2021年JAF全日本ダートトライアル選手権第7戦(今季5戦目)
「スーパートライアル in 今庄」
旅の途中
その2 九頭竜湖駅(福井県)~今庄駅(福井県)
旅の途中 その1 はhttps://ameblo.jp/cmsc-yokohamasugar/entry-12697024533.html
CMSC選手結果 https://ameblo.jp/cmsc-yokohamasugar/entry-12697002238.html
大会のひとコマ https://ameblo.jp/cmsc-yokohamasugar/entry-12697023538.html
CMSCホームページ http://himaob7.kagebo-shi.com/CMSC/HP/index.html
1 JR越美北線九頭竜湖駅(福井県大野市朝日)
JR越美北線は福井駅と九頭竜湖駅を結ぶ55キロの路線。
左)九頭竜湖駅では1日上下各5本が運行されている。
右)駅前では恐竜がお出迎え。福井県は恐竜の産地。
2 越前大野城(続日本百名城 福井県大野市城町)
越前大野城は、天正4年頃(1576)、織田信長より大野郡の3分の2を与えられた金森長近により、
4年の歳月をかけて築城された。
その石垣は、石を立てず、横に寝かせ、大きい石を奥に押し込んで積む、野面積みという工法で積まれた。
現在の城は、昭和43年に再建された。
気象条件によっては晩秋から春にかけて、大野盆地全体が雲海につつまれ、
越前大野城だけが浮かんで見える幻想的な景色が見られることから
「天空の城越前大野城」としても注目されている。
眼下
3 大野市 激渋銭湯 東湯(大野市高砂町)
創業80年 大人450円也 ひと風呂浴びた。
4 勝山城 (福井県勝山市平泉寺町)
実は元々の城跡ではない場所に建てられた天守風建築物の博物館。
姫路城天守に似せたコンクリート製模擬天守の建物の高さは57.8メートルあり、日本一の高さである。
5 勝山城址(福井県勝山市元町)
こちらが本物の勝山城址。
戦国時代の天正8年1580年に柴田勝家の一族である柴田勝安によって築城された。
明治時代に廃城となった後、城の建物は取り壊された。
天守台や石垣が昭和40年まで残っていたが、市民会館建設に伴い撤去され、
現在は市役所の隣の市民会館敷地に城址の碑が建つのみである
現在の勝山市役所付近が城跡中心部で、市役所と公民館があるあたりが本丸跡であり、
市役所前の道路付近に堀が設けられていた。
6 えちぜん鉄道勝山駅
勝山駅はえちぜん鉄道の終点。福井駅から29キロ。
左)こちらはJRと違って約30分間隔で運行されている。
右)この駅前でも恐竜がお出迎え。
7 丸岡城(日本百名城 福井県坂井市)
丸岡城は、現存天守閣では最古の建築様式を持つ平山城。
戦国時代の天正4年(1576)一向一揆の備えとして織田信長の命により柴田勝家が甥の勝豊に築かせた。
現存12天守の一つ。
(他の11天守は弘前城、松本城、犬山城、彦根城、姫路城、松江城、備中松山城、
現在は霞ヶ城公園となっている本丸に天守があるだけという状態で、本丸の堀もすべて埋め立てられてしまった。
伝説「人柱お静」 丸岡城を築城する際、天守台の石垣が何度も崩れて工事が進行しなかった為、人柱を立てる話が持ち上がった。城下に住む貧しい片目の未亡人・お静は、息子を士分に取り立てる事を条件に人柱となる事を申し出た。その願いは受け入れられ、お静は人柱となって土中に埋められ天守の工事は無事完了した。しかし、城主・柴田勝豊はほどなく移封となり、息子を士分にする約束は果たされなかった為、それを怨んだお静の霊が大蛇となって暴れ回ったという伝説がある。
8 明智光秀ゆかりの地 称念寺(福井県坂井市丸岡町)
明智光秀は、弘治2年(1556年)に齊藤義龍の大軍に敗れ、妻の熈子や家族と伴に、
