笑いながら絶望する――日本社会の“善意”という名の残虐性について

 

私は、ここ数年、ある種の社会問題に仕方なく関わってきました。

(本当はこんなこと、したくありませんでしたよ・・・)

その過程で私は、驚くべき事実に気づきました。

日本社会は、被害者の苦しみを「可視化」することを、まるで悪い趣味のように扱うのです。

 

そして、さらに驚くべきことに、被害者が苦しむ姿を見て、心の中で「かわいそうだね」と共感の言葉を言う人ほど、実際には何もしない。さらには他者の苦しみを自己の目的に利用しようとする人まで出てきます。

つまり、日本社会は「同情」と「行動」を、非常に巧妙に切り離しているのです。

 

それはまるで、上品な晩餐会で、毒入りのスープを出しながら

「あなたが苦しむのは、私のせいではありませんよ。私はただ、あなたにスープを差し出しただけですから」

と言うようなものです。

 

この社会の「善意」は、実に便利です。

何もしないための言い訳として、いつでも利用できるからです。

 

 

■第1章:政治家は“民のため”ではなく“自分のため”に動く

 

私は、政治家に何度も相談を試みました。

限界と絶望を味わいました。

そして、私はこう思いました。

政治家は、民のために動いていない。

自分の趣味嗜好実現や生活のために彼らは動いています。

それどころか、民の苦しみを“政治的資源”として利用することすらある。

 

「相談が来た」「苦情が来た」「被害者がいる」

それだけで、政治家は「仕事をした気分」になれるのです。

そして、そこに「行動」は必要ありません。

 

政治家にとって、最も重要なのは「動いた証拠」ではなく「動いたように見えること」です。

動くのは面倒です。

動くと責任が生まれます。

責任は、政治家にとって極めて不都合です。

 

ですから彼らは、問題の本質を見ない。

見たふりをする。

そして、時間を稼ぐ。

それが政治家の“得意技”です。

 

私は、こういう政治家を見て思います。

「あなた方は本当に、民のために生きているのですか?」

しかし、彼らは笑顔でこう言います。

「もちろんです。私たちは民のために働いていますよ、頑張ります」

そして、次の選挙まで、言い訳をしながら何もしないで時間を稼ぐ。

 

この社会では、政治家の“言葉”と“行動”が一致していることの方が珍しい。

一致していたら、それは奇跡です。

そして奇跡は、政治の世界では邪魔な存在です。

 

 

■第2章:行政は“規則”のために人を殺す

 

行政は、法律と規則の機械です。

人間の苦しみが、書類の上で“形式的に”処理される限り、行政は安心します。

 

被害者が苦しんでいる。

それは“実態”ではなく“事例”です。

事例は、行政にとっては数字です。

数字は、行政にとっては安全です。

 

行政は、いつでもこう言えます。

「規則に従っている」

「手続きに従っている」

「法律に基づいている」

 

そして、その言葉の裏側には、いつもこういう意味が含まれています。

「私は責任を取りません」

「私は悪くありません」

「該当する法律がありません」

 

役人は、自分が“人間”であることを、放棄することができます。法執行マシンです。

それが行政の強さであり、同時に最悪の残虐性でもあります。

 

行政は、問題の解決ではなく、問題の“処理”を得意とします。

処理するだけで、彼らは満足します。

被害者の苦しみが、書類の山の中に埋もれたなら、それで十分です。

 

 

■第3章:メディアは“炎上”を好み、“真実”を嫌う

 

メディアは、真実を報道するために存在するのではありません。

メディアは、視聴率と広告収入のために存在します。

 

被害者が苦しむ。

それはニュースになる。

しかし、ニュースになるのは“苦しみ”ではなく“ドラマ”です。

 

メディアは、被害者の痛みを“物語”に変換します。

そして、その物語を、視聴者が消費します。

視聴者は、消費したあとで、満足します。

満足したら、次の話題に移るだけです。

草原に大繁殖するバッタの大群のようです。草を食べつくしたら移動します。

 

メディアは、真実を追うふりをします。

しかし、真実は面倒です。

真実は長い。

真実は複雑です。

そして、真実は、視聴率が上がりません。

 

ですからメディアは、真実を避ける。

そして、被害者の苦しみを、短いドラマに変換する。

それで満足する。

 

この社会では、真実は“面倒な存在”として扱われます。

真実を追うことは、視聴者にとっても、メディアにとっても、政治家にとっても、非常に不都合なのです。

 

 

■第4章:教育は“無知”を育て、“責任”を捨てる

 

教育は、人を賢くするためにあるはずです。

しかし、現実の教育は、賢さを育てるのではなく、従順さを育てることが多い。

 

学校は、質問することを奨励しません。

学校は、答えを覚えることを奨励します。

そして、答えを覚えた人間は、社会に出ると、答えを求めることをやめます。

 

教育は、疑うことを許さない。

疑うことは、秩序を乱す。

秩序を乱す者は、排除される。

 

その結果、社会は“無知なまま”大人になります。

無知なまま大人になった人間は、責任を取れません。

責任を取れない人間は、被害者を見ても動けません。

 

教育は、真実を教えるのではなく、真実を“怖がる心”を教えるのです。

そして、その怖がる心が、社会の残虐性を支えます。

 

 

