夏子の冒険は三島らしい作品だった。
彼の作品の女性は酷く奔放で、我侭で、自由だ。
あくまでも自己本位。女性ならではの身勝手さが、とてもよく出ている。
最後の一文が効いていた。
そんな彼の作品を読むたびに、女性の感情的な部分を哲学的に愛さなかったのかなぁとも思う。
理性やあらゆる概念を引き合いに出せば、女性の心理はいつも矛盾する。
三島は太宰を嫌っていたと記憶しているが、その点、太宰は決して女性の矛盾に抗わない。
そこが嫌いだったのかもしれない。
斜陽で三島が太宰の貴族の描写がめちゃくちゃだと指摘していたが、太宰はそんなことには構わない。彼の作品は、矛盾に満ちている。
歯牙にもかけないでいられたはずの三島が、太宰を意識していただろうと思われるのは、三島にも太宰にも共通する『自己愛』を強く感じる。
理路整然と『自己愛』に浸るか、支離滅裂ながら『自己愛』に狂うか、彼らの死は自らが選び取るという意味で共通している。それが、周囲の感情などものともしない、完全な『自己愛』に基づいているからだともいえるだろう。
究極の『自己愛』は己の感じる瞬間で、命という舞台の幕を引いてしまうことだ。その死が、悲劇が、自分自身を愛おしいと感じる感情をクライマックスへと引き上げる。
いずれも道連れにされた人に対して、深く同情する。
彼等は、どんな瞬間も自分以上には誰も愛せないというのに。
いまどき、自殺が流行っているが、誰かを心から愛していれば、人は死ねないと思うのだ。必ず、誰かがこの世界に引き止める。今わの際であなたを引き摺り戻す人こそ、あなたが本当に愛している人なのだろう。
愛している人は、時により移り変わる。
それは、家族だったり、恋人だったり、子供だったりするだろう。
絶望という名の自己愛が、他者への愛を上回ったとき、命を断つことができるのかもしれない。
自殺を考えてしまう子供たちがいれば、それは、周囲の愛もまた、その子供に伝わっていないのかもしれない。深い愛を子供にわかる形で示してあげるのも、この哀しい時代に生を享けたものの新しい義務かもしれない。
私も子供の頃、絶望を何度か感じたが、死にたい気持ちよりも上回る愛を受けていたと今は思う。最後に背中を押すのは、自分にしか愛されていない自分を感じる恐怖かもしれない。