clemmieの読書記録などなど

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読書記録、ときどきハーレクイン。

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『桶川ストーカー殺人事件 遺言』(清水潔・新潮文庫)を読んだ。

 

埼玉県のJR桶川駅前で白昼、大学生の詩織さんが何者かに殺害された。週刊誌記者の著者は、事件現場に出向き、目撃者や被害者の弟の声を聞く中で、これは通り魔ではないと確信し、この事件の真相に迫っていくノンフィクション。

 

事件現場に着いたのが遅かったこともあり、目撃者の証言を得るのにも苦労していた中で著者は、詩織さんの友人たちにコンタクトをとることに成功する。詩織さんは生前、自分に何かあった場合に備えて、彼らに「遺言」を託していた。

 

友人たちが語ってくれたところによると、詩織さんは、執拗なストーカー行為に悩まされていた。警察に出向いて相談しても、一向に取り合ってくれず、次第に詩織さんだけでなく家族にまで悪質な被害が及び始める。

 

警察が味方になってくれないなら、と詩織さんが「遺言」を託した相手は、信頼する友人たちだった。彼らは、詩織さんが話した内容を事細かくメモして記録に残していた。そこから浮かび上がるストーカーの正体は……。

 

と、ページをめくる手が止まらず一気に読んでしまった。詩織さんがストーカー行為に悩まされていた1999年は、まだストーカー規制法が成立しておらず、詩織さんが受けていた悪質で執拗なストーカー行為を取り締まる法律がないせいで、警察が動いてくれなかった。

 

詩織さんの被害の後で、ストーカー規制法が成立するのだが、その代償はあまりにも大きすぎる。女性ひとりの命と引き換えに、法律が成立するなんて残酷だし、詩織さんのようにストーカー行為に悩まされている人たちを救うことができても、詩織さんが苦しんでいた時にストーカー規制法があったらと、ご遺族や友人たちの無念や悲しみは癒えないだろうと思う。

 

著者の描写によってしか、詩織さんのことを知りえないが、詩織さんは、警察が味方になってくれなかった悪質で執拗なストーカー行為に立ち向かっていく勇敢さと冷静さを併せ持った自立した女性だったのだろうと思う。

 

詩織さん自身ばかりか家族にまで、あんなにひどいことをされて、明日のことを考えたら、恐怖でいっぱいだっただろうに、それでもストーカー行為の被害にあった事実を「遺言」として友人たちに残すことで、事件解決に導いた。そして、同じ様にストーカー行為に悩む人たちを救う、ストーカー規制法を成立させるきっかけともなった。

 

だけど、今はもういない詩織さんのことを本書を通じて想像してみるたびに、詩織さんを直接知らない私にも悲しみが襲ってくる。詩織さんがストーカー行為に苦しんでいる時に、何か別の方法で被害を食い止めることはできなかったのか、とか、あぁ、あの時あの男に出会っていなかったらきっと、とか考えてしまう。

 

いつどこでどんな人と出会うかなんて、誰にも分らないことだけれども、過去のあの時のほんの1秒の差で、詩織さんは私だったかもしれないし、これから先の未来に、詩織さんは私になりえるかもしれないのだ。

 

詩織さんが受けたような悪質で執拗なストーカー行為がわが身に降りかかったら、私はどのように対応すればよいかを詩織さんが教えてくれる。詩織さんは「遺言」とよんだけど、とにかく証拠を残すこと。そして、今はストーカー規制法があるから、警察が味方になってくれる。

 

ストーカーと戦うための方法は、詩織さんが被害にあっていた時よりも増えた。だけどこれらは詩織さんが命を懸けて遺してくれたものだと思うと、そして勇敢で冷静で自立した詩織さんのことを思うと、いっそう悲しさが込み上げてくる。

 

 

『燃える波』(村山由佳・中公文庫)を読んだ。

 

ライフスタイリストとして雑誌などでモデルや女優たちのスタイリングを手掛ける帆奈美は、ラジオ番組のパーソナリティとしても活動するなど時間に追われた多忙な日々を送っている。とある雑誌の表紙撮影の日程が1日前倒しになったことで、偶然再会した中学時代の同級生・澤田炯は、カメラマンとして女優の瑤子に気に入られ……。

