煙は境界で止まらない ― 住宅地における外部不経済の構造


■序章 観測へ向かった理由

本稿は、薪ストーブをめぐる個人的な対立を告発するためのものではありません。
私が直面した出来事を契機として、住環境における外部不経済という構造的問題を検討するための試みです。

私は神奈川県葉山町の住宅地において、薪ストーブの煙による影響を感じるようになりました。目や喉の刺激、室内へのにおいの侵入など、日常生活に具体的な変化が生じました。しかし、その訴えは行政府や発煙行為者から「感覚的な問題」と受け取られました。そして、数々の人格否定や罵倒暴言とともに「客観的な証拠を示せ」という趣旨の指摘を投げつけられました。

証拠を求める姿勢そのものは、社会において重要な態度です。主観的な印象だけで他者の行為を制限することはできません。私もその点には異論はありませんでした。

だからこそ、大気汚染観測を始めました。

空気質の測定、気象条件の記録、発生時刻の整理。客観的なデータを全自動で積み重ねました。その過程で明らかになったのは、これは単なる感情の衝突ではなく、空間を共有する社会における構造の問題であるということでした。

薪ストーブの利用は、使用者に快適性をもたらします。一方で、煙は敷地境界で止まるものではありません。このとき生じる影響は、経済学でいう「外部不経済」に該当し得ます。問題は個人の善悪ではなく、この構造が十分に議論されていない点にあります。

本稿では、怒りや対立の言葉ではなく、観測と社会行動の視点からこの問題を整理します。人格を断罪するためではなく、共有空間における汚染排出者の社会的責任のあり方を考えるために。

議論を感情の応酬から、可視化と構造の検討へと移すこと。それが、私が筆を執った理由です。


■第1章 外部不経済という構造

薪ストーブの利用は、個人の住宅内において一定の快適性や満足感をもたらします。再生可能エネルギーとしての側面(これはかなり限られた状況ですが)や、炎のある暮らしへの価値観も「周囲に継続的かつ長期間、悪影響を与えない範囲でのみ」という限定条件では尊重されるべきものです。まずその点は確認しておく必要があります。

一方で、燃焼に伴って発生する煙や微小粒子は、敷地境界で止まることはありません。空気は共有空間であり、気象条件によって広範囲に拡散します。このとき、利用者以外の住民がにおいや煙の影響を受ける可能性が必ず生じます。

経済学では、このように当事者以外に影響が及ぶ現象を「外部不経済」と呼びます。行為の利益と不利益が同じ主体に帰属しない構造です。これは特定の個人の道徳性を問う概念ではなく、社会に広く見られる一般的な構造です。かつては交通騒音や工場排出、受動喫煙なども同様の枠組みで議論されてきました。

重要なのは、外部不経済が発生しているか否かは、感情の強さによって決まるものではないという点です。観測可能な影響があるかどうか、そしてそれがどの程度であるかという、定量化された事実の積み重ねによって判断されるべきものです。

住宅地という空間は、完全な私的領域ではありません。隣接する住戸との距離が近い環境では、ある行為が周囲に及ぼす影響は相対的に大きくなります。その意味で、薪ストーブの問題は個人の趣味や嗜好の問題にとどまらず、空間共有のあり方や、使用者や設置業者の倫理観や社会性に関わるテーマであると言えます。

本章で確認したいのは、対立の中心にあるのは人格や感情ではなく、利益と不利益の帰属が強制的に分離するという構造であるという点です。この構造を可視化せずに議論を進めると、問題はしばしば個人間の軋轢へと矮小化されてしまいます。

したがって、まずは外部不経済という視座から現象を整理することが、冷静な議論の出発点になると考えます。


■第2章 なぜ外部コストは認識されにくいのか

外部不経済の構造が存在する場合であっても、それが直ちに社会問題として共有されるとは限りません。むしろ、影響が可視化されにくい場合には、長期間見過ごされることもあります。その事例として薪ストーブ煙害問題は良い教材になります。

