2017年JAF全日本ラリー選手権第9戦(最終戦)
「新城ラリー2017」
大会のひとコマと旅の途中
その2 大会前の寄り道
今回も東名高速を使わず、国道246号線で沼津へ行き、沼津から浜松まで国道1号線を行きました。静岡県内はほとんどバイパスがあり、夜は高速並みに速く走れます。途中旧東海道の「小夜の中山」とその先の「日坂宿」を訪ねました。さらに新城に着いてから、日本百名城の「長篠城」を訪ねました。
1 小夜の中山


①② 「小夜の中山」とは島田市と掛川市の境付近の約4kmにわたる旧東海道の峠。鈴鹿峠,箱根峠と並ぶ旧東海道の峠の難所のひとつでした。歌川(安藤)広重の保永堂版東海道五十三次には,この難所が急坂として描かれています。道筋には子育観音のある久延寺や中山公園、西行法師の歌碑などがあります。民話の『夜泣き石伝説』で知られる「夜泣石」は中山峠のドライブイン脇の高台に安置されているほか、久延寺にもゆかりの石があります。
1-1 小夜の中山 夜泣き石


① 国道1号線・日坂トンネル手前の「名物子育飴 元祖 小泉屋」があります。久延寺の和尚が飴で子を育てたという伝説から、子育て飴という、琥珀色の水飴が小夜の中山の名物となっています。
② 小泉屋の横の階段を上がっていくと「夜泣き石」があります。



③④⑤ その昔、久延寺に安産祈願にきた妊婦が中山峠を越える途中、山賊に襲われて殺されてしまいました。お腹の切り口から生まれた赤ん坊を助けるため、母の魂はかたわらの石にのり移って泣きました。泣き声に気づいた久延寺のお坊さんに拾われた赤ん坊は、お乳の代わりに水飴を与えられ、大事に育てられました。そしてその子供は立派に成長し、母の仇を討ったと云われています。
1-2 久延寺

① 久延寺は小夜の中山峠の中腹に位置する古刹。


②③ 実は夜泣き石と伝えられている石は2つあり、もう一つは話の舞台となったこの久延寺にあります。昔話に登場する「夜泣石」は小泉屋の裏山に安置されています。久延寺にある夜泣石は夜
泣き石物語の妊婦(小石姫)を弔う為に建てられた供養塔とされています。


④⑤ 寺の境内には山内一豊が関ヶ原合戦のきっかけとなる会津上杉攻めの軍を大坂より進めてきた家康をもてなした茶亭の跡地や、その礼に家康が植えたとされる五葉松の跡が残されています。かつては御殿(庫裏)の屋根よりも高く立派なものでしたが、枯れてしまって現在の松は二代目です。
1-3 歌碑・句碑
小夜の中山は.西行法師や橘為仲、松尾芭蕉といった文人墨客が訪れ、多くの歌や句に詠まれた歌枕の地としても知られています。

① 西行法師歌碑
「年たけてまたこゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」
文治2年(1186)69歳の西行法師は、東大寺の大仏再建のため、奥州の藤原秀衡に砂金を勧進しようと、二度目の奥州への旅に出ます。その途中、小夜の中山を越えた西行が、若い頃一度小夜の中山を越えたことを思い出して詠んでいる歌です。
今六十九歳にしてこうして再び小夜の中山を越えることがあるだろうなどと思っただろうか.命あってのことなのだ.花と月を愛で,旅に生きた西行の人生がここに凝縮されています。

