生くあて
三年ぶり・・・コロナ規制が大幅に緩和された今年のGWは、季節外れの暑さも手伝って、多くのところで盛り上がりをみせたよう。ニュースが伝える各所の盛況ぶりは、コロナ禍について、悪い夢でも見ていたかのような錯覚を覚えるくらい。そして、新型コロナウイルスも、「危険性がもっとも低い」とされる五類に引き下げられた。ただ、引き続き、高齢者や基礎疾患のある人への配慮は必要だし、後遺症に苦しんでいる人も少なくないらしいから、まるっきり過去の禍として忘れていくわけにはいかないと思う。また、倒産・失業、そして病死、この禍によって、取り返しのつかない事態に陥った人も少なくない。社会経済や世の中が息を吹き返そうとしているところに水を差すようなことを言うのはナンセンスだとわかりつつも、諸手を挙げて喜ぶことはできない。この社会には、いまだ、多くの弱者がいることも忘れてはならない。物価も上がりっぱなし。一部では賃金が上がっているところもあるらしいが、実質賃金は低下の一途。選挙を意識して行われる“バラマキ”も、ほとんど焼け石に水。本音のところでは「その場しのぎ」のつもりなのかもしれないけど、その場さえしのげていない感が否めない。結局のところ、気前よく撒かれる金の原資は借金なわけで、そのツケは、我々の注意が他に逸れた頃合いを見計らって、増税や社会保障の圧縮といったかたちで回ってくる。「一億総中流」と言われていた時代は遠い過去のもの。このままだと、「一億総下流」といった事態にもなりかねない。ただ、いつの世にも富裕層はいる。その一部には、既得権益によって甘い汁を吸っている人もいるのだろうが、それを恨むのは筋違い。もともと、人間とは、そういう性質(欲)を持った生き物であり、この社会は、そういう生き物によって構成されているわけだから、この社会が“弱肉強食”になり、封建的になるのは当たり前のこと。搾取される側だから不満を覚えるわけで、多くの人間は、搾取する側になればそれを推すだろう。で、私は、搾取される側の人間だから、こういったネガティブな論調になっているわけだ。それはさておき、この先、この日本は、この世界は、どうなっていくのだろう。残念ながら、大半の庶民にとって、この社会は、生きにくくなっていく一方のような気がしてならない。とは言え、問題はあまりに大きすぎ、多すぎるため、選挙権を行使しても納税の義務を果たしても何も変えることはできない。講じることのできる具体策はなく、できることと言えば、ただただ、政治家や専門家の机上の空論でお茶を濁すことくらい。それで、事が解決するわけではないことを知りつつ、「なんとなかる」「なるようにしかならない」と都合の悪いことは深く考えないようにして放り投げるしかないのかもしれない。「今回は、孤独死とかではないんですけど・・・」付き合いのある不動産会社から、一本の電話が入った。「“夜逃げ”とでも言うんでしょうか、住んでいた人がいなくなりまして・・・」担当者は、自分が悪いわけでもないのに、やや言いにくそう。「一通り探してはみたんですけど・・・」まるで、誰かに言い訳をしているかのよう。「いなくなって数か月経ちますし、必要な手続きも終わったんで、そろそろ部屋を片付けようかと・・・」溜息混じりに、用件を伝えてきた。訪れた現場は、街中に建つアパート。築年は古く、かなりの年月が経過。それでも、日常のメンテナンスがキチンとされているのだろう、そこまでのボロさは感じさせず。部屋の鍵は、現地に設置されたキーボックス内。私は、不動産会社から知らされていた四桁の暗証番号にダイヤルを合わせた。「悪臭」というほどではなかったものの、カビ臭いようなホコリっぽいような独特の生活臭がプ~ン。間取りは1Kで、お世辞にも「きれい」とは言えず。台所をはじめ、風呂やトイレ等の水廻りは、ロクに掃除がされておらず。部屋の隅々もホコリまみれ。本人が暮らしていた当時からそうだったのか、後に立ち入った第三者がそうしたのか、雑多なモノが散らかり放題。「ゴミ部屋」という程ではなかったが、その予備軍のような状態だった。「“失踪”ということだけど、本当は亡くなったんじゃないの?」「あ、でも、俺にそんなウソつく理由ないな・・・」「そうすると、やっぱ、失踪か・・・」住人が亡くなっていようがいまいが、私には関係ないこと。