その背景には、人間の認知特性が関係している可能性があります。人は、自らが直接得る利益を実感しやすい一方で、他者に分散して生じる不利益を具体的に想像することは容易ではありませんし倫理観のレベルによっては無視することもあるでしょう。自分の行為と他者の不快や健康影響との因果関係が明確でない場合、その結びつきは弱く認識されます。

また、影響が時間的・空間的に分散しているとき、責任の所在は曖昧になります。心理学では、このような状況で責任感が希薄化する傾向が指摘されています。多数の主体が関与する環境問題などでも、同様の現象が観察されています。

さらに、自らの生活様式や価値観に関わる行為については、それを肯定的に解釈しようとする認知的傾向も働きます。これは特定の個人に限らず、広く人間一般に見られる性質です。自分の選択を合理的で正当なものとして理解したいという心理は、誰にでも存在します。

このように考えると、外部コストの軽視あるいは無視は、必ずしも明確な悪意によってのみ生じるものではありません。むしろ、日常的な認知の仕組みの延長線上に位置づけられる可能性や、その行為者の生い立ちにより倫理的問題を引き起こすこともあります。

しかし、そのことは影響の存在を否定する理由にはなりません。認知の傾向があるからこそ、観測やデータの提示が重要になります。感覚の対立を超えて、事実の共有へ進むためです。

外部不経済の問題は、個人の内面を断罪することではなく、認知の限界を補う仕組みをいかに設計するかという課題でもあります。本稿では、この視点を踏まえたうえで、行動特性の理論との関係についても慎重に検討していきます。


■第3章 社会行動特性モデルとの照合可能性

前節で述べたように、外部不経済が軽視あるいは無視される背景には、人間一般に見られる認知傾向が関係している可能性があります。では、より具体的な行動特性の観点からは、どのように整理できるでしょうか。

心理学の領域では、自己中心性の強さ、共感性の低さ、目的達成のための戦略的合理化といった特性が研究されています。これらは連続的な個人差として扱われ、誰にでも程度の差は存在するとされています。

いわゆる「ダークトライアド」と呼ばれる特性モデルも、その一つです。これは、強い自己愛傾向、共感の乏しさ、手段を選ばない戦略性という三つの側面を理論的に整理した枠組みです。重要なのは、これは診断名ではなく、あくまで行動傾向を説明するための統計的モデルであるという点です。

外部不経済の構造において、仮に他者への影響を認識しながらもそれを軽視する行動が見られる場合、それはこれらの特性モデルと一定の整合性を持つ可能性があります。たとえば、自らの快適性を優先する強い自己中心性、影響を受ける他者への共感の低下、行為を正当化する論理の構築などは、理論上は対応関係を持ち得ます。

しかしながら、ここで留意すべき点があります。特定の業界や集団にこれらの特性が存在すると断定することは、学術的にも社会的にも現段階では多分適切ではありません。本稿で検討しているのは、「示唆される」という、あくまで行動様式と既存理論との照合可能性です。

この視点の意義は、人格を批判することではなく、行動の理解を深めることにあります。もし外部不経済が持続的に発生しているのであれば、その背景にある心理的・社会的メカニズムを検討することは、制度設計を考えるうえで有用です。

すなわち、問題の核心は「誰が悪いか」ではなく、「どのような条件のもとでその行動が生じやすいのか」という問いにあります。この問いを共有することが、対立の固定化を避け、より建設的な議論へ進むための基盤になると考えます。


■第4章 人格の問題よりも、制度設計の課題

前章までに検討してきたように、外部不経済は構造の問題であり、その背景には人間一般に見られる認知傾向や行動特性が関係している可能性があります。しかし、それは個々人の内面を裁くための議論ではありません。

