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旅の途中
京都 魔界へのいざない
京都は、1200年もの歴史を持つ古い町です。お寺や神社も非常に多く、様々な催し物や祭りが年中行われ、毎年多くの観光客が訪れてきます。京都は、観光都市とも文化都市 とも日本人の心の故郷とも呼ばれて、親しまれてはいますが、それはあくまでも「表」の京都でしかありません。 京都の1200年の歴史は、学校の教科書で習った歴史が「表の歴史」である一方で、桓武天皇から始まった怨霊や妖怪などとの歴史である「裏の歴史」もあります。昨年11月JAFカップオールスターダートトライアル取材の帰りに、上賀茂神社、下鴨神社、糺の森、上御霊神社、下御霊神社など平安京の霊や妖怪達がうろつくもう1つの「裏」の京都を訪ねましたが、今回はその続き。京都は今でも怨霊、妖怪の住むまさに魔界都市でした。
1 六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)
① 六道珍皇寺山門と門前「六道の辻」の碑。六道珍皇寺は京都市東山区にある臨済宗の寺院で、六道の辻に建てられています。
六道の辻とは、死者を鳥辺野(今の清水寺付近)へ葬送する際の野辺送りの場所で、この世とあの世の境とみなされていました。いわゆるこの世とあの世の境(さかい)(接点)の辻が、古来より当寺の境内あたりであるといわれ、冥界への入口とも信じられてきた。つまりこの辻を境にして東は死者の世界、そしてこの辻より西は、生者の世界。京都の地名で鳥部野(とりべの)・蓮台野(れんだいの)・化野(あだしの)等「※※野」がついている名称は、かつて葬送の地だった場所を差します。
② 六道珍皇寺本堂と「六道の辻」中心付近に建つ三界萬霊供養塔
③ 閻魔堂には閻魔大王像と小野篁像が祀られています。
④ 閻魔大王像
⑤ 小野篁は、遣隋使で知られる小野妹子の子孫であり、孫に書家の小野道風(おののとうふう)がいます。美人の代名詞である小野小町も篁の孫とも言われます。
⑥ 本堂背後の庭内にある「小野篁冥土通いの井戸」(右側の木の後ろ)
平安時代初期の官僚であり文人である小野篁は、小野篁は昼間は宮廷に役人として仕えながら、夜は六道珍皇寺の裏手にある井戸から冥途世界に下り、閻魔大王に仕えていたといいます
⑦ 六道の辻近くには「幽霊子育飴」を売る「みなとや」と言う店があります。毎晩のように女幽霊が現れ、飴を買いにきていたといわれています。
毎晩のように飴を買いにくる女性がいました。ある日、その女性のあとをつけていくと、墓地付近でスーッと消えたといいます。そのとき、地面から赤子が泣く声が聞こえてきました。そこは身ごもったまま亡くなった女性の墓でした。墓を掘り起こしてみると、驚くべきことに生きた赤子が出てきたではないか。そう、亡くなった女性が幽霊となり、子どものために飴を買いに来ていたのでしだ。
2 晴明神社 (京都市上京区)
①② 6代の天皇に仕えた平安京最強の陰陽師(おんみょうし)・安倍晴明を祀る神社。晴明の邸宅跡に建っています。
③ 安倍晴明像。
晴明は自ら内裏の鬼門に邸宅を構え、星の動きを読み、式神(自分のしもべとなる鬼)を自由に操り、魑魅魍魎(ちみもうりょう)から千年の都・平安京を護ったと言われています。
④ 晴明の祈祷によって湧き出たといわれる名水・晴明井。千利休もこの水で茶をたてたと言われています。飲むと病気平癒のご利益があるとされています。
⑤ 厄除け桃
古来、中国また陰陽道では、桃は魔除け・厄除けの果物といわれます。桃をなでると御利益があると言われています。
⑥ 死者がこの橋を渡った時に生き返った事から名付けられた一条戻橋。平成7年に架け替えられる前の戻橋の欄干を使って神社内に再現。渡辺綱と鬼女の話や、豊臣秀吉による千利休木像はりつけ事件にも登場します。
⑦⑧ 現在の一条戻り橋。晴明神社の南100mにあります。
3 大将軍神社(京都市東山区)
①② 桓武天皇が魔界封じの為御所の北東=鬼門の方角に、上御霊神社 下御霊神社を建て、また以前からある下鴨神社、上賀茂神社を大きく立て直しました。更に東西南北の方角に大将軍神社を建てて、なお一層の怨霊バリアを建てました。写真は東山区にある京阪三条にほど近い、東の大将軍神社。
