2017年JAF全日本ダートトライアル選手権第3戦
「2017年東北ダートトライアル IN KIRIYANAI」
大会のひとコマと旅の途中
その3 決勝日朝ゲートオープン前&大会終了後
1 館鼻(たてはな)岸壁朝市(青森県八戸市新湊)
イカやサバをはじめ、全国有数の水揚げをほこる青森県八戸市の八戸港。
普段は何もない広大な岸壁に、3月〜12月末、毎週日曜日の日の出から9時位まで出現する巨大朝市が館鼻岸壁朝市(たてはながんぺきあさいち)。
決勝日の朝、夜明け前に起きて、舘鼻岸壁朝市に行ってきました。










①~⑩ 全長800メートルにわたって300以上の店が立ち並び、毎週数万人もの人出を誇る、青森県内・東北
はもちろんのこと、国内でも最大級の朝市。通路に人があふれ、歩くのが困難なほどのにぎわい。八戸の鮮魚や干物などの魚介類はもちろん、野菜、果物、花、お惣菜。食事処はお好み焼き・タコ焼き・手羽先から、インド・中華・韓国料理となんでもござれ。コーヒーショップにスイーツ、パン、はたまた刃物や骨董品、ミシンなどなど…。お店の屋台の裏で朝市ライブを開催する店舗もあり。とにかくなんだかフリーマーケットのようでもあり。
2 松島 西行戻しの松公園 (宮城県宮城郡松島町)


① 西行戻しの松公園から見た松島 。5月5日(金)撮影。
遊覧船の向こうの島の先に陸続きに見える島が雄島。雄島の左後方に位置する五大堂は雄島の陰に隠れて残念ながらここからは見えません。
② 「西行戻しの松」とは、西行法師が諸国行脚の際、松の木の下で出会った童子と禅問答して敗れ、身を恥じて松島行きを断念」し引き返したという由来の地。この公園の一帯は260本余の桜の名所で、もう半月早く来れば、展望台からは桜と松島湾の景色が一体となった、他に類をみない花見が味わえました。


③④ 「西行戻しの松」から見た松島 の日の出 5月8日(月)4時38分と42分に撮影。
3 松島 雄島(おしま)
朱塗りの橋(渡月橋)が架けられ雄島は、僧侶の修行の地であり死者の極楽浄土を祈念した板碑や洞窟の中には五輪塔があります
元禄2年(1689年)5月9日(新暦6月25日)芭蕉と曾良の二人は、塩釜から舟で日本三景松島に着きました。芭蕉はこれらの島々をめぐった後、最後は現在の松島海岸駅に近い雄島に上陸しました。

① 「おくのほそ道」雄島が磯の章段に、芭蕉と曽良の二人が雄島に立ち寄ったことが記されています。
奥の細道には「其間二里餘、雄嶋の磯につく」とあるので、最後は現在の仙石線松島海岸駅の南にある雄島という小島に上陸したようです


② 芭蕉(左)と曽良(右)の句碑。
左) 朝良さを 誰(たが)まつしまぞ 片心 芭蕉
句意は 朝な夕なに『奥の細道』の旅への想いで松島が心を占有している。そこに誰か恋する人が待ってでもいるように。「松島」と「待つ」の縁語をかけた。松島で呼んだのではなく、元禄元年『奥の細道』の旅を計画しての作。古来和歌にも詠まれている名勝松島を見たいという熱き思いを語ったものでしょう。
右) 松島や鶴に身をかれほととぎす 曽良
句意は…松島よ。ここでは鶴がふさわしい風情なのだから、鶴に身を変えてくれ。今鳴いているほととぎすよ
③ 芭蕉翁松島吟並序碑
この碑は、寛政元年(1789年)に雄島の最北端に建てられた石碑で、高さは2メートルほど。瑞巌寺の「おくのほそ道」碑と同じ松島湾の章段が刻まれている
そもそもことふりにたれと松島は扶桑第一の好風にして凡洞庭西湖を恥す東南より 海を入て江の中三里浙江の潮をたたふ島々の数を尽して欷つものは天を指臥するものは波に匍匐あるは二重にかさなり…千早振神の昔大山すみのなせる業にや造化の天工何れの人の筆をふるひ詞を尽くさむ
朝よさを誰(たが)まつしまぞ片心
と碑文の最後に芭蕉の句碑にある同じ句が添えられている。




④ 1285年に建てられた日本最古の板碑だそうです。
⑤~⑦この島は全体が修験・霊場だったといわれているように、至る所に岩窟が彫られ、松の林のあちこちに古いお堂や数えきれない程の古い石碑が林立しています。
4 瑞巌寺


① 国道45号線観光桟橋付近の「奥の細道」道標。時間の都合で五大堂は次回に。
② 今回は瑞巌寺へ。


③ 瑞巌寺総門
④ 瑞巌寺の参道。

⑤ 瑞巌寺は、仙台藩藩祖伊達政宗の菩提寺で、正式には「松島青龍山瑞巌円福禅寺」という。その歴史は古く、平安期にまで遡り、創建は天長5年(828年)と伝えられるています。まだ6時30分。8時の開門時刻前なので拝観できず、門外の句碑を訪ねました。

