2017年JAFカップオールジャパンダートトライアル
JMRCオールスターダートトライアル in 近畿
大会のひとコマと旅の途中
その2(大会前の旅の途中)
1 11月10日(金)京都駅


① 9日(木)新宿発の夜行バスで8時間。京都駅八条口には10日(金)早朝まだ夜が明けない5時30分に到着。
② 京都は、1200年あまり前、「平安楽土」を願い「平安京」と名付けられ新しい都となりました」。しかし、平安とは名ばかりで、洪水、旱魃、落雷、火災、地震、疫病の流行、飢餓が立て続けに起こる、呪われた都でした。人々は、それらを怨霊の仕業と信じていましたが、最もその存在に悩まされ恐れた人物は、平安京を造った桓武天皇でした。以後平安京は徹底的に怨霊を排除する究極の魔界封じの都市となりました。
今日は市営バス一日乗車券で、魔界都市・京都を巡ることにしました。バスターミナルのある烏丸口に回るころ、辺りは白け始め京都タワーが歓迎してくれました。
2 都野菜 賀茂 (みやこやさい かも)


①② その前に腹ごしらえ。向かったのは朝7時から営業している『都野菜 賀茂』水族館前店。



③④⑤ なにせ税込500円の朝食バイキングでは、京都の農家が有機・無農薬または減農薬で育てた野菜=『都野菜』を使った料理が食べられます。ご飯もソフトドリンクも京都産。料金が安い分、惣菜の種類は昼、夜のバイキングに比べて少ないようです。


⑥ (上左)野菜サラダ (上右)納豆 ネギは九条ネギ (下左)おかゆ 米も京都産 (下中)高野豆腐の精進煮込、卵と春雨のさっぱり煮 (下右)味噌汁
⑦ 締めはうどん 小麦も京都産 ネギは勿論九条ネギ
3 下鴨神社


①② 正式名は「賀茂御祖(かもみおや)神社」。賀茂別雷(かもわけいかずち)神社(上賀茂神社)とともに、ユネスコの世界遺産に「古都京都の文化財」の1つとして登録されています。両神社の創建は古く奈良時代以前。794年(延暦13年)桓武天皇は平安遷都ののち、魔界封じの為、鬼の通り道と言われる「鬼門」の方角に、すなわち御所の北東の方角にある古くからあった両神社を参詣し大きく建て直しました。以後、皇城鎮護の神として厚く崇敬されてきました。この鬼門のラインは、最強最大の霊場・比叡山延暦寺へと続きます。



② 南鳥居 ③ 楼門④ 舞殿
4 糺の森(ただすのもり)


①② 史跡・糺の森は、高野川と賀茂川が合流する三角州地帯の森林をそのように呼ばれています。かつては、南鳥居から楼門まで参道の両側に大きく広がっていましたが、現在は最大時の1/200の広さに縮小してしまっています。それでも東京ドームの3倍。 また、下鴨神社の祭神がここで争い事の調停をしたことから、いわば日本の裁判の発祥地として糺(ただす)の名があると言われています。家庭裁判所がこの南にあるのも頷けます?
5 河合神社


①② 河合神社は下鴨神社の第一摂社。糺の森の南側に位置し、古くから下鴨神社本宮に次ぐ大社として歴史に登場し、御祭神の玉依姫命にちなみ女性の守護神として信仰されています。



6 鴨川の飛び石



①②③ 高野川 賀茂川の合流地点の「出町の飛び石」。亀と千鳥の形をした石が配置されています。合流地点から下流が鴨川です。出町の飛び石以外に、高野川に1、鴨川に2、鴨川に2か所、飛び石がかかっています。①が高野川②が賀茂川
この飛び石は、河床の安定を図るという主目的のために設けた横断構造物(これを「帯工」といいます。)の上にいろいろな形に模したコンクリートブロックを配置したもので、水位が低い時には人が渡ることができるという二次的な役割を果たしています。
今から約20年前に「河川環境整備」の一環で親水機能を合わせ持つ仕組みにチャレンジした技術職員の試みが、「鴨川を代表する風景」へと成長したのでした。
7 上賀茂神社





①~⑤ 正式名称は「賀茂別雷(かもわけいかづち)神社」。
山城国の豪族であった賀茂氏の氏神を祀る京都最古の歴史を持つ神社で、古より皇族をはじめとした貴人からの厚い信仰を集めた由緒ある神社。
⑥ 本殿


