煙は境界で止まらない ― 住宅地における外部不経済の構造
■序章 観測へ向かった理由
本稿は、薪ストーブをめぐる個人的な対立を告発するためのものではありません。
私が直面した出来事を契機として、住環境における外部不経済という構造的問題を検討するための試みです。
私は神奈川県葉山町の住宅地において、薪ストーブの煙による影響を感じるようになりました。目や喉の刺激、室内へのにおいの侵入など、日常生活に具体的な変化が生じました。しかし、その訴えは行政府や発煙行為者から「感覚的な問題」と受け取られました。そして、数々の人格否定や罵倒暴言とともに「客観的な証拠を示せ」という趣旨の指摘を投げつけられました。
証拠を求める姿勢そのものは、社会において重要な態度です。主観的な印象だけで他者の行為を制限することはできません。私もその点には異論はありませんでした。
だからこそ、大気汚染観測を始めました。
空気質の測定、気象条件の記録、発生時刻の整理。客観的なデータを全自動で積み重ねました。その過程で明らかになったのは、これは単なる感情の衝突ではなく、空間を共有する社会における構造の問題であるということでした。
薪ストーブの利用は、使用者に快適性をもたらします。一方で、煙は敷地境界で止まるものではありません。このとき生じる影響は、経済学でいう「外部不経済」に該当し得ます。問題は個人の善悪ではなく、この構造が十分に議論されていない点にあります。
本稿では、怒りや対立の言葉ではなく、観測と社会行動の視点からこの問題を整理します。人格を断罪するためではなく、共有空間における汚染排出者の社会的責任のあり方を考えるために。
議論を感情の応酬から、可視化と構造の検討へと移すこと。それが、私が筆を執った理由です。
■第1章 外部不経済という構造
薪ストーブの利用は、個人の住宅内において一定の快適性や満足感をもたらします。再生可能エネルギーとしての側面(これはかなり限られた状況ですが)や、炎のある暮らしへの価値観も「周囲に継続的かつ長期間、悪影響を与えない範囲でのみ」という限定条件では尊重されるべきものです。まずその点は確認しておく必要があります。
一方で、燃焼に伴って発生する煙や微小粒子は、敷地境界で止まることはありません。空気は共有空間であり、気象条件によって広範囲に拡散します。このとき、利用者以外の住民がにおいや煙の影響を受ける可能性が必ず生じます。
経済学では、このように当事者以外に影響が及ぶ現象を「外部不経済」と呼びます。行為の利益と不利益が同じ主体に帰属しない構造です。これは特定の個人の道徳性を問う概念ではなく、社会に広く見られる一般的な構造です。かつては交通騒音や工場排出、受動喫煙なども同様の枠組みで議論されてきました。
重要なのは、外部不経済が発生しているか否かは、感情の強さによって決まるものではないという点です。観測可能な影響があるかどうか、そしてそれがどの程度であるかという、定量化された事実の積み重ねによって判断されるべきものです。
住宅地という空間は、完全な私的領域ではありません。隣接する住戸との距離が近い環境では、ある行為が周囲に及ぼす影響は相対的に大きくなります。その意味で、薪ストーブの問題は個人の趣味や嗜好の問題にとどまらず、空間共有のあり方や、使用者や設置業者の倫理観や社会性に関わるテーマであると言えます。
本章で確認したいのは、対立の中心にあるのは人格や感情ではなく、利益と不利益の帰属が強制的に分離するという構造であるという点です。この構造を可視化せずに議論を進めると、問題はしばしば個人間の軋轢へと矮小化されてしまいます。
したがって、まずは外部不経済という視座から現象を整理することが、冷静な議論の出発点になると考えます。
■第2章 なぜ外部コストは認識されにくいのか
外部不経済の構造が存在する場合であっても、それが直ちに社会問題として共有されるとは限りません。むしろ、影響が可視化されにくい場合には、長期間見過ごされることもあります。その事例として薪ストーブ煙害問題は良い教材になります。
その背景には、人間の認知特性が関係している可能性があります。人は、自らが直接得る利益を実感しやすい一方で、他者に分散して生じる不利益を具体的に想像することは容易ではありませんし倫理観のレベルによっては無視することもあるでしょう。自分の行為と他者の不快や健康影響との因果関係が明確でない場合、その結びつきは弱く認識されます。
また、影響が時間的・空間的に分散しているとき、責任の所在は曖昧になります。心理学では、このような状況で責任感が希薄化する傾向が指摘されています。多数の主体が関与する環境問題などでも、同様の現象が観察されています。
さらに、自らの生活様式や価値観に関わる行為については、それを肯定的に解釈しようとする認知的傾向も働きます。これは特定の個人に限らず、広く人間一般に見られる性質です。自分の選択を合理的で正当なものとして理解したいという心理は、誰にでも存在します。
このように考えると、外部コストの軽視あるいは無視は、必ずしも明確な悪意によってのみ生じるものではありません。むしろ、日常的な認知の仕組みの延長線上に位置づけられる可能性や、その行為者の生い立ちにより倫理的問題を引き起こすこともあります。
しかし、そのことは影響の存在を否定する理由にはなりません。認知の傾向があるからこそ、観測やデータの提示が重要になります。感覚の対立を超えて、事実の共有へ進むためです。
