「うわぁ、ほんとにタイヤ館(かん)ですね」
門の前でその家を見上げながら、思わず声が漏れた。

「和登くん、その言い方はまずいよ」
隣で渋い顔をしている男が言った。穂村宗佑。私が助手を務めるところの探偵先生である。なにがまずかったのだろうか。

「それじゃまるで僕らがタイヤを買いに来たみたいじゃないか」

「……みごとなタイヤ館(やかた)ですね」

語呂が悪いなと思いつつ訂正すると、彼は満足そうにうなずいた。駆け出しのこの探偵は、変なところでこだわりをみせる。

まあでも、この家でタイヤを購入できてもおかしくない。門は自動車のゴムタイヤを切って延ばしたものを編み込んで作られているし、庭にはタイヤを積み重ねてつくられた馬だの人だのが展示されている。館そのものも、タイヤを模している。建物は地面から半円形に突き出していて、屋根は黒。窓と窓との間をホイールのように見せたいのだろう、四角い窓が時計まわりに角度を少しづつ変えて配置されている。今回の依頼人、岩淵弾次郎の邸宅だ。

客間に通されるとは、そこはさらにタイヤづくしだった。壁には大小様々なタイヤが飾られている。壁時計はふつうの振り子時計に見えたけど、よく見たら振り子の部分がタイヤだ。白黒の絨毯が敷かれた部屋の中央には、トラックのものだろうか、直径1メートル以上ありそうなタイヤがある。アルミホイールの代わりにガラスの天板が埋め込まれたそれは、テーブルなのだろう。そうそう、ドアノブの握りにも、小さなタイヤが巻かれていた。

当然のように座面がタイヤでできた椅子に座って待っていると、ほどなくして、この家の主人が現れた。

「お待たせしました」

想像していたより若い。三十代前半だろうか。髪をオールバックにして、アスリートのようにがっしりとした体つき。白のシャツに黒のベスト。胸元にはワンポイントでミニタイヤ。タイヤのお面を被ってきてもおかしくないぞ、と身構えてたけど、思ったよりタイヤまみれじゃないなあ。

「見事にタイヤで溢れてますねえ」
穂村さんが部屋を見回しながら、言った。

「はい。いいですよねタイヤ。走ったり曲がったり止まったり。僕らを運びまた、僕らに必要なものを運ぶ支えとなってくれている。何万回転もしながら淡々とそこにいてくれる……」
げ。しゃべり出したら止まらないマニアか。

「いやそれはともかくですね、じつは先生にご相談したかったのは妻のことです」
案外に早く切り上げてくれた。良かった。

「――」
でも本題に入ったとたん、彼の携帯が鳴りだした。

「ちょっと失礼」
仕事の話だろうか。ああ、例の件、数字は、そう言いながら弾次郎さんは部屋をあとにした。

「忙しい方のようだね。これだけ酔狂なことをするだけの稼ぎがあるのだから当然か。彼はどんな仕事をしてるんだっけ?」
「父親から自動車の部品製造および販売関連の会社をいくつか譲り受けているみたいです、って昨日レポートで渡したでしょ。読んでないんですか」
そう言うと、目をそらして、そうだったかなあ、そこは見落としたなあ、とつぶやいている。読んでないな、こいつめ。

探偵が待ちくたびれて、テーブルの上に置いてあったミニカーをいじくりだした、その時だった

「地震?」
「けっこう揺れてますね」
天井のシャンデリアが行ったり来たりしている。けっこう長い。

30秒ほどで収まったその時、
「――――いやあああぁぁぁ!」
悲鳴があがった。

穂村さんも私も立ち上がる。
「美佐子!」
弾次郎さんが青ざめた顔で戻ってきて、またすぐに別のドアから走り抜けていく。わたしたち二人も後に続く。

美佐子さんの部屋だろうか、階段を上って、扉を開けたそこには、壁に縫い付けられた女性がいた。胸に杭を打ち込まれて。床には、円い血だまりができていた。

(中★略)

事件が解決した次の日、事務所でコーヒーを入れながら私は穂村さんに尋ねた。

「そういえば、弾次郎さんが奥さんを殺した動機はなんだんですか?」

「タイヤの溝に対する意見の食い違いだよ。リブラグとブロックのどちらが優れているかで揉めたんだそうだ」
遠くを見るような、あきれているような顔で探偵は答えた。

「それは…… 最後まで、タイヤ馬鹿な事件でしたね…… あと、先生はどうしてあのアリバイが崩せたんですか? 館がぐるぐる動くなんて、ふつう思いつかないと思うんですけど」

「タイヤなんだから、回るだろうと思ったんだよ」

ナワンが村に戻ると、そこには灰色しかなかった。彼の故郷だったはずの場所には、砂と岩があるのみだった。わけがわからない、これは本当のことだろうか。確かめようとしたが、空気がひりつくように熱くて、近づくことができない。あちこちで蒸気が吹き出している。漂う砂埃すらも熱を帯びている。思わず顔を覆った。景色が揺らめいて見えた。

ナワンが日本での研修をおえ、帰ってきたのはほんの一週間前のことだ。3年間、シズオカの自動車部品工場として働いた。その貯金で、友人のように、自分もインターネットカフェを開こう、と思っていた矢先の出来事だった。

夜、制服を着た軍人が彼の家にやってきて、逃げるようにと強い口調で命令した。慌てて身の回りのものをつかみ、家族とともに窓ガラスがないバスに乗り込んだ。一時間ほど走り、空き地で下ろされると、遠くで牛が何万頭もうなったような音がした。真っ暗な闇の中に、赤い光が見えた。