仮に、ある行動が他者に悪影響を及ぼしているとしても、その是正を個人の善意や自制心のみに委ねることは、現実的とは言えません。人間は状況に影響される存在であり、制度や環境によって行動が形づくられる側面を持っています。

したがって、焦点は人格評価ではなく、制度・調整の仕組みに置かれるべきです。

具体的には、影響の可視化、測定手法の共有、基準の明確化、紛争解決の手続き整備などが考えられます。観測可能なデータが蓄積されれば、議論は感覚の応酬から事実の検討へ移行します。基準が明確であれば、対立は恣意的な判断ではなく、合意された枠組みの中で整理されます。

外部不経済の問題は、歴史的に見ても、制度の進化とともに調整されてきました。騒音や排煙、受動喫煙などの課題も、長い議論を経て基準やルールが整備されてきました。同様に、住宅地における薪ストーブの利用についても、科学的知見と社会的合意に基づく枠組みを検討する段階にあると言えます。この点では西欧諸国に知見を求める必要も出てきます。

重要なのは、対立を固定化させないことです。人格への帰属は議論を硬直させますが、構造への着目は議論を前進させます。制度設計とは、人間の限界を前提に、衝突を最小化するための知恵の積み重ねです。

本稿が目指しているのは、誰かを断罪することではありません。共有空間における責任の分配を、より透明で持続可能な形にするための視座を提示することです。そのために、観測と理論を手がかりとして問題を整理してきました。

感情の強さは、問題の存在を示す重要なサインです。しかし、解決を導くのは構造の理解と制度の工夫です。外部不経済をめぐる議論もまた、その方向へ進む必要があります。


■結章 可視化から共有へ

本稿では、薪ストーブをめぐる問題を、個人間の対立としてではなく、外部不経済という構造の視点から整理してきました。観測を出発点とし、認知特性や行動理論との照合可能性を検討し、最終的には制度設計の課題として位置づけました。

重要なのは、誰かの人格を断定することではありません。共有空間において生じる影響を、どのように可視化し、どのように調整するかという問いです。

私が発煙行為者から数々の暴言とともに投げつけられた「客観的証拠を示せ」という言葉から始まった連続自動定点観測は、感覚の応酬を越えて、現在進行形で事実の蓄積へと向かっています。

事実が共有されれば、議論は感情の強度ではなく、データの解釈へと移ります。そこでは、賛否の立場を超えて、共通の基盤が生まれるはずです。

住宅地は、完全な私的空間でも、完全な公共空間でもありません。その中間にあるからこそ、相互の配慮と明確な枠組みが求められます。外部不経済の問題は、私たちがどのような共同体を選び取るのかという問いでもあります。

観測は対立を深めるためではなく、対話を可能にし、社会的合意や基準を設けるためにあります。可視化は責任追及の道具ではなく、「ここでは、こうなっている」という冷酷な事実を共有理解するための出発点です。

本稿が、そのための一助となることを願います。

 

測ってみることへの、小さな一歩

近年、薪ストーブや野焼きによる煙の影響について、さまざまな声が聞こえてきます。  
「煙が辛い」「健康に影響が出ている」と感じている方のお気持ちは、本当に大切なものです。  
そんな中で、改めて「実際に測定してみたらどうでしょうか」という提案をしたいと思います。  
最近は数万円程度のエアモニターで、PM2.5やVOCの値をリアルタイムに確認できるようになりました。  
タイやベトナム、アジアの途上国では、市民の方がこうした機器を使って汚染を可視化し、行政に具体的な対策を求め規制につなげている例もどんどん増えています。

でも、正直に言うと、「測定の機械は難しそう」「体感で十分にわかるからいいんじゃないか」と思う方もいらっしゃると思います。  
それはとても自然な気持ちです。  
新しい機器に慣れるのは最初は不安ですし、  
「今感じている苦しみを数字にしたら、予想よりも低値で軽く見られてしまうのでは」と心配になるのも無理はありません。