外部不経済の問題は、個人の内面を断罪することではなく、認知の限界を補う仕組みをいかに設計するかという課題でもあります。本稿では、この視点を踏まえたうえで、行動特性の理論との関係についても慎重に検討していきます。
■第3章 社会行動特性モデルとの照合可能性
前節で述べたように、外部不経済が軽視あるいは無視される背景には、人間一般に見られる認知傾向が関係している可能性があります。では、より具体的な行動特性の観点からは、どのように整理できるでしょうか。
心理学の領域では、自己中心性の強さ、共感性の低さ、目的達成のための戦略的合理化といった特性が研究されています。これらは連続的な個人差として扱われ、誰にでも程度の差は存在するとされています。
いわゆる「ダークトライアド」と呼ばれる特性モデルも、その一つです。これは、強い自己愛傾向、共感の乏しさ、手段を選ばない戦略性という三つの側面を理論的に整理した枠組みです。重要なのは、これは診断名ではなく、あくまで行動傾向を説明するための統計的モデルであるという点です。
外部不経済の構造において、仮に他者への影響を認識しながらもそれを軽視する行動が見られる場合、それはこれらの特性モデルと一定の整合性を持つ可能性があります。たとえば、自らの快適性を優先する強い自己中心性、影響を受ける他者への共感の低下、行為を正当化する論理の構築などは、理論上は対応関係を持ち得ます。
しかしながら、ここで留意すべき点があります。特定の業界や集団にこれらの特性が存在すると断定することは、学術的にも社会的にも現段階では多分適切ではありません。本稿で検討しているのは、「示唆される」という、あくまで行動様式と既存理論との照合可能性です。
この視点の意義は、人格を批判することではなく、行動の理解を深めることにあります。もし外部不経済が持続的に発生しているのであれば、その背景にある心理的・社会的メカニズムを検討することは、制度設計を考えるうえで有用です。
すなわち、問題の核心は「誰が悪いか」ではなく、「どのような条件のもとでその行動が生じやすいのか」という問いにあります。この問いを共有することが、対立の固定化を避け、より建設的な議論へ進むための基盤になると考えます。
■第4章 人格の問題よりも、制度設計の課題
前章までに検討してきたように、外部不経済は構造の問題であり、その背景には人間一般に見られる認知傾向や行動特性が関係している可能性があります。しかし、それは個々人の内面を裁くための議論ではありません。
仮に、ある行動が他者に悪影響を及ぼしているとしても、その是正を個人の善意や自制心のみに委ねることは、現実的とは言えません。人間は状況に影響される存在であり、制度や環境によって行動が形づくられる側面を持っています。
したがって、焦点は人格評価ではなく、制度・調整の仕組みに置かれるべきです。
具体的には、影響の可視化、測定手法の共有、基準の明確化、紛争解決の手続き整備などが考えられます。観測可能なデータが蓄積されれば、議論は感覚の応酬から事実の検討へ移行します。基準が明確であれば、対立は恣意的な判断ではなく、合意された枠組みの中で整理されます。
外部不経済の問題は、歴史的に見ても、制度の進化とともに調整されてきました。騒音や排煙、受動喫煙などの課題も、長い議論を経て基準やルールが整備されてきました。同様に、住宅地における薪ストーブの利用についても、科学的知見と社会的合意に基づく枠組みを検討する段階にあると言えます。この点では西欧諸国に知見を求める必要も出てきます。
重要なのは、対立を固定化させないことです。人格への帰属は議論を硬直させますが、構造への着目は議論を前進させます。制度設計とは、人間の限界を前提に、衝突を最小化するための知恵の積み重ねです。
本稿が目指しているのは、誰かを断罪することではありません。共有空間における責任の分配を、より透明で持続可能な形にするための視座を提示することです。そのために、観測と理論を手がかりとして問題を整理してきました。
感情の強さは、問題の存在を示す重要なサインです。しかし、解決を導くのは構造の理解と制度の工夫です。外部不経済をめぐる議論もまた、その方向へ進む必要があります。
■結章 可視化から共有へ
本稿では、薪ストーブをめぐる問題を、個人間の対立としてではなく、外部不経済という構造の視点から整理してきました。観測を出発点とし、認知特性や行動理論との照合可能性を検討し、最終的には制度設計の課題として位置づけました。
重要なのは、誰かの人格を断定することではありません。共有空間において生じる影響を、どのように可視化し、どのように調整するかという問いです。
私が発煙行為者から数々の暴言とともに投げつけられた「客観的証拠を示せ」という言葉から始まった連続自動定点観測は、感覚の応酬を越えて、現在進行形で事実の蓄積へと向かっています。
事実が共有されれば、議論は感情の強度ではなく、データの解釈へと移ります。そこでは、賛否の立場を超えて、共通の基盤が生まれるはずです。
住宅地は、完全な私的空間でも、完全な公共空間でもありません。その中間にあるからこそ、相互の配慮と明確な枠組みが求められます。外部不経済の問題は、私たちがどのような共同体を選び取るのかという問いでもあります。
観測は対立を深めるためではなく、対話を可能にし、社会的合意や基準を設けるためにあります。可視化は責任追及の道具ではなく、「ここでは、こうなっている」という冷酷な事実を共有理解するための出発点です。
本稿が、そのための一助となることを願います。