3日たち、5日たっても、村に戻ることは許されなかった。ムラピ山が噴火したらしいということはわかったが、村はどうなったのか。テントの中で、不安とともに過ごす日々。彼は早朝、こっそり避難所を抜け出した。

パゲジュランへ向かう途中、ムラピ山から灰色の帯が何キロにも渡って続いているのが見えた。いつもの橋は通行止めになっていた。迂回して歩く。

太陽が最も高く昇るころ、彼は村へとたどり着いた。たどり着いたはずだった。しかし、この場所には、祖父が建てた家も、彼のオートバイも、ランジャルの家も、ラフィックの商店も、畑も、川も、道もすべてが消えていた。砂、砂、岩。なにが起きたのか、彼の頭は理解することを拒んだ。ただ、取り返しのつかないことが起きたことを感じた。

テントに戻ったときは、夜になっていた。しゃがみ込んでいると、携帯にSMSが届いた。
「ikeya desu. zassi de funka sirimasita daijob desukka……」
日本からだった。

働き出したころ、軽口も叩かず、だまって仕事をし続ける日本人が不思議だった。休むな、ぼうっとするな、手を抜くなと何度も注意された。とくにコウジョウチョウのイケヤさんは厳しかった。

「おいナワ、おれたちが作ってるのは車の部品だ。車ってのは、人を乗せて走る。もし車が壊れたらどうなる? 人が怪我したり、死んじまうかもしれないんだぞ。同じことをずっとやってるように思ってるかもしれねえけどよ、一つ一つ、ちがう人がこの部品に乗っかるんだ。だから、真剣にやれ。日本人は、やるときはやるんだ。」

「やるときは、やる、ですカ」

「そうだ。お前も日本にきたんだから、しっかりやれ。遊びは、遊ぶときに遊べばいい」

――やるときは、やる。
やるとき、やるとき。いまはなにをやるときなんだろうか。

気がつくと、荷物やゴミの下に埋もれていたギターをつかんでいた。

かすれ声で、唄いはじめた。

「上を向いて 歩こう」

カラオケでなにか日本の歌を唄えといわれて、選んだ曲だ。スキヤキならラジオで何度か聞いたことがある。弾き方は、寮で隣の部屋だったムラマツさんに教わった。

「涙が、こぼれないように」

これを唄って元気を出すんだよ。とイケヤさんは言っていた。哀しいメロディーなのに、どうして元気が出るんだろう。


「思い出す春の日 一人ぼっちの夜」

その答えが、少しわかった気がした。

「上を向いて歩こう
 にじんだ星をかぞえて
 思い出す夏の日 一人ぼっちの夜」

気づくと声を張って唄っていた。祖母も、父も、母も、弟も黙って聞いている。テントの回りに、人が集まりだした。

「幸せは 雲の上に
 幸せは 空の上に」

何人かがインドネシア語で唄いだした。

「上を向いて歩こう
 涙がこぼれないように
 泣きながら歩く 一人ぼっちの夜」

「一人ぼっちの夜」

まず家を建てよう。ナワンはそう決めた。

星座占いの7位って微妙すぎるんじゃないかと思いながら、坂道を歩いて行く。ガードレールの下に、九階建ての団地が見える。丘の上の高校まで、もうすこし。

曲がり角のカーブミラーに、狸のしっぽが揺れていた。ポケットからはみ出る、携帯よりも大きなストラップ。志穂だ。

「おはよー」
「……はよー」
顔がマフラーで半分埋まっている。

「ねえ、寒がり方がオーバーじゃない?」
「……こういうとき、地球が温暖化してもいいな、ってすこしだけ思っちゃうの。……でも、だいじょうぶ」
そう言って学校が指定した紺色のカバンから、がさごそとなにかを取り出す。

「マイボトル?」
焦げ茶色のそれは、どう見ても長さ20cmほどの水筒だ。

彼女はこくり、とうなずいた。
「おいしいココア」
「へえ、ココア持ってきたんだ」
「ううん。おいしい、ココア」
なにかこだわりがあるらしい。水筒のふたをくるくるっと開けて、とくとくとくと注いでいく。湯気が立ちこめる。ふぅふぅ吹いて一口、二口。なんだか幸せそうだ。

「……本に書いてあった。チョコを湯煎して溶かしたものに、ホットミルクをまず少しだけ入れる。かき混ぜてペースト状にしてから、さらにホットミルクを注いでできあがり」
「それってホットチョコレートじゃないの?」
「カカオ豆の飲み物がココア。ココアのうち、甘くって温かいのがホットチョコレート……」

へえ、そうなんだ。一口もらう。
おお。粉っぽさは微塵もなく、口の中にチョコの柔らかな甘みがぬくぬくと広がっていく。

「おいしいっ! こんなココア、はじめてだよ」
「そう。だから、おいしいココア。……しばらくは、これで持たせるの」
「そんなにチョコを買ったの?」
言ったとたんに、しまったと思う。
志穂の目が泳ぐ。肩が落ちる。
「あー、それは……」
ただでさえ低いテンションがガタ落ちだ。

そうだった。この子は、手作りチョコをバレンタインにあこがれの先輩に送ろうとして失敗しても作り直せるように買いだめした上で凝ったものを作るけど実際には渡すことができずにもてあます子だ。

まあ、聞いてないけど。たぶんそう。

「気にすんなー、もうすぐ春だよっ!」

赤いレンガの校舎が見えた。