実は私自身、以前、同じように煙の被害を感じている方に、観測機材をお試しで貸したことがあります。  
貸与期間が終わったとき、その方は少し照れくさそうに、でも本当に嬉しそうにこうおっしゃいました。  

「本当に汚染が測れるんですね……すごい、こんなことできるんですね。」  

その一言を聞いたとき、胸が熱くなりました。  
今まで「煙が辛い」としか伝えられなかった苦しみが、  
初めて「数字」という形になって、自分の目でリアルタイムで見えるようになった瞬間だったのです。  
その方がその後、自分で機器を購入されたかどうかはわかりません。  
でも、あのとき「一つの方法論を知ってくれた」という事実が、私にはとても大きな意味を持っていました。  
弱い立場にある方が、少しでも自分の状況を客観的に見つめられるきっかけになれたなら、  
それだけで、私のこれまでの努力が報われたように感じたのです。

測定を行うと、  
「自分の感じている苦しみや怒りは、実は数値化して可視化できる」ということが必ずわかってきます。  
それは決して「感情を小さくする」ものではなく、  
むしろ「感じていることを、誰にでも伝わりやすい形にできる」手助けになる可能性があります。  
そうした数値があれば、近所の方とのお話し合いも、自治体へのお願いも、  
もっと具体的に、相手の心に届きやすくなるかもしれません。

もちろん、測定を避けたい・したくないというお気持ちも、決して無理のないことです。  
もしかすると、測ってみた結果が自分の想像と違っていたら、  
今まで抱えていた思いが揺らいでしまうのではないか、という不安があるのかもしれません。  
それもまた、とても人間らしい感情だと思います。

もし、少しだけ気が向いたら、測定をしてみませんか。  
あなたの苦しみを、数字という形でより強く広く伝えられる日が来るかもしれません。  
煙の影響に悩む方が、少しでも安心して暮らせる日が来ることを、心から願っています。

もしきちんと測ってみたいという気持ちが起きたら、  
アゴラ編集部様宛、青山翠までご連絡をください。

怒るのに疲れた人、その怒りを自動的に数値に置き換える方法がここにあります。

 

次世代の呼吸のために──「客観的証拠を出せ」という言葉

 

 

■序章 まだ灯りのない場所で

それは、対話のつもりでした。
私はただ、生活の中で感じた違和感を伝えようとしただけでした。

しかし返ってきたのは、「客観的証拠を出せ」という、極めてきつい言葉でした。

その言葉は、一見、正しさの衣をまとっていました。証拠は必要です。科学は検証を重んじます。その原則に異論はありません。けれど、その場に観測の仕組みはなく、測定の基盤もありませんでした。

測られていないものは、存在しないものとして扱われる。
その構図の前で、私は唖然として立ち尽くしました。

理不尽だと感じました。

弱い者いじめをする大人がいるんだ・・・
同時に、別の思いも芽生えました。

もし証拠が必要だというのなら、観測すればよいのではないか。

ありのままを定量化して提示すればいいのだ、煤煙は測れるものだから、と。
測られていないことが沈黙の理由にされるのなら、測るという行為そのものに意味があると。

こうして私は紆余曲折の後、ようやく市民科学という営みに出会いました。専門家や行政府に委ねるのではなく、市民が自ら観測を実行し、記録し、共有し、議論の土台を育てていくという考え方です。

観測はたぶん反撃ではありません。
それは、暗闇に自ら灯りを置く行為に似ています。

暗闇の中では、声の大きさが力になります。
しかし灯りがともれば、形が見えます。形が見えれば、対話の座標が生まれます。

この論考は、怒りの記録ではありません。
私が観測という行動へと向かった過程の記録です。

私的な体験として消えていくはずだった出来事を、社会の構造の中に位置づけたい。そのために、言葉を選び、概念を整理し、問いを重ねました。

まだその灯りは小さく、その数も少ないです。
それでも、小さな観測の積み重ねが、やがて共有の基準へとつながることを信じています。

煙は揺れます。
しかし、記録は残ります。

その記録のために、私は書いています。

これは、神奈川県葉山町で実際に起きていることです。

 

