開けられました
荷物が届きました
もうそろそろ切らないと
始めの一歩へ
目が覚めてから、かれこれ一時間が経とうとしている。布団の中は、外界から隔絶された楽園のように温かいが、ひとたびそこから出てしまえば、身を切るような極寒の異世界が待ち構えている。もし何も持たず、ただ横たわって天井を見つめているだけならば、この一時間は耐えがたい苦痛になっていたはずだ。しかし、手元にあるスマートフォンやタブレットという存在が、その退屈をあっけなく塗りつぶしてしまう。心地よいぬくもりに包まれながら画面を眺めていれば、一時間や二時間といった時間は、まるで魔法にかけられたかのように瞬く間に過ぎ去っていく。ふと我に返れば、出すべきゴミは手付かずのままであり、洗濯機に取り掛かる気配すらない。この状態は、物理学における「慣性の法則」によく似ている。静止している物体を動かすためには、動き続けるための力よりも遥かに大きなエネルギーを最初に注ぎ込まなければならない。この心理的な重みこそが最大の障壁であり、一歩目を踏み出すためには、並大抵ではない労力が必要となるのだ。だが、私たちは経験を通じて知っている。ひとたび重い腰を上げ、最初のアクションを起こしてしまえば、あとは案外とスムーズに動けるものだということを。一度かかったエンジンは、寒さを跳ね除け、私たちを次なる行動へと導いてくれる。だからこそ、今はその先の面倒な作業に怯えるのではなく、ただ一点、布団を撥ね除けて立ち上がるという「最初の一歩」にだけ、全神経を集中させるべきだ。その一瞬の決断さえ下せば、停滞していた現実は確実に動き始めるのだから。
電気ポットなし生活
我が家から「電気ポット」という存在が消えて、かれこれ一年ほどが経つだろうか。かつてポットといえば、沸騰したお湯を魔法瓶の構造だけで閉じ込める道具だった。機能は内部の真空構造頼み。時間が経てば、湯気が「ぬるま湯」へと形を変えていくのは世の常であり、数日も放置すれば情けないほど冷めてしまったものだ。
それがいつしか、電気の力で指定した温度を寸分違わず保つ「保温機能」付きが当たり前になった。我が家でも長年重宝していたのだが、ある時、その相棒が悲鳴を上げた。故障によって、沸騰が終わることのない「永久機関」と化してしまったのだ。いつの間にか中身は空っぽ、部屋には蒸気だけが立ち込める。買い替えを検討し、機能や値段を吟味したはずなのだが、結局「これだ」という決め手がないままズルズルと今日に至っている。
「不便」が教えてくれた贅沢
現在は、お湯が必要になるたびにコンロに火をつけている。たしかに、欲しいと思った瞬間に熱いお湯がある便利さはない。数分のタイムラグは確実に存在する。しかし不思議なことに、その待ち時間を「不便だ」と感じることも、火にかける手間を「面倒だ」と感じることもないのだ。
むしろ、電気代の面でもこちらの方が賢い選択なのではないかと考えている。かつて耳にした「電気ポットの保温は、実はかなりの電力を食う」という話が頭の隅にあるからだ。技術革新が進んだ今では昔の話かもしれないが、チリも積もれば山となる。
思い返せば数十年、我が家では夜になってもポットの電源を落とす習慣がなかった。電気の無駄遣いには厳しい家風で育ったはずなのに、なぜかポットだけは聖域のように24時間通電し続けていた。今となっては、我が家の「七不思議」の一つと言える。
バラの包装紙と、姉妹の対比
そんな我が家とは対照的だったのが、今は亡き親戚の家だ。そこにお邪魔した際、真っ先にポットのスイッチを入れる伯母の姿が、今でも鮮明に記憶に焼き付いている。使う時にだけ沸かす。その潔いまでの合理性は、他の生活の端々にも現れていた。
伯母は、買い物といえば「バラの包み」で知られる某百貨店と決めているような、いわゆる真の「お得意様」だった。形見分けでいただいた伯父の背広のブランドタグに百貨店の名を見るたびに、一つの時代を感じずにはいられない。こうした「質の良いものを、信頼できる場所で買う」という層が購買の主役から退場していくのだから、百貨店業界の苦戦も当然の帰結なのだろう。
