室町幕府の第12代将軍・足利義晴から「晴」の1字を拝領した名を名乗った戦国武将は、次のうちの誰?

武田信玄です。

1536年に元服した際、武田信玄は幼名の「太郎」から「晴信」へと名を改めました。この「晴」の字は当時の室町幕府将軍・足利義晴から1字を拝領したもので、同様に足利義晴から1字を拝領した武将としては今川義元(「義」の字)などが挙げられます。


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「センゴク」シリーズの中では中核となる「センゴク天正記」。

武田信玄が活躍したのは初期の「センゴク」の中ですが、本当に戦国ものらしい興奮が得られるようになったのはこのシリーズからです。

この話全体の流れを貫くのが武田との関わり、長篠の戦から竹田の滅びに至るまで、泣かせます。
「府中三人衆」といったら、何という武将に仕えた3人を指す名称?

柴田勝家です。

信長の指示により越前を治めることとなった柴田勝家。その補佐として越前国に派遣された佐々成政・前田利家・不破光治の3人は「府中三人衆」と呼ばれました。この名称は、3人が越前府中(今でいう県庁所在地のようなもの)周辺を治めていたことに由来しています。
本多正純失脚の原因となった、いわゆる“釣天井事件”の舞台となった城は次のうちどれか?

宇都宮城です。

本多正純は、父正信の代から徳川家で大きな権勢を誇ったが、元和8年(1622)、突如として宇都宮城に釣天井をしかけ将軍秀忠の暗殺を図った等の理由で改易された。これを、宇都宮城釣天井事件という。
築城の際の「割普請」の意味として正しいものは次のうちどれか?

工区を複数に分け、分担して担当すること
です。

割普請(わりぶしん)とは、1つの普請において、工区を複数に分け、それぞれを分担して担当することをいう。徳川政権下で行われた天下普請などでよく採られた方法である。

上に挙げたのは、戦国時代の2つの合戦とその通称です。空欄に共通して入る言葉は次のうちのどれ?

桶狭間です。

島津軍が伊東軍を破った1572年の「木崎原の戦い」と、毛利軍が安芸武田軍を破った1517年の「有田中井出の戦い」。これらの戦いは少数勢力が数の不利を覆して勝利したことから、それぞれ「九州の桶狭間」「西国の桶狭間」などと呼ばれることがあります。
柴田勝家の与力として付けられた府中三人衆の“府中”とは、次のうちどこの国の府中を指すか?

越前国です。

織田信長の下で越前に封ぜられた柴田勝家の与力として付けられたのが、同国の府中一帯を治めた前田利家・佐々成政・不破光治(子の直光を含む場合もある)の3人で、この3人を府中三人衆と呼ぶ。
信長の攻めに屈し、息子・浅井長政と同様に小谷城で自害した、長政の父といえば?

浅井久政です。

姉川の戦いで敗れたことにより勢いを失った浅井氏は、1573年、本拠の小谷城を信長に攻められ、当主・浅井長政とその父・浅井久政は自害。これにより浅井氏は滅亡しています。その翌年の正月の宴で、信長が金箔のドクロを飾り酒の肴にした、という逸話が知られていますが、このドクロは朝倉義景と浅井久政・長政父子のものだったそうです。
家康が没した後、後を追うようにその49日後に世を去った、家康が「わが友」と呼んだ参謀といえば?

本多正信です。

本多忠勝、榊原康政といった屈強な家康家臣団の中にあって、参謀役として家康の天下取りを支えたのが本多正信です。家康は正信を「わが友」と呼ぶほど全幅の信頼を寄せており、江戸幕府の政務は正信が主導して行っていたそうです。
1616年、家康が没すると、その49日後、供養が明けるのを待つかのように、正信も世を去っています。