 

■第1章 ある対話の不成立

私は、長年の煙害に対し、思い余って苦情を伝えました。
地域に存在する薪ストーブ設置家屋からの煙が生活空間に入り込み、体調や日常生活に大きな悪影響を感じていたからです。対立を望んだわけではありません。調整の可能性を探りたかったのです。

しかし返ってきたのは、対立の姿勢や怒りとともに「客観的証拠を出せ」という言葉でした。

その場では他にも多くの激しい言葉、私や家族の人格を損ねるような凄惨な表現も投げつけられました。今まで受けたことのない、具体的にここに列記できないような醜悪極まる酷い言葉を躊躇なく投げつけてくる恐ろしい薪ストーブ使用者、温厚イメージとは正反対・・・けれど、後から振り返ってみると、最も強く残ったのはこの一言です。

「客観的証拠を出せ。」

それは一見、理性的で正当な要求のように聞こえます。科学は証拠を重んじます。証明のない主張は慎重に扱われるべきです。その原則自体を否定するつもりはありません。

しかし、その言葉が個人に向けられたとき、そこにはある種の非対称性が生じます。

空気中の汚染物質を測定するには相応の機器が必要です。継続的な観測には時間が必要です。因果関係を示すには統計的な手続きが必要です。これらは本来、公共的な観測体制や研究機関が担うべき領域です。

それにもかかわらず、観測の基盤が整っていない状況で、個人に対して高度な科学的証明を求めることは、実質的に対話を閉じる効果を持ちます。

証明の不在は、影響の不在と同義ではありません。

そのやり取りの中で、私は大きな違和感を抱きました。問題の有無を判断するための共通の基準が存在しないまま、高度な証明だけが理不尽な形で一方的に要求されているという構図です。まさに、弱いものいじめです。

煙は敷地の境界で止まりません。物理的には拡散し、風に乗り、沈降し、周囲の公共空間や地域の家屋の私有地へと広がります。しかし議論は、個人と個人の対立へと縮小されます。

この出来事は単なる感情的衝突なのでしょうか。それとも、見えない影響をめぐる社会の扱い方を映す一断面なのでしょうか。

私は後者ではないかと考えています。

 

 

■第2章 証明責任の非対称性

「客観的証拠を出せ」という要求は、科学的態度のように響きます。主張には根拠が必要であり、検証可能性が重視されるという原則は、近代社会の重要な基盤です。

しかし、その原則がどのような条件のもとで機能するのかを考える必要があります。

空気中の汚染物質を測定するには、測定機器が必要です。さらに気象条件、地形、燃焼状態など、多数の変数が影響します。康影響との因果関係を示すには、統計的検討と時間の蓄積が求められます。

これらは本来、公共的な観測体制や研究機関が担う領域です。個人が自力で完結できるものではありません。

ところが、観測基盤が整備されていない状況で、個人に高度な立証を求めるとき、議論は完全な非対称になります。

一方は「測定されていない」という事実を根拠に問題の不存在を主張できます。
他方は、測定手段を持たないまま、影響の存在を実感として訴えるしかありません。

ここで重要なのは、測定されていないことと、存在しないことは同義ではないという点です。

科学は「まだ分からない」という状態を認める営みでもあります。しかし日常の対話においては、「証明されていない」が「否定された」「問題は存在しない」と同じ意味で扱われることがあります。

その瞬間、証拠という言葉は、探究のための道具から、相手を沈黙させる装置へと変わります。

さらに、証明責任の所在も曖昧になります。外部へ影響が及ぶ可能性がある行為において、本来問われるべきなのは、「影響がないことの説明」なのか、それとも「影響があることの証明」なのか。ここには哲学的にも法制度的にも議論の余地があります。

