休め、クマザサの生い茂る峠を信州へ、飛騨へと下っていったのです。

ノンフィクション「ああ野麦峠」で知られ、

女工哀史を語るうえで悲しい物語を秘めた所でもあります。

お助け小屋の由来は江戸時代にさかのぼります。

「厳しい峠越えにより命を落とす者が多いことから、小屋を建て、番人を置き、

峠越えをする者を救いたい」という願いを幕府が聞き入れ、

天保12年(1841)に建てられました。

雪の峠を越えた女工達が体を休めたのも、このお助け小屋です。

現在のお助け小屋は、昭和45年に野麦集落の古い家屋を移築したものです。

 

 

 

 

内部

 

「あゝ野麦峠」は、明治時代、長野県岡谷市にある製系工場に岐阜県飛騨地方から

野麦峠を越えて働きに出た少女たちの姿を描く山本茂実原作の映画で、

1979年に製作されました。

 

  

 

当時の女工さんのレプリカ


 

 

 

帰路

 

すべての行事が終わって17時に位山を出発。

長峰峠経由で下道を行き、300㎞を休憩・寄り道を含め

7時間半で横浜の自宅に24時30分着。お疲れ様でした。

 

 

辰野駅

 

帰路、辰野駅で辰野町に住む現役サイクリストの井上偉雄さんと待ち合わせすることにしました。

 

 

 

 

井上さん(写真中)とは昨年10月高山の全日本ラリ-に行くときに野麦峠で出会いました。

 

小生も30歳まではサイクリストでしたので、

小生と同年代の井上さんのいまだ現役に感服した次第です。

 

 

 

辰野駅には思い出があります。

中央本線の岡谷~塩尻間は、かつては急こう配の長いトンネルを掘る技術がなかったため、

辰野駅経由がメインルートでした。

小生も学生時代松本方面に行くとき辰野駅経由だったことで懐かしく覚えました。

1983(昭和58)年に塩嶺トンネル経由の新ルートが開業したので、

現在は特急「あずさ」や多くの普通列車が塩嶺トンネル経由のルートを走行しています。