大将軍とは「スサノウノミコト」のこと。あのヤマタノオロチを退治した英雄神でもありますが、高天原を揺るがした荒ぶる神でもあります。
4 崇徳(すとく)天皇御廟(京都市東山区)
①② 崇徳天皇(のちに上皇)は平将門、菅原道真とともに日本三大怨霊のひとりと言われ、その中でも最強と言われています。平安末期、保元の乱に敗れた崇徳上皇は、讃岐に流され悲嘆の日々を送っていたが、血書をもって都への還幸を願ったが、聞き入れられず、「日本国の大魔縁となり、皇を取て民となし、民を皇となさん」と呪い、46歳で崩御されました。上皇の寵愛を受けた阿波内侍は上皇の遺髪を請い受け、この地に一塚を築き、亡き上皇の霊をお慰めしたと伝えられています。この頃、京では異変が相次ぎ、崇徳上皇の祟りと恐れられたため、御影堂や粟田宮を建て慰霊しましたが、今では廃絶し、この地のみが上皇を偲ぶ御廟となっています。
御廟はなんと華やかな祇園の花見小路甲部歌舞錬場(GION corner)の裏(東側) にひっそりとあります。
扉には鍵がかかり、中には入れません。
5 安井金毘羅宮(京都市東山区)
①② 祟徳天皇を祭神として祀る 安井金比羅宮は崇徳天皇御廟のすぐ南に位置。日本を代表する縁切りスポット。崇徳天皇(この時は上皇)が讃岐の金毘羅宮で参籠されたとき、一切の欲を断ち切って修行されたからだとか。親子の縁や夫婦の縁、兄弟の縁までも切られた崇徳上皇であるからこそのご利益なのでしょう。
③④ 境内で特に目をひくのがこの「縁切り縁結び石」。びっしりと願い事を書かれたお札が石を覆い尽くしていて石は全く見えません。お願い事をするときは、お札を貼りつけ、中央の丸い穴を一往復くぐります。すると、悪い縁が切れて良い縁が結ばれる、とのこと。
6 白峯神宮(京都市上京区)
①②③ 崇徳天皇の怨霊は、天皇が表舞台に立った時に限り登場する・・・として、明治天皇は大政奉還の時に、京都に天皇の陵墓のある白峯山の名前をとった白峯神宮を創建しました。崇徳天皇と淳仁(じゅんにん) 天皇が御祭神として祀られています。
④崇徳天皇の和歌。百人一首でお馴染み。
⑤ 鞠庭
摂社の地主社に祀られる精大明神は蹴鞠の守護神であり、現在ではサッカーのほか、球技全般およびスポーツの守護神とされ、サッカーをはじめとするスポーツ関係者 の参詣も多く見られます。
⑥地主社の横には、「蹴鞠の碑」があります。お参りされた後で、この蹴鞠の碑の『撫で鞠』を一周回すと球運を授かるそうです。
7 崇徳院地蔵(京都市左京区)
①② 聖護院門跡の東端隣にある積善院に「崇徳院地蔵」があります。崇徳院の慰霊のためにつくられました。「すとくいん」が「ひとくい」に聞き間違われ通称「人喰い地蔵」 と呼ばれています。ご利益は無病息災。
①左のお地蔵さまが崇徳院地蔵。最近の写真では御堂で覆われていましたが老朽化で撤去したと思われます。シャッター後近寄って見るとなんと、「撮影禁止」と張り紙がありました。
② 右の御堂の中にもお地蔵さま。
菅原道真にしろ、平将門にしろ、怨霊伝説というものは、亡くなった本人が作るものではありません。その人を不幸に追いやった人物が、少しでも「悪い事をしてしまった」と、自分の行いに反省したり、後悔したり、負い目を感じたりする気持ちが、その伝説を生み出しているのだと思います。
8 天使突抜(てんしつきぬけ) (京都市下京区)
①②③④⑤ 京都市下京区に「天使突抜」と言う町名があります。
豊臣秀吉は平安京以来四角形の碁盤の目状に仕切られていた町割りを南北に長い短冊状の町割りに改造しました。つまり、南北に走る道路の真ん中にさらに一本小路を走らせ南北に長い街並みを作ったのです。その政策によって、それまであった神社仏閣の多くが移転を余儀なくされました。
⑥⑦ 天使突抜1丁目に「五條天神社」と言う神社があります。戦国時代「天使社」と呼ばれていて、秀吉の政策による町割りでこの神社の境内の中に道が突抜けることになったことで、「天使様を突き抜けてまで道を作るのか!」と怒り、皮肉の意味を込めてその道を天使突抜と名付けました。そこから「天使突抜」という町名が誕生したとされています。