問題は、こうした整理がなされないまま、個人間のやり取りに委ねられていることです。結果として、構造的な検証の不足が、感情的対立へと変換されます。

証拠を求めること自体が誤りなのではありません。
しかし、観測の基盤が存在しない状況で、個人に立証を求める構図には、明らかな力の偏りがあります。

この偏りを放置したままでは、対話は成立しません。
そして対話が成立しなければ、調整も起こりません。

 

 

■第3章 炭素中立という言葉の影

薪ストーブ煙害をめぐる議論では、「気候変動対策・炭素中立」という言葉が言い訳として必ず持ち出されます。植物は成長過程で二酸化炭素を吸収し、それを燃焼によって大気中に戻すにすぎない。したがって、大気中の総量は増えないという考え方です。この屁理屈自体は20年ほど昔に流行した気候科学に基づく概念ですが、現在においては否定の研究がいくつも出ています。

しかし、この言葉が議論の中でどのように用いられているかは、改めて検討する必要があります。

炭素中立という概念は、地球規模の温室効果ガス収支に関するものです。対象は大気全体であり、時間軸も数十年から百年単位に及びます。

一方で、近隣に拡散する煙の問題は、局所的な空間と短期的な影響の問題です。粒子状物質や揮発性有機化合物は、吸入された瞬間から人体に作用します。ここで問われているのは、地球全体の炭素循環ではなく、生活空間の空気質です。

この二つは、スケールも対象も異なります。

ところが、炭素中立という大きな理念が前面に出ると、局所的影響の議論が無視されることが起きています。

あたかも、地球規模で正当化された行為であれば、局所的な不都合も自動的に無効になるかのような印象操作が行われているのです。

ここには、議論のスケールの混同があります。

大きな善と、小さな影響は、同じ座標軸には乗りません。
地球規模の収支が均衡していることと、地域コミュニティの空気が快適であることは、全く別の問いです。

炭素中立という言葉が問題なのではありません。問題は、その概念が適用される範囲を越えて用いられるときに生じます。

さらに言えば、炭素中立であるかどうかも、実際には燃料調達、乾燥状態、輸送過程など、複数の前提条件に依存します。単純な標語ではありません、多くの場合はニュートラルにはなりません。さらに工務店や造園業者から発生した産業廃棄物であるものを宅内で燃やすという脱法行為の問題も内包しています。

にもかかわらず、標語として機能するとき、その言葉は議論を閉じ、相手を押し潰す力を持ちます。

「環境に良い」という自己像は、強い道徳的安心を与えます。
その安心が、他者への悪影響に目を向ける契機を弱める可能性があります。

ここで問われるのは、善意の有無ではありません。
概念の射程をどこまで自覚しているかという問題です。

地球規模の理念を語るときほど、足元の空気を測る視線が必要です。
スケールを混同しないこと。
それが議論の出発点になります。

 

なお、煤煙を撒き散らし他人を一方的に苦しめ、隣人を救えないような人や業界が地球を救えると主張することは、かなりの滑稽な物言いではないでしょうか。

これもスケールの使い方を誤っていることを端的に示す例と言えましょう。

 

 