 

表紙撮影で気に入られた澤田と帆奈美を伴って、瑤子はパリとロンドンで行われる、自身が日本語吹き替えを務めた映画のプレミア上映会へと赴く。パリとロンドンで、瑤子のキャリア最後となる写真集の撮影も行われることに。自身が最期まで看病したかつての恋人との思い出が詰まった街で、瑤子が美しく輝くよう、帆奈美も澤田も全力で瑤子に向き合う。

 

と、ここまでは、帆奈美の仕事での一面。独立したフリーのスタイリストとして、満足いく仕事をすること、なにより仕事仲間からの信頼を得ることを信条に、真面目一直線で仕事に邁進してきたからこそ、瑤子に気に入られ、パリとロンドンでの写真集撮影にも声がかかったのだろうと思うほど、仕事に関しては誠心誠意を第一とする帆奈美。

 

さて、こんなにしっかり自立した女性である帆奈美のプライベートはどうなんだろう、と気になるでしょ? どんなに素敵な恋人または夫がいるのかしら、って。それが、自身のくつろぎの空間であるはずの家庭が、ぎすぎすしていて気を遣ってばかりで言いたいこともはっきり言えないような、ちっともくつろげる家庭を築けてはいないのが、帆奈美の現状。

 

週刊誌の副編集長を務めている夫は、帆奈美の仕事に理解があるとは決して言えないし、夫も帆奈美も働いているにもかかわらず、家事はすべて帆奈美の担当。そのうえ、自分の決めたスケジュール通りに事が運ばないと、ねちねち難癖をつけて子どもじみた言い分で帆奈美の精神を削り取っていくようなモラハラ夫なのだ。

 

話し合いをして解決しようと試みるも、端から言葉が通じない相手と議論しようなんて気、起きるわけないから、帆奈美は、夫の機嫌がこれ以上悪くならないように、夫の子どもじみた言い分に言い返すこともできないで、いつも言いたいことをぐっと飲みこんで夫との生活に波風が立たないように細心の注意を払って暮らしている。

 

って、んもーっ!! 口だけ夫にイラッ!! だし、夫の前で従順な妻でいることに甘んじている帆奈美にもイラッ!! としてしまう。だから、瑤子が写真集の撮影で帆奈美にスタイリングされている時などに、澤田との恋愛をけしかけているのを読んで、瑤子さん、帆奈美のお尻をもっと叩いてー!! と大声で叫びだしたくなったくらいだ。

 

仕事は、もちろん仕事だから気を抜くことなんてできない現場だ。だけど、家庭は仕事の緊張感から解放されてくつろぐ場であってほしい。でも、帆奈美の場合はそうじゃない。仕事も家庭も気を張っていなければならない場なのだ。緊張を解く場がないのって苦しすぎる。いったいどこで、帆奈美は息を付けるというの?

 

と、まあ、こんな感じの帆奈美を見かねて、瑤子は澤田との恋愛をすすめてきたのだ。ちょっとは、息抜きしなさいよ、と。既婚者だって、婚外恋愛を楽しんだっていいでしょ? と。帆奈美の中でどこまが許せる範囲でどこからが許せない範囲なのか、澤田に惹かれつつも、婚外恋愛に関して、葛藤しながら自分なりの落としどころを探り当てる帆奈美。

 

海外での仕事から帰ってきたら、自宅で飼っている愛猫・おむすびの世話をしに通ってきた義妹と鉢合わせて、不在の間の夫の様子をあけすけな言葉で聞かされる……ってのがまた、帆奈美の精神を削り取っていく。帆奈美ー!! よくこんな無神経な一家と親戚づきあいしてきたね、その我慢強さに拍手!! だ。

 

モラハラ夫の裏切りと、それに伴う夫側の家族からの夫をかばう援護射撃をものともせず、突っぱねて跳ね返した帆奈美は、瑤子の影響を受けてたくましくなったのか、それとも澤田から優しく愛されることを知って強くなれたのか。自分の快不快を言葉にして伝えられるようになった帆奈美の成長した姿を見ることができて、安心した。やっと、くつろげる場を得ることができた帆奈美に、乾杯!! だ。