伯母の家は、いつ訪ねてもチリ一つ落ちていなかった。同じ姉妹という血を分け合いながら、一方は電気をつけっぱなしにし、一方は使う分だけを沸かす。一方はおおらか(と言えば聞こえは良いが)に暮らし、一方は背筋を伸ばして整然と暮らす。その対比の面白さを、今になって静かに反芻している。
一杯のコーヒーが繋ぐ時間
さて、コンロの火を見つめて沸かしたお湯で、インスタントコーヒーを淹れた。
シュンシュンと鳴るやかんの音、立ち上る真っ白な湯気。それは電気ポットでは味わえない「今、私はお湯を沸かしている」というささやかな実感だ。
便利さを手放した代わりに手に入れた、このゆったりとした時間。熱いコーヒーを啜りながら、亡き親戚のあの几帳面な横顔を思い出している。
射倖心を煽られてますけど、、、
寒い一日
三連休二日目
新年です
年が改まり、気持ちも自然と新たになります。
新しい年を迎えるにあたり、あれこれと目標を思い描くものですが、今年の新年の抱負は、何よりも「健康に過ごすこと」。この一点に尽きます。
というのも、昨年は年の瀬も押し迫った頃に帯状疱疹を発症するという出来事がありました。まさか自分が、という思いもありましたが、身体は正直なものです。すぐに病院を受診したところ、診察時点ではすでに帯状疱疹そのものは治癒している状態とのことでした。しかし安心したのも束の間、医師からは「後遺症として腹痛が出ている可能性がある」との説明を受けました。
どうやらこの腹痛は一過性のものではなく、しばらく付き合っていく必要がありそうです。日常生活に大きな支障が出るほどではないものの、身体のどこかに常に違和感を抱えながら過ごすというのは、想像以上に気になるものだと実感しています。健康であることが、いかに日々の生活の質を左右しているかを、改めて思い知らされました。
折しも今年は厄年にあたります。迷信と片づけてしまうこともできますが、こうした出来事が重なると、やはり無関係とも言い切れない気がしてきます。だからこそ、無理をせず、体調の変化にきちんと耳を傾け、健康第一を意識して過ごしていきたい。新しい年は、そんな慎ましくも大切な決意とともに歩み出そうと思います。
正座が楽になってきたけど、、、
ベッドから立ち上がって座ろうとすると、足元にものがあって動けないことがある。
そんなとき、私は正座をする。
足を体の下に隠せば、ものを蹴ってしまう心配もない。
ただ、正座には難点がある。長く続ければ足が痺れ、痛くなるのだ。
だから、どうしても支障となるものを蹴ってしまったり、痺れや痛みから逃れようとする。
「その前に家を片付けろ」と言われれば、反論の余地はない。
これまでの私は、正座をすると踵とお尻がなかなかくっつかなかった。
ふくらはぎの筋肉が邪魔をして、どうしても隙間ができてしまう。
前のめりになりながら、無理やり両点をくっつけようと努力していた。
しかし最近、踵とお尻が自然にくっつくようになった。
柔軟性が増したのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
ふくらはぎや太ももの筋肉が減ったことで、障害がなくなり、座りやすくなったのだ。
足が細くなったことは目でもわかる。
筋肉が減った分、正座は楽になった。
でも、これは歓迎できることばかりではない。
走る量が減り、年齢も重なって、体の筋肉は確実に減っている。
これでは、歩いても走っても、すぐに疲れてしまう。
だからこれからは、筋肉量の減少を自覚した上で、意識的に体を動かさなければならない。
歳をとって歩けなくなると、何かと不便だし、体の不調も避けられないだろう。
少し面倒でも、走ることは続けよう。体を動かすことの大切さを、改めて感じながら。