⑦ 細殿(拝殿)
⑧ 細殿前にある「立砂」。「立砂」は神様が降臨された神山をかたどった円錐形の砂山です。ここがパワースポットだと言われています。現在でも鬼門や裏鬼門に砂をまき清めるのはこの「立砂」が起源とされています。
風水ではよく、住居や敷地内の浄化に「盛り塩」が推奨されていますが、盛り塩以上に神聖さが感じられる神社ゆかりの「清めのお砂」です。 そもそも上賀茂神社自体が、平安京以前の京の都、長岡京の北東(鬼門方位)に位置しており、鬼門の方角から来る厄災から都を守る役割を担っていたと言われていることからも、その厄除けパワーは本格的と言えるかも知れません。
※ 毎年5月15日に催される京都三大祭りの一つ「葵祭」は、天皇が、使いである勅使に、神へ捧げる「祭文」と「供え物」を託して奉られる祭。「フタバアオイ」をつけた約500名の大行列が、京都御所を出発、下可鴨神社を経由し、上賀茂神社へと向かいます。その歴史は古く、6世紀に遡り、賀茂氏が豊作を祈願する祭だったと伝えられています。それが平安時代から、天皇の命で行われる祭となり、優雅な行列が始まったのです。古の儀式の形が、現代にまで受け継がれています。

⑨ 上賀茂神社には「御物忌川」、「御手洗川」という2つの川が本殿を挟む形で流れ、それらが合流して「楢(なら)の小川」となった形でさらに境内を流れていきます。
「楢(なら)の小川」は、葵祭や「夏越の祓(なごしのはらえ)」の際の禊(みそぎ)の儀式を行う場所としても知られています。


⑩⑪ ならの小川の情景は小倉百人一首でも読まれています。
「風そよぐ ならの小川の 夕ぐれは みそぎぞ夏の しるしなりける」 藤原家隆
風がそよそよと楢の葉に吹く、ならの小川[上賀茂神社の御手洗川]の夕暮れは、すっかり秋めいているが、この小川で行われている六月祓のみそぎだけが夏のしるしなのだった。
「ならの小川」は、京都の上賀茂神社の中を流れる御手洗川。「奈良」ではありません。
8 上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)


①② 延暦13年(794年)、平安遷都の際、桓武天皇が弟の早良親王(さわらしんのう)の霊を丁重に祀るために生れたのが、上御霊神社です。
上御霊神社の祭神である早良親王は、長岡京遷都の時に、桓武天皇の寵臣で長岡京造営長官であった藤原種継を暗殺したという謀反の科で乙訓寺に幽閉されました。親王は罪を否定したまま飲食を断ち餓死すると言う非業の死を遂げました。以後、親王の霊は桓武天皇を悩まし、天皇の周囲では不幸が続発しました。天皇は長岡京の造営を中止し、わずか10年で都を京に移さなければなりませんでした。
処刑、毒殺、呪詛の渦巻く奈良朝末期を親王として過ごし、即位後も怨霊につきまとわれた桓武天皇にとって、都として理想的な地であると判断したのが京都盆地であり、平安遷都にかける願いは大きかったといえます。

③ 上御霊神社は応仁の乱勃発地。 |
文正2年(1467年)正月18日早朝、この付近すなわち上御霊神社の森の合戦から応仁の乱は始まりました。17日の夜、畠山政長は自邸を焼いて一族や奈良の成身院光宣らと兵約二千を率いて、ここに布陣し翌18日は終日激しい戦いが続きました。畠山義就方には朝倉孝景ついで山名宗全が加勢しました。しかし政長方にはたのみの細川勝元がこの段階では動かず、まる一日の合戦ののち、政長方が敗退しました。これが応仁の乱の最初の合戦です。 上御霊神社に細川勝元の率いる東軍が陣取り、一方西軍は、ここから西方2キロ程にある、今の今出川大宮あたりに、山名宗全が陣を敷きました(西陣)。応仁の乱(1467年)は、都を11年間にわたり戦場と化しました。 |


④⑤ 上御霊神社には松尾芭蕉も参詣しています。
松尾芭蕉は元禄3年12月に門人を伴い、ここに参詣し、別当家に半日を打ち寛ぎ、「年忘歌仙」を奉納しました。
「半日は 神を友と とし忘れ」
石碑は慶応元年の建立。


⑥⑦ 新村出博士の歌碑
上御霊のみやしろに詣でてよめる
「千早振 神のみめぐみ 深くして 八十ぢに満つる 幸を得にけり」
新村出博士は広辞苑の編者として著名。博士は大正12年より小山中溝町に住んでいました。この歌は、満80歳の誕生日に参拝の折に献詠したものです。
9 下御霊神社 (しもごりょうじんじゃ)



①②③ 桓武天皇の時代、各地で疫病が流行しました。これは冤罪を被り非業の死を遂げた人たちの怨霊の祟りであるとして、怨霊を鎮め御霊としてお祀りするために創建されました。以後疫病災厄を退散し、朝廷と都をお守りする神社として崇敬されてきました。
以上、魔界都市京都の怨霊スポットを垣間見ましたが、まだまだたくさんあるので、この続きは次回京都訪問時に尋ねたいと思います。