■第4章 問題の個人化と矮小化

煙は物理現象です。
風向きに従い、拡散し、沈降し、空間を共有する人々に悪影響を与えます。これは感情の問題ではありません。

しかし、その影響が言葉にされた瞬間、議論はしばしば個人間の摩擦へと縮小されます。

「気にしすぎではないか」

「昔からあっただろう」

「自然のものだから無害なはずだ」
「敏感すぎるのではないか」
「体調の問題は別の原因ではないか」

「三年乾燥させた薪と二次燃焼で煤煙悪臭は出してない」


このような非科学的な言葉が向けられるとき、現象の検討は後景に退き、訴えた側の性格や感受性が前景に出ます。問題は物理的な空気質から、個人の気質へと移動します。

ここで起きているのは、問題の個人化です。

本来は空間を共有する複数人の環境問題であるにもかかわらず、「あなたと私の相性の問題」へと変換されます。その結果、構造的な検証や制度的な議論は始まりません。

さらに、問題は被害者への罵倒と共に矮小化・他責化されます。

「一時的なことだ」

「窓閉めれば入らないだろ」
「量はわずかだ」

「そういうことを言うのはアンタだけだ」

「良いにおいだ、という人もいる」
「どこにでもあることだ」

「薪ストーブが使えずに寒くて具合が悪くなったら責任取れ」

しかし、量がわずかであることと、影響がゼロであることは同義ではありません。公害の歴史を振り返れば、初期段階ではしばしば「些細な問題」として扱われてきました。

ここで用いられる暗黙の前提は、「重大な証明がない限り、問題は存在しない」という考え方です。しかしこれは、観測と検証の仕組みが整っている場合にのみ妥当します。

観測が制度化されていない状況では、問題は個人の感覚としてしか現れません。そして個人の感覚は、容易に相対化されます。

この構図は、経済学でいう外部不経済という性質を持ちます。ある行為のコストやデメリットのみが、行為者以外の人に否応なしに転嫁される状態です。しかしそれが制度的に認識されなければ、単なる「近隣トラブル」として処理されます。

こうして、共有空間の問題は、個人の対立へと還元されます。

問題のスケールは縮小され、責任の所在は曖昧になります。結果として、調整の仕組みは立ち上がりません。

煙は拡散しているのに、議論は閉じていく。
この逆転現象こそが、停滞の一因ではないでしょうか。

 

 

■第5章 社会性とは何か

ある行為が合法であることと、それが社会的に調整可能であることは、必ずしも同じではありません。

法律は最低限の枠組みを示します。しかし社会は、法律だけで成り立っているわけではありません。日々の生活は、倫理観のもとに互いのフィードバックを受け取り、微調整を重ねることで保たれています。

社会性とは、その調整の回路を開いておく能力ではないでしょうか。

自らの行為が他者に影響を与える可能性が示されたとき、「本当にそうだろうか」と立ち止まり、必要であれば修正を検討する姿勢。それは責めを認めることとは異なります。むしろ、共同空間を共有する前提に立つ態度です。

ここで再び、「客観的証拠を出せ」という言葉を考えます。

証拠を求めること自体は合理的です。しかし、それが威圧や人格攻撃と結びつくとき、対話の回路は閉じます。回路が閉じれば、情報は循環しません。循環しなければ、調整も起こりません。そして戦いが始まってしまうのです。

しかし社会性とは、勝つことではなく、循環を維持することです。

もし苦情が直ちに敵意として受け取られるなら、そこではフィードバックの機能が失われています。合法性が自己正当化という無敵の盾となり、対話は不要とされます。しかし合法であることは、影響がゼロであることを意味しません。

社会の成熟度は、強い側がどれだけ譲歩できるかによって測られます。

力を持つ側が一歩引く余裕を持つとき、空間は安定します。

一方で、対話が力で終わらされるとき、その場では静まっても、問題は残ります。沈黙は解決ではありません。

煙は目に見えることもありますが、見えないときもあります。同様に、影響もまた、可視化されない限り軽視されやすい。だからこそ、社会性とは、見えないものに対しても耳を澄ませる態度を含むのではないでしょうか。

合法か否かという二分法だけでは測れない領域があります。
その領域をどう扱うかが、共同体の質を決めます。

 

 

■終章 観測という灯り

ここまで述べてきた問題は、誰か一人の善悪に還元できるものではありません。対話の不成立、証明責任の非対称、概念のスケールの混同、問題の矮小化や個人問題化。これらは、個々人の性格というよりも、観測の基盤が不十分な社会構造の中で生じやすい現象です。

