2023年JAF全日本ダートトライアル選手権第7戦
「スーパートライアル in 今庄」
『旅の途中』
9月30日(木)夜、横浜の自宅を出発。9月5日(火)昼無事帰宅しました。
毎回ではありますが途中寄り道をしながら5泊6日、オール下道で往復1000キロの旅でした。
行きのルート
1 吉田城(続日本百名城 愛知県豊橋市)
吉田城は戦国時代初期において三河支配の重要拠点のひとつとして、松平氏と今川氏の間で争奪戦が繰り広げられた城です。
江戸時代には吉田藩の政庁としての役割を果たしました。
かつては酒井忠次(徳川四天王の筆頭)や池田輝政(後に姫路城主)が城主を務めたこともあります。
天守閣は元々なく鉄櫓が天守の役目をしていました。
現在は昭和29年に復興された鉄櫓が豊川のほとりに建っています。
本丸の後の3方周囲は空堀に囲まれています。
現在は豊橋公園内にあり、敷地内には豊橋市役所美術博物館やスポーツ施設などもあります。
鉄櫓
豊川
本丸の後の3方周囲は空堀
2 豊橋市路面電車
豊橋市では、全国でも18都市でしか運行されていない路面電車が走っています。
営業距離は4.5kmと短いです。
現在日本国内で路面電車の走っている都市は豊橋のほかは
札幌、函館、宇都宮(2023年8月開業)東京、富山、高岡、福井、
大津、京都、大阪、堺、岡山、広島、愛媛、高知、長崎、鹿児島です。
3 安祥城跡(愛知県豊川市)
徳川家康ゆかりの地。戦国時代、松平氏が岡崎城に移るまで居城とした城。
この城を舞台に繰り広げられた安城合戦で、今川方の捕虜となった信長の兄、信広と、
織田家に人質となっていた竹千代(幼少期の徳川家康)を人質交換した話が有名。
城跡は安祥城址公園として整備されており、本丸跡はお寺(大乗寺)が建てられている。
大乗寺山門
4 藤田屋(愛知県知立市)
藤田屋は知立市内の国道1号線沿い。
ここを通過するたびに好物の「大あんまき」を買います。
5 御油(ごゆ)~赤坂(愛知県豊川市)
御油は東海道五十三次、江戸から数えて35番目の宿場町。
御油宿から36厳目の赤坂宿までの600mに渡って約300本の松の大木が並び、当時の面影を残しています。
東海道で現存する松並木の中でも代表的なもので、国の天然記念物に 指定されています。
赤坂宿の高札場
御油宿と赤坂宿は距離にして16町(1町は105m) =1.6キロ。
「夏の月 御油より出て 赤坂や」
この句は、松尾芭蕉が赤坂宿に泊まった際、夏の夜の短さと、
わずか16町(両宿問屋間)と近接する赤坂と御油間の距離の短さを詠んだものです。
赤坂宿の関川神社境内に句碑が建てられています。
6 清洲城(愛知県清須市)
織田信長が尾張支配の本拠地とした城で、信長はこの城から桶狭間の戦いに出陣して行きました。
本能寺の変によって織田信長が討たれた後、
柴田勝家が信長の重臣を集め後継者を決定する「清洲会議」が行われた場所です。
「清須会議」が開かれたのは、「山崎の戦い」から2週間後のこと。
柴田勝家は織田信長の三男である信孝を推薦しましたが、
主君の敵討ちを果たすという功績を挙げた羽柴秀吉の意見に、
丹羽長秀や池田恒興が賛成したため、後継者は秀吉が推薦した信長の孫である秀信に決まりました。
信長塀
7 愛知県稲沢市の久保秋康夫さん
久保秋さんはJAF加盟クラブ「チームスペシャルロードモータースポーツクラブ(TSR.C)」の代表。
本業はコーヒーショップ「ライセンス」のオーナー
昔全日本ダートラ・鈴鹿のオーガナイズをしました。
今はダイナランド(スキー場)ジムカーナシリーズを主催。
また今年もオートテストを主催しています。
http://km-tsrc.car.coocan.jp/ AutoTest.html
久々にゆっくり酒でも呑みながら、と言いたい所でしたが、
この後も今庄目指してまだ運転が続くのでノンアルにしておきました。
以上が行きの寄り道。
以下は帰りの寄り道です。