越前大野を経て越前の称念寺に来た。朝倉氏に仕えるまで称念寺の門前で寺子屋を開いた。
今の門前 昔の門前
境内に松尾芭蕉の句碑があった。『月さびよ 明智が妻の咄(はなし)せむ』
光秀宅で連歌の会を催した際、妻の煕子(ひろこ)が自分の髪を売って費用を工面した美談が伝わる。
それを題材に芭蕉が詠んだ句。
9 福井県立藤島高校(福井市文京2丁目)
福井県立藤島高校はノーベル物理学賞の南部陽一郎博士、歌人俵万智の母校。
5488 南部氏の記念碑は有ったが、俵万智の記念碑は何もなかった。
『 「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日』 は
神奈川県立橋本高等学校の国語教員の時発表した短歌。
10 北の庄城址/柴田公園(福井市)
北の庄城は織田信長から49万石を与えられた柴田勝家が、数年の歳月をかけて築いた平城。
天正11年(1583)、豊臣秀吉の軍に攻められた勝家は、自ら火を放ち、
妻のお市の方や一族とともに壮絶な最後を遂げ、同時に北の庄城もわずか8年という短い命をとじた。
発掘石垣
隣接する柴田園内には、勝家公、お市の方、三姉妹の銅像が建てられている
11 福井城(続日本百名城)
徳川家康の次男結城秀康が1601年から6年かけて築城した平城。
本丸と二の丸の縄張りは徳川家康によるものとされる。
以後松平家の居城となり、現在は本丸跡に福井県庁、県会議事堂、県警察本部などが建ち並んでいる。
石垣、天守台、内堀、井戸が現存しているが、二の丸、三の丸はほぼ消滅して市街地化している。
12 一乗谷朝倉氏遺跡(福井市城戸ノ内町)
一乗谷朝倉氏遺跡は戦国大名朝倉氏が一乗谷に築いた居館と山城および城下町からなる巨大な遺跡。
朝倉氏は103年間にわたり越前を支配した。義景は5代目
一乗谷城は日本百名城。今回は雨に降られて攻城は次回に持越しとなった。
(1)朝倉館跡と館跡庭園
第5代当主朝倉義景が住んだ館の跡で、
6,500㎡程の敷地があり三方は土塁(どるい)と濠(ほり)で囲まれている。
常御殿(つねごてん)、主殿(しゅでん)、会所(かいしょ)、茶室(ちゃしつ)、日本最古の花壇のほか、
台所、厩(うまや)、蔵などが整然と配置されていた。
朝倉氏遺跡門
館跡俯瞰 館跡
義景墓所
朝倉館跡を見下ろす山腹に四つの庭園(朝倉館跡庭園、湯殿跡庭園、諏訪館跡庭園、南陽寺跡庭園が造られた。
東側の山際にある館跡庭園は力強い滝の石組、護岸石組を持ち、
その洗練された石組に京都との文化の交流が感じられる。
1568年には、義景が足利義昭をこの館に招き盛大にもてなした。
城下町 復元街並み
「城下町」は、朝倉氏館跡と一乗谷川を挟んで、道路に沿うように形成されていた。
整然と区画された城下町が「町並立体復原地区」として再現され、
武家屋敷、寺院、商人や職人の住む町屋などが並ぶ。
それらが混在するところが、江戸時代の城下町とは異なる
井戸 マンホールふた
13 明智光秀ゆかりの地 明智神社(福井市東大味町)
光秀が朝倉義景に仕えた時の屋敷跡に建てられた。
明智神社には光秀の座像が祀られている。
この地で熙子との間にお玉(細川ガラシャ)が生まれた。
14 紫式部公園(福井県越前市東千福町)
『源氏物語』の作者・紫式部(むらさきしきぶ)の父・藤原為時(ふじわらのためとき)は、
長徳2年(996年)、越前守(越前国守)として越前に赴任(越前国庁は現在の越前市にあったと推測される)。
その際、娘の紫式部も帯同し、約2年間滞在した。
その越前市武生地区に平安時代を彷佛させる寝殿造庭園の美しい紫式部公園が築かれた。
紫式部が暮らした屋敷のあった場所は定かではない。
舟の乗り降り場でもあった総檜造りの釣殿
紫式部 黄金像
紫式部歌碑
15 JR今庄駅(福井県南越前町)
9月3日(金)20時 JR今庄駅到着。
以上 今庄全日本ダートトライアル選手権第7戦 「旅の途中」 でした。