ただ、部屋が生命力を失い、また あまりにもモノクロに荒廃しているものだから、“住人の死”という、職業病的な考えが頭を過った。とにもかくにも、余計な野次馬根性は仕事に無用。やるべきことは、不動産会社の指示に沿って、粛々とことを進めるのみ。「かかる費用は大家が負担する」とのこと。想定外の負担を強いられることになった大家を気の毒に思いながらも、苦労しながら生きていたことが如実に伺える部屋を前には、失踪した当人を責める気持ちにもなれなかった。残置された家財は少量ながらも、その中には色々なモノがあった。男性の氏名、生年月日など、個人情報が記された書類。消費者金融からの支払催促状や、不動産会社からの家賃滞納通知も。古い免許証や何枚かの写真もあり、本人の顔も伺い知れた。また、白い袋に入った何種類かの処方薬もあった。その部屋に暮らしていたのは八十代の男性。ここに入居したのは十数年前。賃貸借契約の保証は保証会社が担い、身元引受人もおらず。入居当時は仕事にも就いており、高額ではなかったが安定した収入があった。家賃は銀行口座からの自動引き落としで、これまで何度か残高不足による遅払いはあったものの、完全な滞納はなかったそう。ただ、近年は、仕事をしていたのかどうか不明。どれだけの年金を得ていたのかも不明ながら、家賃滞納の現実を鑑みると困窮していたのは明白。また、残された処方薬が示す通り、持病も抱えていたようだった。あってもおかしくない雰囲気ながら、生活保護を受けていたことを伺わせるような書類は見当たらず。「生活保護を申請すれば通っただろうに・・・」「年齢も年齢だし、持病があったなら尚更・・・」「それとも、頼れる身寄りがいたのかな・・・そんなわけないか・・・」頭の雑草地に、仕事に無用な野次馬が駆け回った。そもそも、生活保護を受けていれば、「家賃滞納」ということにはならなかったはずなので、貧乏しながらも何とか自力で生活してことが想像された。話が逸れるが・・・「生活保護」という制度は、多くの欠点をはらんでいる。多くは不正受給。そして、それを貪る貧困ビジネス。自治体の事情や地域の状況によるところが大きいのだろうから、一概に批判するのは軽率とわかりつつも・・・勤労者がボロアパートで窮々としているのに、受給者はきれいなマンションに暮らしている。勤労者が嗜好品を我慢しているのに、受給者は酒・タバコ・ギャンブルを楽しんでいる。勤労者が汗水流して働いているのに、受給者は健常に動く身体をブラブラと持て余している。仕事上、そういった現実を目の当たりにすることが少なくない私は、現行制度をどうしても斜めに見てしまうところがある。ただ、問題とされることには、その逆もある。それは、役所が何だかんだと難癖をつけて申請させないよう圧力?をかけたり、申請を受け付けないようにしたりすること。それで、本当に保護が必要な人が申請しにくい雰囲気や文化ができてしまうこと。実際、受給者が増えている実情の陰で、「人の世話になりたくない」「身内に知られたくない」「恥ずかしい」等と、申請を躊躇っている人が少なくないらしいのだ。本来は、そういう人達を救うための制度なのに、各所に見え隠れする矛盾を苦々しく思ったことがある人は、私だけではないのではないだろうか。不動産会社は、男性を探し出すことを諦めていた。仮に探し出せたところで、資力があるとは考えにくい。困窮していることに変わりはなく、裁判沙汰にしても差し押さえる資産もないはず。無駄な手間と費用をかけるだけ損。結局のところ、滞納家賃の回収はあきらめて、次の段階に進んだ方が得策と判断したよう。後々、始末する家財が問題の種にならないようにだけ留意した上で部屋を空にし、きれいにリフォーム・クリーニングを施し、新たな入居者を募集する算段をつけていた。不動産会社からの通知書を見ると、家賃の滞納額は三か月分、十数万円。過去にも支払いが遅れることはあったのかもしれないけど、それでも何とかやってきていたのだろう。しかし、ここにきて、いよいよ払えなくなってきた・・・もちろん、“袖”があれば“振る”つもりはあったはず・・・払えるだけの収入がないからそういうことになったのだろう。