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旅の途中  



その2 松尾芭蕉ゆかりの地と句碑を訪ねて 前編/神戸・大阪・奈良


昼間の空き時間をどう過ごすか。今回は神戸、大阪、奈良、大津、京都に散在する松尾芭蕉ゆかりの地と句碑を訪ねました。歴史の「聖地巡礼」とも言えるでしょうか。
 


1 神戸/須磨寺(神戸市須磨区)
 


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① 『須磨寺や 吹かぬ笛聞く 木下闇(こしたやみ)』  1688年4月、松尾芭蕉が源平古戦場を訪ねて、平敦盛を偲んで詠んだ句。須磨寺の木下闇にとどまっていると、吹いてもいないのに平敦盛の笛の音が聞こえるかのような錯覚に囚われる。


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② 須磨寺本堂 須磨寺には平敦盛と熊谷直実の像や、敦盛の首塚、敦盛遺愛の「青葉の笛」等が展示されています。




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③ 敦盛遺愛の「青葉の笛」              ④ 敦盛の首塚
 



2 神戸/現光寺(神戸市須磨区)
 


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① 『見渡せば ながむれば見れば 須磨の秋』
芭蕉は源氏物語の主人公、光源氏がこの地に侘び住まいした際に見た須磨の名月を、見てみたくてこの地を訪れたそうです。しかし芭蕉が訪れたのは春。光源氏が見たと言われている月は秋の月で見ることができなかった、無念さを詠んだ句です。
また、この句は三段切れの名句と言われています。(三段切れとは、三句体の575がいずれも切れたかたちになり、ばらばらな印象を与えてしまう形式です。普通は禁じ手とされています)

左は仕事(特装車架装)を通じて知り合った40年来の友人で須磨在住の杉原紘治さん。今回須磨の3か所をご案内頂き、ありがとうございました。




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② 芭蕉は1688(貞亨5)年4月に須磨を訪れ、現光寺境内の風月庵に宿を取っています。
③ 現光寺は源氏物語の須磨の巻の舞台とも伝えられていることから「光源氏の住居跡」とも言われ、元は源氏寺とも呼ばれていました。境内の入口には源氏寺と彫られた石碑があります。



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④須磨関跡の碑。この付近は古代の須磨関があったといわれる場所です。




3 神戸/須磨浦公園(神戸市須磨区)



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① 『蝸牛(かたつぶり) 角ふりわけよ 須磨明石』
句意は カタツムリの二本の角、須磨と明石が「這いわたる」ほどの距離であれば、お前の角で片方は須磨、もう一方は明石を指し示してみよ。
芭蕉が1688年45歳のときに詠んだ有名な句で昔の摂津と播磨の国境の境川の畔で詠まれたもの。境川は秀吉の天正検地のときから摂津と播磨の境界となった。




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            ② 須磨浦公園案内図 「現在地」が芭蕉句碑のあるところ。



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③④ 敦盛塚石造五輪塔 源平一の谷の合戦で、平敦盛が熊谷真実に首を討ち取られ、それを供養するために塔が建てられました。ここには胴体のみで、首は須磨寺の首塚に葬られています。
 


4 大阪/大阪星光学園高校(大阪市天王寺区)


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① 大阪星光学園高校の園内に芭蕉の句碑があります。 

② 谷町筋四天王寺近くにある星光学園から南に、のっぽのビルのアベノハルカスが見えます。




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③ この地は、江戸時代を通じ、有名な茶屋「浮瀬亭(うかぶせてい)」があった場所で、1694年(元禄7年)9月26日ここで句会があり、芭蕉はいくつかの句を残しています。
④ 芭蕉の句のある場所は芭蕉の「蕉」、与謝野蕪村の「蕪」を取って、「蕉蕪園」と名付けられています。