8 玄蕃尾城(げんばおじょう 福井県敦賀市と滋賀県長浜市の県境)
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いにおいて、柴田勝家の本陣が置かれた山城。
土塁と空堀が残されています。登頂所要時間は20~30分。
9 賤ヶ岳(しずがたけ 滋賀県長浜市)
賤ヶ岳は賤ヶ岳の戦いにおいて、羽柴秀吉が着陣した山。
今ではリフトで登れますが、小生は50分かけて登頂しました。
「賤ヶ岳の戦い」は、1583年(天正11年)4月、近江国の賤ヶ岳周辺(現在の滋賀県長浜市)で、
柴田勝家と羽柴秀吉が、織田信長の跡目をめぐって起こった権力争いです。
この戦いの結果、羽柴秀吉が勝利し、敗走した柴田勝家は自害。
戦いに勝った羽柴秀吉は、織田信長の権力・体制を継承することとなり、
天下人へ向けて大きく前進していきました。
山頂ではボランティアガイドの方が「賤ヶ岳合戦」を説明していました。
柴田勝家の敗因は盟友前田利家の軍勢の戦線離脱が大きかったと言っていました。
秀吉と利家は信長の家来の時から竹馬の友、奥方の寧々とまつも仲が良かったので、
利家も最後は秀吉に組したのでしょう。
余呉湖
偶然と言うか、奇跡と言うか。
上の写真は2023年9月4日(月)小生が撮影した賤ヶ岳山頂から琵琶湖方面の写真
下の写真は2023年9月10日(日)読売新聞日曜版に掲載された写真
10 関ケ原合戦地
休憩を兼ねて開戦の地と家康本陣を訪ねました。
11 奥の細道むすびの地(岐阜県大垣市)
今庄からの帰りには外せない寄り道、芭蕉翁にご挨拶しました。
大垣は松尾芭蕉が5か月2400kmに及ぶ東北・北陸地方をめぐる「奥の細道」の旅を終えた地です。
芭蕉は、2週間ほど大垣の人々と交流して過ごしたあと、
水門川(すいもんがわ)を舟でくだり桑名へ旅立ちました。
そして、わかれるときに、「蛤(はまぐり)のふたみにわかれ行秋ぞ」という俳句を詠みました。
左)伊勢に旅たつ芭蕉 右)見送る木因(ぼくいん)
い勢にまかりけるを ひとの送りければ
12 岐阜県大垣市のプレジャー大橋渡さん
1週前にスポーツランドSUGOでお会いしていましたが、お店を訪ねたのは4年ぶりでした。
全日本ジムカーナ選手権では最終戦鈴鹿でチャンピオンの可能性が残されています。
全日本ジムカーナ選手権第7戦(SUGO)ではBC3クラス2位
お店の中に居酒屋「ありあけ」。
以前は道路を挟んで対面にありましたが2年ほど前に移転、一層便利になりました。
13 墨俣城(すのまたじょう 岐阜県大垣市)
墨俣城は織田信長が美濃攻略のために、その前線基地として永禄9年(1566年)、
木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)に築かせた城と伝えられています。
いわゆる「墨俣一夜城」として秀吉の立身出世の象徴として紹介されることが多い城です。
現在、墨俣城があったとされる場所は公園として整備されており、
模擬天守(墨俣一夜城歴史資料館)が建てられています。
14 愛知県あま市の泉谷玄太郎さん
泉谷さんはキャメルトロフィー日本代表1期生。1985年ボルネオ大会に参加しました。
若いころから冒険好きで海外のあちこちを放浪したそうです。
新婚旅行も無謀にも中南米を車で1カ月以上かけて走破したそうです。
15 興国寺城(こうこくじじょう、続日本百名城 静岡県沼津市)
興国寺城は伊勢新九郎盛時(北条早雲)の最初の居城として知られる城です。
今川・武田・北条各氏によってたびたび奪い合われた城で、武田氏滅亡後には徳川家康の支配下となり、
家康が関東へ入封されると豊臣氏の家臣・中村一氏が城主をつとめました。
「関ケ原の戦い」後は天野康景が1万石で入封しましたがのちに出奔したため廃城となりました。
現在も石垣、土塁、空堀などの遺構を確認することができます。
左)最後の城主 天野康景 右)初代城主 北條早雲
天守台
大空堀
本丸跡
本丸跡