 

 

『聖なるズー』(濱野ちひろ・集英社文庫)を読んだ。

 

性的指向が動物の人、つまり動物とセックスする人を「ズー」という。生まれながらのズーを自認している人、ズーになることを選んだ人たちのコミュニティとして、「ゼータ」という団体がドイツにある。著者は、ドイツに滞在し、ゼータのメンバーを中心にインタビュー取材を重ね、人間にとってセックスとは何を意味するかを考え続ける。

 

日本でよく見かける風景として、愛犬に可愛らしい洋服を着せて散歩させていたり、「散歩」ではなく、愛犬を抱っこして歩いている人たちを思い浮かべると、可愛がることでこちらの愛情を一心に受け止める愛玩動物としての犬にも性欲があるという生物的な事実を忘れそうになる。

 

だけど、ゼータのメンバーやズーを自認する人たちはみな、「犬が誘ってくる」という。家族とともに一緒に暮らしている犬が、ズーである自分にだけ求愛行動をしてくることを、この行動はじゃれあいなどではなく求愛行動だと認識して、愛犬の「性的なケア」の一部としてそれに応えるズーの人たち。

 

ズーの人たちがパートナーとする動物は、犬または馬がほとんどで、男性がオスのパートナーを持つ場合は、ズー・ゲイ。女性がメスのパートナーを持つ場合は、ズー・レズビアン。異性のパートナーを持つ場合は、ズー・ヘテロ、オスやメスなど性別にかかわりなくパートナーを持つ場合は、ズー・バイセクシュアル、とよぶことを本書で初めて知った。

 

日本の家庭で飼われている愛犬や愛猫は、去勢されていることが多いこともあってか、日本において、愛犬や愛猫の「性的なケア」が話題に上ったことは今までにないのではないかと思う。本書は、今まで議論されることすらなかった、けれども生物が生きていくうえで切り離せない、セックスの問題について、著者の過去とも格闘しながら取り組んだ切り口鋭い本である。

 

そうだよな~、生きとし生けるもの、生きていれば性欲は無視できないよな~、と今まで考えたこともなかった動物の性欲について、本書を読み進めながら、私も考え続けた。愛玩動物として家庭で飼われている犬や猫にだって、そりゃ、性欲はあるだろうと思う。だって、生きているんだもの。

 

でも、家庭で飼われている=「愛玩動物」。つまり、可愛がられて一心に飼い主の愛情を受け止める存在の愛犬や愛猫に、性欲があることに、納得して頷く人は少ないのではないかと思う。可愛い「こども」のような存在の愛犬や愛猫が、「こども」が持つイメージとは正反対の性欲を主張していることがあるかもしれないことに思いをはせる飼い主はどれくらいいるだろうか。

 

しかも、愛犬や愛猫は言葉を発しないから、性欲があるということを言葉の代わりに行動で飼い主に伝えようと試みるも、飼い主の方が、その行動がじゃれ合いではなく、求愛行動であると認識できる人はどれくらいいるだろうか。そして、「性的なケア」を行う人は……。

 

日本では、いわゆる「ソドミー法」といわれる正しくないセックスを規制する法律がないことも、動物の性欲に関して、今まで話題に上らなかった一因なのかもしれないとも思う。

 

アニマルウェルフェアという概念が少しずつ浸透し始めてきた今こそ、愛玩動物の性欲について、考えてみるいい機会なのかもしれない。一緒に暮らしていくうえで行ういろいろなケアのひとつとして「性的なケア」をどのように位置づけるか、ズーではなくても、愛犬や愛猫の「性的なケア」を担っていいのか、議論が進むことを期待する。

 

本書で紹介されているが、精神科医の見解によると、ズーは、性的倒錯とのことのようだが、ズーの性的指向と、愛犬や愛猫の「性的なケア」は、別物として分けて考えていきたい。犬や猫といった、愛玩動物にも、生きとし生けるものとしての性欲があるという事実を知った今では、愛犬や愛猫への「性的なケア」をどのようにすべきか、ズーではなくても、飼い主となった場合に備えて、指針となる見解がほしいところだ。