2017年JAF全日本ダートトライアル選手権第7
「スーパートライアル in 今庄」



大会のひとコマと旅の途中 

その2 (大会前後の寄り道)





1 関ケ原古戦場(岐阜県不破郡関ヶ原町)


関ケ原は安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)徳川家康・東軍と石田三成(豊臣方)・西軍の間で“天下分け目”の決戦の行われた古戦場です。決戦は、最初は鶴翼の陣を張った西軍が有利に進めましたが、西軍小早川秀秋の寝返りを境に形勢が逆転。わずか6時間の戦いで決着がつきました。
昨年2度の今庄(全日本第7戦、JAFカップ)取材の際に立ち寄っていますが、今回は再度訪問して復習、更にまだ見ていない史跡も巡って知識を深めました。
 



1-1徳川家康最初の陣地

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①② 9月15日早朝家康は30,000の兵と共に美濃赤坂からここ桃配山へ陣を移しました。石碑の手前に、家康が座った腰掛岩、軍議に使った机石があります。

 9時過ぎには南宮山の西軍に動きがないのを確認して、家康は本陣を陣馬野へ移しました。
 




1-2 笹尾山 石田三成陣地

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③④⑤⑥ 駐車場から徒歩で山頂まで約5分 。鶴翼の陣を張る西軍。石田三成は左翼に当たる笹尾山に陣取りました。この笹尾山頂上から古戦場全域を見渡せば、当時にタイムスリップし、豊臣秀吉への義を貫き通した三成に、心惹かれずにはいられません。




 
1-3 開戦地 

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⑦ 午前8時頃、この場所で東軍の松平・井伊隊が最初の攻撃を西軍・宇喜多隊に仕掛け、関ケ原合戦の火ぶたが切られました。
 

1-4 決戦地

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⑧ 関ケ原合戦で最も戦の激しかった場所。笹尾山のふもとの田畑が広がる中に石碑が立っています。




1-5 徳川家康最後陣地 

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⑨⑩ 家康は、はじめ桃配山へ陣を置きましたが、戦況がよくつかめないため、十時頃笹尾山三成陣地の東南1キロ地点の「陣場野」とよばれるこの地に陣を進めました。家康は戦況に苛立ち、ここから松尾山の小早川秀秋に向けて発砲を命じたと云われています。現在は大きな芝生の陣場野公園の一角になっています。
 
 
1-6 床几場(しょうぎば) 

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⑪ 床几しょうぎ)とは移動用の折畳式簡易腰掛けのこと。
陣場野陣地の床几場で家康が、武将たちが討ち取ってきた敵の首級が実検しました。その後、遺体を東西二か所の首塚に埋葬して供養しました。その前に討ち取った敵方武将の首を女性が顔を洗い化粧を施す首化粧ということをしていました。




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1-7 東首塚 

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⑪⑫ 大木が茂り昼にもかかわらず暗い。どことなく怨霊が漂う雰囲気でした。
 



1-8 西首塚 

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⑬⑭ ここも東首塚同様、大木が1本。周りには苔むした五輪塔が散在しています。
 こちらは「胴塚」の碑もあります。首も胴も葬られたのでしょう。

 



2 不破の関((岐阜県不破郡関ヶ原町)
 

不破関(ふわのせき)は、古代東山道関所の一つで、現在の岐阜県不破郡関ケ原にありました。「不破の道」と呼ばれたこの地の東山道に、壬申の乱の翌年(673年)に関所として設置されました。東海道の鈴鹿関北陸道愛発関(後には逢坂関)とともに三関と呼ばれ、壬申の乱の後からおよそ100年の間、治安維持のため畿内と東国との間の通行を厳重に監視しました。三関から東は東国または関東と呼ばれました。


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①② 「不破関」は平安時代の有名な歌枕でしたが、その頃には関所としての機能は既に失われ、関守は施設の維持管理を行っていたそうです。



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③ 実際、庭園には古い石碑や歌碑、句碑などが建っており、この中に松尾芭蕉の句である「秋風や 藪も畠も 不破の関」もあります。
 
 


3 常盤御前の墓(岐阜県不破郡関ヶ原町)


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①② 不破の関を中山道を西に行くと、公園の片隅に常盤御前の墓と伝える五輪塔(③左)があります。
常盤御前は、もと京都九条院雑仕の娘で、源義朝の妻となり今若丸、乙若丸、牛若丸の三人の子供を産んだが、 平治の乱で負け、捕らえられて清盛の妻となりました。
牛若丸が鞍馬山を抜け出して東国へ走ったと聞いた常盤御前は乳母の千種を連れここまで追ってきましたが、 この付近の山賊に殺されてしまいました。 これを哀れに思った土地の人々がここに葬り墓をつくったと言われています。今でも地元婦人会で月に2~3回花を手向けてます。

常盤御前は源平の戦いの時代( 平安末期)の人物で、関ヶ原合戦とは関係はありません。
 
 