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④ 『松風の 軒をめぐりて 秋くれぬ』
「この座敷に坐して耳を澄ますと、松風が軒のあたりを静かに吹きめぐっている。ただ、そうそうと吹き過ぎる松籟の中に、今年の秋もまさに過ぎようとしていることを、しみじみと感ずる」

 

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⑤ 『此道や 行人なしに 秋の暮れ』 芭蕉
かなりかすれて読みにくいですが、これは芭蕉の真筆を写して 石碑に刻んだものです。

もの淋しい秋の夕暮れ。行く人もいないひとすじの道が、かなたへと続いている。俳諧の道も同じように暮れやすく孤独なものだなぁ、という句。芭蕉の当時の胸の内がわかる。高みをめざして行けば行くほど人は孤独を感じるもの。俳諧に生涯をかけた芭蕉の孤独はどれほどだったか。
二週間後の死を悟った句でしょうか。なんともわびしい句です。

 



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⑥ 『此の秋は 何で年よる 雲に鳥』
今年の秋はどうしてこんなに身の衰えを感ずるのだろう。なんだか急に年を取ったかのような気がする。秋の空を寂しく眺めやると、遠く雲に飛ぶ鳥の姿が目に入るが、その頼りなげな様は、あたかも旅に病む私の心のようで、旅の愁いをひときわ深く感ずることである。

芭蕉の健康のすぐれなかった頃、秋の空に浮かんでいる白い雲、その雲のかなたに遠く飛んでいる鳥を詠んだものです。「鳥」は日本から去っていく渡り鳥でしょう。 これが句にわびしさを一層つけ加えています。この句も死期をさとった句であります。
浮瀬亭の句会があった9月26日から一週間後の元禄7年10月2日病状は急変し、10月12日死去しました。 

 



5 大阪/円成院(えんじょういん)(大阪市天王寺区)
 


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① 芭蕉翁墓(正面中央) 墓石の劣化がひどく、判読できません。遺骸は大津の義仲寺にあるので、ここにはありません。墓標と言った方がよろしいようです。
芭蕉は最後の旅となる1694年(元禄7年)9月11日に訪れています。
右の石碑は「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」と刻まれているはずの句碑も半ば剝がれていて、読み取ることは不可能です。
② 表門を入ってすぐ左手に「芭蕉茶屋」と彫られた碑があります。戦前までは松屋町筋を挟んで円成院の向かい側にあったのですが、道路の拡幅工事の際に現在地に移したそうです。
 
 



6 大阪/梅旧禅院(ばいきゅうぜんいん)(大阪市天王寺区)



 
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① 倍旧禅院は大阪星光学園高校のすぐ北にあります。芭蕉が南御堂の花屋仁左衛門宅で亡くなった時、当時の梅旧禅院の住職がお経を読んだとされています。



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② 境内西側の墓地につながる一角に「芭蕉堂」があり、中に芭蕉の像が安置されていますが、扉が施錠されていて残念ながら見ることができませんでした。
③ この芭蕉堂の裏手の塀際に、芭蕉の墓碑(左から2つ目)が立っています。
 




7 大阪/浄春寺(じょうしゅんじ)(大阪市天王寺区)



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① 梅旧禅院の前の「口縄坂」への道を挟んだ向かい側、浄春寺にも芭蕉の足跡を残す「芭蕉翁碑」があります。
② 碑は正門の入り口の階段脇に「芭蕉反故塚」と共に立っています。 反故塚は、句作の時に出た反故紙を埋めところに供養のため建てた塚。元々は門の中の竹薮にあったのを現在の位置に移設しました。
 




8 暗越(くらがりごえ) 奈良街道  (東大阪市~奈良県生駒市)
 


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①② 『菊の香に くらがり登る 節句かな』 
近鉄枚岡駅から国道308号を奈良方面に500mほど行った、勧成院の境内に建立されている芭蕉句碑。殆ど読めません。