⑥「おくのほそ道」碑。
嘉永4年(1851年)の建立。「おくのほそ道」の松島湾の章段が刻まれている。
抑ことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして、凡洞庭・西湖を恥ず。東南より海を入て、江の中三里、浙江の潮をたゝふ(後略)。
5 日本百名城 仙台城
独眼竜政宗の名で有名な奥州の覇者「伊達政宗」が築城し、江戸時代を通して奥州伊達家62万石の居城であった仙台城(青葉城)を訪ねて来ました。


① 巽門跡。
本丸への登城ルートは2ルートあり、今回は正宗時代の登城路と言われる三ノ丸巽門ルートを取ることにしました。最初は巽門が仙台城の正門だったとか。大手門は後からできた正門だそうです。巽門は仙台空襲により焼失しまいました。
大手門からの登城ルートは車が通れますが、巽門跡からは車は入れず、本丸跡へは歩いて登頂になります。
② 沢門跡 巽門ルートはここで大手門からのルートと合流します。巽門跡から歩いてきたので、本丸跡まで歩くことになりました。


③ 本丸北壁石垣
仙台城は、南は竜ノ口渓谷、東は広瀬川、西は青葉山の自然林に守られた天然の要害であるため、石垣は主に北側に築かれました。石垣の高さは平均17メートル。勾配は平均70度。
④ 本丸詰門(つめもん)跡
本丸の正門になる門で、宮城県護国神社の鳥居が建っています。護国神社は国家のために殉難した人の霊(英霊)を祀るための神社で、正宗公とは関係ありません。全国府県の護国神社は何故か城跡に多い。

⑤ 本丸跡
東と南を断崖が固める天然の要害に築かれた城は、将軍家康の警戒を避けるために、あえて天守閣は設けなかったといわれています。
代わりに、本丸御殿が造られ、その中心に造られたのが俗に「千畳敷」ともいわれる広大な「大広間」です。


⑥ 正宗騎馬像。
政宗騎馬像は第二次世界大戦のとき、金属類回収令により撤去されました。だからこの騎馬像は二代目です。
⑦ 初代正宗像
正宗騎馬像は全て溶解していたはずでしたが、戦後、頭から胸は溶かされずにいたのを発見されました。この胸像は現在、三の丸(仙台市博物館裏庭)跡地に展示されていますが、この像が初代正宗像です。やはり、軍関係者も仙台の礎を築いた政宗公のその「お顔」を溶解することはできなかったのでしょうか。


⑧⑨ 丸跡からは、木々の向こうに高層ビルの立ち並ぶ仙台市街中心部のパノラマ風景を楽しむことができます。天気が良い日には太平洋まで望むことができます。眼下は東と南は断崖となり、広瀬川が天然の外堀の役を果たし、この地に立つとき、いかに要害堅固な城であったことが実感できます。

⑩ 昭忠碑 あまりにもでかさに正宗騎馬像よりも目立つ。西南戦争日清戦争の戦没者等の慰霊碑。手前の鳥は昭忠碑の塔上に設置されていましたが東日本大震災で落下。以後安全のため今の位置に置かれています。
6 宮城県知事公館(仙台市青葉区)


① 宮城県知事公館正門。元々は仙台城のどこかの城門でしたが、大正時代に移築されました。
ちなみに現宮城県知事は村井嘉浩(むらい よしひろ)氏。
② 宮城県知事公館の敷地です。玄関の車寄せが見えます。結婚式・誕生会等のお祝い事やお食事会など1日62140円で全館を借りることができます。
7 芭蕉の辻(仙台市青葉区)

① 「芭蕉の辻」の碑は青葉区大町一丁目、安田生命仙台ビルの前に建つ。この辻は、正式には「札の辻」といい、江戸時代には道路の中央に幕府の制札(禁令の箇条を記す札)が掲げられていました。
② この地は、仙台城の大手から城下を東西に貫く道(塩釜街道)と奥州街道が交差する十字路にあたり、諸方への里程の基準となりました。松尾芭蕉もここを通って塩釜に向かったゆかりの地かと色めき立ちましたが、調べるとどうやら関係ありません。
8 陸奥国分寺跡/薬師堂(仙台市若林区)


①② 天平13年(741年)、聖武天皇の発願により全国に建立された国分寺の一つで、最北に位置しています。国分寺の規模は奈良の東大寺と同規模であったと推定されています。
文治5年(1189)源頼朝の奥州侵攻の際に兵火で焼失しました。これを伊達正宗が薬師堂などを建てて再興しました。

③ 丁度5月8日は、毎月8日の縁日「お薬師さんの手作り市」の日でした。参拝者でごった返し。


薬師堂前で運良く芭蕉さんと伊達藩兵士に会うことができました。
9 榴岡天満宮(仙台市宮城野区)


①② 榴岡天満宮
芭蕉は、元禄2年(1698年)5月7日(新暦6月23日)、天満宮に参詣しました。


③ 芭蕉50回忌追善供養に建てられた句碑。
「あかあかと 日はつれなくも 秋の風」
金沢で詠んだ句。句意は 立秋も過ぎたというのに、夕日は相変わらず素知らぬふうに赤々と照りつけ、残暑はきびしいが、さすがに風だけは秋の気配を感.じさせる。
④ おくのほそ道の風景地スタンプラリー」が4月29日から行われています。 指定地5か所以上のスタンプを集めて、大垣「奥の細道結びの地」に行くと、記念品(手ぬぐい)がもらえる。気が付くのが遅かった。