② 西行を思慕する芭蕉の句
「命なり わづかの笠の 下涼み」
西行の歌に有名な小夜の中山を通っていると、ほんとうに日陰がなくて照りつける陽を受けながらの峠越えはつらい。まさに「命なりけり‥‥」だ。木陰といえば笠のようにわずかな陰をみつけるくらいだ。延宝四年(1676)芭蕉が伊賀上野に二度目の帰郷した旅で、小夜の中山を通った夏の日に詠んだもの。
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③ 「馬に寝て残夢月遠し茶のけふり」
芭蕉が41歳の時、「野ざらし紀行」の旅中の小夜の中山で詠んだ句。
馬上でうとうとしながら旅を続けて、やにわに夢見心地から覚めると、有明の月が遠くに見え、もう、村里に朝茶を炊く煙がたなびているよ。
夜通し馬に乗って旅を続けた芭蕉は小夜の中山宿に着きました。馬上に寝ていたのが、次第に眠りから覚めていきます。「馬に寝て」「残夢」「月遠し」までは、まさに杜牧の詩のままです。「茶のけぶり」が飛びこんできて、ふと我にかえりました。「茶のけぶり」は天下太平の象徴です。杜牧の詩では、最後に世の中が治まらないことを嘆いていますが、芭蕉の句では世の中がすっかり治まっていることを言っています。
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④⑤ 橘為仲歌碑 平安時代後期の公家・歌人
「旅寝する小夜の中山さよ中に鹿ぞ鳴くなる妻や恋しき」

⑥ 阿仏尼歌碑 鎌倉時代中期の女流歌人「十六夜日記」の作者
「雲かかる小夜の中山越えぬとは都に告げよ有明の月」
1-4 現在の小夜の中山



①②③ 今の小夜の中山峠は,もはや往時の面影は殆ど感じられません。というのも、明治以降この付近の山地は茶畑に開墾されてしまったから、一面茶畑です。今では鬱々とした峠道の険しさとは無縁の開放的でのどかな峠道になっています。

④ 小夜の中山は今では一面茶畑ですが、その先の日坂宿に下る旧東海道は舗装されてはいるものの、うねうね曲がる急坂は半端ではなく、往時を偲ばせるに足る難所の風情でした。車高の低い小生の車はムリなのでバックして迂回路で日坂宿に向かいました。
2 日坂宿

① 日坂宿(にっさかしゅく) は、東海道五十三次の25番目の宿場です。東海道の難所である小夜の中山峠の西側にあり、峠越えの麓集落で、西に掛川、東に金谷という大きな宿の間にあるため規模は小さいが、峠越えの旅人にはありがたい宿でした。

② 日坂宿本陣跡
江戸時代に諸大名が江戸と国元を往復した時の旅館にあてた宿駅の宿泊所を本陣といいます。
現在は日坂小学校敷地。


③④ 川坂屋
日坂宿の旅籠屋で、江戸時代の面影を遺す数少ない建物のひとつです。身分の高い武士や公家
などが宿泊した格の高い脇本陣格であったことが伺えます
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⑤ 一般の旅人が泊まった」旅籠「川上屋」

⑥ 高札場。
高札場とは、幕府や領主が決めた法度や掟書などを高札と呼ばれる木の札に記して、掲示しておく場所のことです。多くの人の目につくように、村の中心や主要な街道が交錯する交差点といった人通りの多い場所に設置されていました。
3 長篠城

① 長篠城は、武田軍vs織田徳川軍の激戦で知られる「長篠の戦い(設楽原の戦い)」の前哨戦の舞台として知られる城。二つの川の合流部の断崖に築かれた堅牢な平城。日本百名城のひとつ。
長篠・設楽原の戦い(ながしの したらがはら の たたかい)とは、戦国時代の天正3年5月21日(1575年6月29日)、三河国長篠城(現愛知県新城市長篠)をめぐり、3万8千の織田信長・徳川家康連合軍と、1万5千の武田勝頼の軍勢が戦った合戦。織田・徳川連合軍がいち早く鉄砲という近代兵器を使って当時最強の武田軍を打ち破りました。


②③ 毎年新城ラリーは全日本ラリー選手権の最終戦として開催。各クラスのチャンピオンが決まる大会なので、大会ポスターなどにも書かれているように、戦国時代の「長篠・設楽原の戦い」をもじって名付けられています。

④ 長篠城縄張り図


⑤⑥ 本丸跡は緑の草が生えた広場になっています。


⑦ 本丸の周囲を囲む巨大な堀。当時は水堀でした。右側の一段と高い場所が、本丸跡の周囲の土居。
⑧ 土居の上にも「長篠城址」の石碑。

⑨ 「内堀趾」。

⑩ JR飯田線の線路で主郭土居が削られています。