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③④⑤ 『菊の香に くらがり登る 節句かな』 
勧成院から暗峠に200mほど登った右手道端にある芭蕉句碑。
句意は あたかも重陽の佳節の朝まだき、さわやかな菊の香を慕いつつ、ほの暗い山路を踏み分けて、名も暗がりの峠を登ったことである。
芭蕉は1694年(元禄7年)9月9日前泊をした奈良をたち、暗峠を越え大坂に入りました。これが芭蕉最後の旅となりました。途中、この暗峠でこの句を詠みました。
 


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⑥⑦⑧⑨ 暗峠といえば、酷道と紹介されることが多い、とても急勾配の絶対車で通りたくない国道と言われています。かつては暗越奈良街道と呼ばれ、大阪と平城京を最短ルートで結ぶ道でした。
地図で見ると確かに国道308号なのですが、実際には国道とは名ばかり・・・、普通車で通るのはちょっと・・・と思わせる狭さで、特に大阪側はものすごい急勾配の本当に酷い道です。


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⑩ 勾配37度。左は歩いて登るのを一緒に付き合ってくれた奈良の友人の菅谷正さん。右は自転車で暗峠を上る高校3年生の桃子ちゃん。雨の中、ファイト!



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⑪⑫ 勧成院から2kmの上りを1時間も歩いてようやく頂上の暗峠。これでも国道ですが石畳が長い歴史を感じさせます。



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⑬ 暗峠 奈良県側から東大阪市方面を見た石畳。
⑭ 途中の休み茶屋で食べたカレーうどんがうまかった。
 


9 奈良/二月堂・法華堂(三月堂)(奈良市)


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① 芭蕉句碑 (二月堂に籠りて)『水取りや 籠りの僧の 沓の音』
句意は、二月堂に参詣し、お水取りの儀式を拝したが、冷え冷えとした寒さの中で、白の紙衣をまとい修法に打ち込む練行衆の姿や、高鳴りする「沓の音」は、まさに冷厳を極むものであるよ。
(くつ)の音」は、練行衆が、法行中、差懸(さしかけ)という歯のない下駄を履いて出す甲高い音。



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②③ 二月堂へと向かう階段の途中、実際には法華堂(三月堂)敷地内の龍王の滝の入口付近に、松尾芭蕉が貞享元年(1684)秋、8月から翌年4月にかけて旅をして記した紀行文「野ざらし紀行」の際に詠まれたものの句碑が立てられています。



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③ 左が二月堂、右が法華堂(三月堂)
二月堂・・・2月に法要が行われたお堂。つまり東大寺のお水取りです。お水取りの行事は修二会(しゅにえ)といい2月から始まります。2月に修二会が行われるお堂なので二月堂というのです。有名な「お松明」は3月1日から3月12日までです。
法華堂では旧暦3月に法要が行われていたので「三月堂」と言われています。法華滅罪の法要、法華会です。
 



10 奈良/鹿苑(ろくえん) 春日大社境内



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①② 鹿苑は春日大社の石燈籠の並ぶ参道の南側に位置する鹿の保護施設。怪我をした鹿や病気の鹿、妊娠中のお母さん鹿の保護などを行う施設です。10月にはおなじみの年中行事「鹿の角きり」がここで行われます。
 


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③ 芭蕉句碑 『びいと啼く 尻聲悲し 夜の鹿』 
鹿苑のすぐわきに芭蕉句碑があります。
死の1ヶ月前最後の旅、元禄7年9月8日の晩、奈良に一泊した芭蕉 は、宿近くの猿沢池を散策する。折からの晩秋に遠くから、雄に答える雌のぴいと後を引く哀調たっぷりたたえた鳴き声が聞こえてきた。  「尻聲」とは、長く尾をひいて鳴く鹿の声。ぴいという擬声語が芭蕉ならでは。雄鹿はキューンという高い啼き声だそうです。


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④ 丁度鹿がエサ欲しさに寄ってきました。句碑にふさわしい構図になりました。