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③ 墓の後ろには芭蕉の句碑「義朝の心に似たり秋の風」があります。
句意は、源義朝の愛妾(あいしよう)常盤御前(ときわごぜん)の塚に秋風が吹いている。義朝の悲壮な心に似た雰囲気のある寂しげな秋の風だ
 
 


4 中山道垂井(たるい)宿(岐阜県不破郡垂井町)
 
 


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①②③ 関ヶ原の大垣寄りに中山道垂井宿があります。中山道69次の57番目の宿。現在の垂井駅は東海道本線ですが、当時の東海道はもっと南。ここには中山道が通っていました。
中山道と東海道を結ぶ美濃路との追分宿としても賑わっていました。
 

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④ 東の見付
⑤ 西の見付




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⑥江戸時代から200年続く垂井宿の旅籠「亀丸屋」は今でも営業しています。






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⑦ 宿場名にもなった垂井の泉は古代から和歌にも詠まれた歌枕の地で知られた名泉。今も滾々と清水が湧き出しています。

⑧ 芭蕉もここで一句
   葱白く 洗いあげたる 寒さかな  芭蕉翁
句意は、畑から抜いてきた新鮮な葱の泥を庭先の井戸水で洗い流すと、たちまち真白な根が現れる。洗いあげたばかりの、水にぬれたその根の白さがいかにも寒々と目にしみる。
 


 
5 中山道今須宿((岐阜県不破郡関ヶ原町)
 




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①今須宿は美濃と近江の国境の美濃の宿場町。細い溝が「県境」であり、かつては国境でもありました。
②県境(国境)の隣に美濃国と近江国の「国境碑」(左)が建てられています。





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③ 夜に宿場に着いた旅人の目印 となった常夜燈。今では風情が感じられます。

④ 今須宿は「寝物語の里」。国境を挟んで2軒の旅籠があり、寝ながらにして他国の人と話ができたことから、こう呼ばれています。
 



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⑤⑥ 芭蕉が野ざらし紀行の帰り、この地で詠んだ句の「句碑」が並んでいます。
  正月も 美濃と近江や 閏月  はせを

年暮れぬ笠着て草履履きながら  はせを





6 姉川古戦場(滋賀県長浜市)


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①②③ 「姉川の戦い」は1570年(元亀元年)に起きた、浅井・朝倉軍約18千人と織田・徳川軍約28千人によって行われた合戦です。この戦いは、以前信長が朝倉氏を攻撃した際、信長が妹お市を嫁に出して同盟を結んでいた浅井氏が突如離反、信長は南北を挟まれ命からがら退却した「金ヶ崎の退き口」の復讐戦でした。北近江を流れる姉川を挟んで南に織田徳川軍、北に浅井朝倉軍が布陣、両者あわせて数千人が負傷討死、姉川は赤く血に染まったと言われています。付近には陣を敷いた城館・山城跡や、合戦にちなむ地名などが残っています。姉川の戦いに敗れた浅井・朝倉軍は小谷城に敗走します。
 



7 日本百名城 小谷(おだに)城 (滋賀県長浜市)


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① 小谷城は、長浜市の小谷山(495.1m)にあり、浅井(あざい)家が3代にわたって居城としていました。築城は1524年ごろで、中世三大山城のひとつです。湖北の大名・浅井長政と織田信長の妹・お市の方、その間に生まれた3人の娘・浅井三姉妹(茶々、初、江)ゆかりの城です。
姉川の戦い後、浅井長政は小谷城に退却。長政は3年後天正元年(1573年)9月1日(8月28,29日説もあり)織田信長の猛攻(小谷城の戦い)により自害。
小谷城は浅井家が滅んだ後、羽柴(はしば)(豊臣)秀吉(ひでよし)に与えられましたが、秀吉は今浜(いまはま)(現在の長浜)に城を築いたために、そのまま廃城となってしまいました。小谷山全山におよぶ城跡の遺構から、当時の面影を偲ぶとともに、お市の方と3人の娘たちの生涯に思いをはせます。




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② 小谷城跡絵図がある場所は「番所跡」。ここまでは車が入れます。ここから本丸跡まで400m山道を登ること徒歩約20分。
③ 御前山展望台。琵琶湖や湖北の地を一望することができます。


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④⑤ 御茶屋敷跡 番所のすぐ上にある曲輪(くるわ)。



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⑥⑦ 桜馬場跡にある浅井氏及び家臣供養塔。浅井長政は享年29歳。
自害したのは9月1日。奇しくもお参りした9月1日が長政の命日でした。





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⑧ 大広間跡。 南北85m東西35mに及ぶ城内最大の曲輪。その中に御殿が建ち並び、土蔵や井戸もあったそうです。




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⑨ 本丸跡。
⑩ 本丸の石垣。



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⑪ 小谷城の近く、国道365号脇に道の駅「浅井三姉妹の郷」があり、小谷城や浅井長政、浅井三姉妹の情報が得られます。