「客観的証拠を出せ」という言葉が強い力を持つのは、私たちが客観性を重んじる社会に生きているからです。しかし本来、客観性は個人に背負わせるものではなく、公共的に整備されるべき条件です。

 

「客観的証拠を出せ」と私に叩きつけた人は、私を明らかに見下していました。どうせそんなことはお前には到底できないだろうと、たかをくくっていたのでしょう。

ところが、現代では個人でも大気汚染を連続自動定点観測公開が可能なのです。


さて、観測とは、誰かを断罪するための装置ではありません。
それは、共通の座標を持つための仕組みです。

空気は共有されています。
共有されているものは、本来、共有された方法で測られ常に公開される必要があります。

観測が制度として存在すれば、議論は個人の感受性から切り離されます。「気のせいかどうか」という応酬ではなく、測定値と条件に基づく検討へと移行できます。そこでは、過度な断定も、過度な否定も、いずれも修正されていきます。

観測は、対立の火に油を注ぐものではなく、灯りを置く行為です。

暗闇の中では、声の大きさが力になります。
しかし灯りがともれば、形が見えます。形が見えれば、調整が可能になります。

問題は、煙があるかないかという単純な問いではありません。
影響をどう測り、どう共有し、どう調整するかという社会の設計の問題です。

観測なき状態で証明を求める社会と、観測を整えたうえで議論する社会。どちらが持続的であるかは、明らかです。

私たちは、対立の勝者を必要としているのではありません。
必要なのは、共通の基準です。

煙は風に揺れます。
しかし灯りは、揺れながらも位置を示します。

観測とは、その灯りのことです。

 

そして、「客観的証拠を出せ」という言葉は、双方の立場にとって大変重たく逃れ難いものであることを、その言葉を発した人は再確認する必要があると言えましょう。

 

「客観的証拠を出せ」という言葉は、叩きつけた相手を一時的には沈黙させるでしょう。

しかし、時間差をもって、

「客観的証拠を出せ」という言葉の刃は、その言葉を発した人に戻ってゆくのです。

 

 

■付章 冬の朝に思うこと

冬の朝、窓の外が白く霞んでいることがあります。霧ではありません。空気は静まり、煙が低く滞留しています。

通学の時間になると、子どもたちが家を出ていきます。小さな背中にランドセルを背負い、マスクをつけ、それでも咳き込みながら歩いていきます。その姿を見るたびに、私は言葉を失います。かわいそうに・・・

この空気は、誰のものなのでしょうか。

子どもたちは選べません。
暖房の方式も、燃焼の条件も、地域の慣習も。
ただ、その空間を吸い込みながら生きています。

私は正直に言えば、怒りを覚えます、ほんの一部の大人の身勝手に。
大人の利便や趣味や自己正当化の結果として生じる煤煙が、成長過程にある小さな肺に徐々に深刻な悪影響を与えているかもしれない。その可能性を無視する薪ストーブ業界や使用者の傲慢な姿勢に、強い違和感と嫌悪感を抱きます。

なぜこの時代に、再び大気汚染を思わせる風景を見るのか。
公害の歴史を経て、私たちは何を学んだのか。

けれど、ここで声を荒らげることが目的ではありません。

私がこの論考を書いてきた理由は、誰かを責めるためではなく、「次の世代にきれいな空気を遺したい」という、ごく単純な願いからです。

空気は共有されています。
共有されているものは、次の世代にも受け渡されます。

観測は冷たい行為に見えるかもしれません。
数値は感情を持ちません。
しかし、その基盤にあるのは、「子どもたちきれいな空気の中で深く息を吸える社会であってほしい」という願いです。

冬の煤煙に煙る白い朝に立ち尽くしながら、私は思います。

空気は見えません。
だからこそ、「守る意志がなければ、簡単に損なわれます。」

この文章は、その意志の記録でもあります。