で、結局、何か月分滞納すれば追い出されるのかわからない中、「追い出される前に出て行こう」ということにしたのだろうか。しかし、持病のある高齢者。家賃が払えないほど困窮し、頼れる身寄りもない。そんな男性が、どこへ行くというのだろう、アパートを出て行ってしまえば、途端に、路頭に迷う。行くあてがあるとは容易には思えない。いくらかの金があれば、ホテルにでも入れるが、家賃が払えないくらいだから、仮にそれができたとしても長続きはしないだろう。また、金がなければ毎日の食事にも事欠く。ホームレスになっても生き延びることはできるのかもしれないけど、果たして、そこまで体力と気力を持ち続けることができるものかどうか・・・「もしかして、自分で寿命を決めて出て行ったのかな・・・」自然と、そんな考えが頭を過った。と同時に、恐ろしいほどの切なさと淋しさが悪寒となった背筋を走った。ただ、男性がどこでどうなっていようが私には関係ないこと。実際に手助けをするわけでなし、ただの野次馬根性、余計なお世話。一時的な感傷、ただの自己満足。もっと言うと、善人気分を味わいたいがための勝手な同情。事実、作業から数日・・・いや、一晩寝て翌日になれば、男性のことなんか忘れている。結局のところ他人事で、冷淡にやり過ごすだけのことだった。「人生100年時代」と言われるようになって久しいが、それが“吉報”ではなく“悲報”のように聞こえるのは私だけではないだろう。「長寿」、響きはいいけど、誰しも若いまま生きられるわけではない。頭も身体も衰える。動きたくても動けなくなり、働きたくても働けなくなり、大半の庶民は経済力も衰える。健康寿命は100年よりもっと短いわけで、「命が尽きる前に金が尽きる」とも言われている。「100才まで生きなきゃならないとしたら、お先真っ暗?」なんて、笑えるようで笑えない思いが湧いてくる。真面目に働いて、税金や社会保険料もキチンと納めて、それでも老後は年金だけで充分な暮らしができない人は多い。視聴者ウケするよう極端な事例を選んで取り上げているのかもしれないけど、TVで、少ない年金で壮絶な節約生活をする高齢者の暮らしぶりを伝えるドキュメントを何度か観たことがある。年金の大半が家賃で消える人、電気を契約せず懐中電灯生活をしている人、一日をおにぎり一個でしのいでいる人、老体に鞭打ってアルバイトをしている人等々・・・「生きているのが面倒くさい」と言っていた老人の疲れた言葉が、ドキッと胸に刺さり、そのまま、夏陽に逆らえないアイスクリームのように悲しく溶けていき、拭いたくても拭い切れないものとなってしまった。作業が終わると、部屋は空っぽになった。男性がそこで暮らしていた証・・・生きていた証は、部屋に残された汚れや傷みのみ。その様が、私の内に涌く妙な淋しさと切なさを煽ってきた。ただ、そんな私でも、「どこかで生きてくれてればいいな・・・」とまでは思わなかった。私には、男性に対して無責任に生きることを求めることが、薄情で軽はずみなことのように思え・・・男性に、更なる苦しみを強いることになるような気がしたからだった。よく 人は、命の大切さ、生きることの素晴らしさを訴える。当り前のように、それが健全な人間、健全な考えとされる。人に“死”を強いることが「悪」とされるのは決まりきった倫理価値であるが、はたして、人に“生”を強いることは「善」と言い切れるものだろうか・・・その中で、人の手によって“生”が粗末にされている現実も多い。心の中の殺人を含めれば、「日常的に起こっている」といっても過言ではないのではないか。そこには、「矛盾」の一言では片付けられない矛盾がある。その矛盾とともに、人類の歴史は、脈々と紡がれている。無力と諦めの中で、“時間”が、その悲しみと怒りを遠い過去へ洗い流し、忘れさせてくれるのを待ちながら。結局のところ、これからの時代、物事によっては、短絡的になった方が楽に生きられるのかもしれない・・・足元を見つめ直し、それを固めることに注力し、将来に“生くあて”を求めない方が軽やかに生きていけるのかもしれない・・・ネガティブに思われるこの思考も、意外に、見通せない未来に向かってポジティブな芽を出すのかもしれない・・・コロナ禍明けに沸く世間から取り残された人間が藁をも掴もうとするかのように、私は、そんな風に思うのである。