■第5章:企業は“利益”のために、被害者を踏みつける

 

企業は、利益を追求する存在です。

利益のためなら、倫理は後回しにできます。

利益のためなら、被害者の存在を無視できます。

 

企業は、社会にとって必要な存在だと信じられています。

しかし、その“必要性”は、しばしば“便利さ”と同義です。

便利さのためなら、人の命は犠牲にできます。

 

企業は、責任を“分割”するのが得意です。

工場は、別会社が管理する。

製品は、別会社が作る。

問題が起きたら、誰かが責任を取る。

それが企業の論理です。

 

そして、社会はそれを許します。

社会は、企業の利益を守ることを優先します。

企業の利益は、社会の“経済”として称賛されるからです。

 

つまり、企業の残虐性は、社会全体によって正当化されているのです。

社会が企業を守る限り、企業は残虐性を増幅させ続けます。

 

 

■結語:笑いながら絶望するということ

 

私は、これまでの経験から、こう結論づけました。

この日本社会は、被害者の苦しみを“軽く扱う”ことに、長けています。

 

政治家は動かない。

行政は処理する。

メディアは消費する。

教育は疑問を潰す。

企業は利益を優先する。

 

そして、社会はそれを許す。

許すどころか、称賛する。

「仕方がない」

「時代の流れ」

「個人の努力不足」

そういう言葉で、被害者を押しつぶす。

 

私は、この社会の残虐性を、笑いながら見るしかないのだと思います。

笑わなければ、絶望が深すぎるからです。

 

しかし、笑いながら絶望することは、決して無力ではありません。

笑いは、鋭い刃です。

笑いは、真実を暴くための道具です。

 

私は、これからも、笑いながらこの社会を見続けます。

そして、誰もが「笑いながら絶望する」理由を、しっかりと理解できるように、皮肉を込めた言葉を紡ぎ続けます。

 

お疲れさまでした。

 

地方議会という場所 -地方自治の名を借りた、世襲的安定装置-

 

地方議会という場所には、ときどき奇妙な人物が座っています。

彼らは議員です。名刺にもそう書いてあります。

けれど、人格まで更新されたかというと、どうも怪しい。

 

残念ないじめっ子が、そのまま大人になり、

そのまま当選し、

そのまま議会に居座る。

そんなことが、地方では普通に起きます。

 

地盤、鞄、看板。

旧家で、地主で、親の七光り。

この三点セットが揃えば、政策が空でも当選でき、議席は埋まります。

能力よりも血縁、実績よりも名字。

地方自治の名を借りた、世襲的安定装置です。

 

しかも、本当に優秀で頭の利口な人ほど、立候補などしません。

割に合わないことを、よく知っているからです。

 

本当に優秀で、状況を俯瞰できて、合理的に物事を進められる人ほど──

 

時間対効果が合わない

 

私生活が破壊される

 

感情労働と調整地獄に耐えねばならない

 

しかも成果が出る頃には選挙サイクルが来る

 

こうした計算を即座にしてしまうので、立候補しない。

これは逃げではなく、冷静な最適化です。

結果として残るのは、

「当選すること」がゴールの人たちです。

 

葉山町のような場所で起きているのは、

「バカでも当選できる」というより、

当選に必要な能力セットが、問題解決能力と無関係という現象です。

 

問題は、彼らが権限を持つことではありません。

それは、珍しい話ではありません。

そして厄介なのは、人格が更新されないまま、権限だけが付与される点です。

 

いじめっ子は、議員になっても行動原理が全く変わりません。

自分に不都合な事実は矮小化し、

都合のいい人間関係は「地域の声」として拡大する。

問題を語る人間を「面倒な人」に仕立て、

事実そのものから視線を逸らす。

 

いじめっ子が議員になると、何が起きるか。

彼らは突然「公共性」を獲得した気分になりますが、内側のOSは小中学生のままです。

同級生を殴る蹴る、嫌がらせを繰り返すなどの行動をしていた子供が、大人になったら聖人君子に変貌するということはまずありません。だから彼らの行動原理は人生を通じて一貫しています。

 

自分に不都合な事実は、

「大げさだ」

「一部の人の話だ」

「感情的だ」

とラベルを貼って縮小する。

 

自分に近い人間関係は、

「地域の声」

「昔からの事情」

と名付けて増幅する。

 

これは政治判断ではなく、いじめの戦術です。

多数派を装い、孤立させ、問題そのものではなく語る人間を劣化させる醜悪な手法です。

 

議会という場は、本来は事実と記録が支配する場所のはずなのに、

そこに持ち込まれるのが

・好き嫌い

・根回し

・空気

・あいつは面倒

だと、もう議会ではなく「拡大した教室」になります。

 

葉山町に限らず、

地方議会にはときどき 「肩書きを得たいじめっ子」 が紛れ込みます。

そして彼らは決して自覚しない。

自分は調整役だ、現実的だ、空気が読める、と本気で信じています。

 

だからなおさら質が悪い。

 

これは政治判断ではありません。

いじめの戦術です。

場所が教室から議会に変わっただけでした。

 

しかも悪いことに、叱ってくれる教師はそこにはいません。

やりたい放題というわけです。

 

 

彼らが最も嫌うものは、実は怒鳴り声ではありません。

抗議文でも、感情的な告発でもない。

静かなログです。

時系列で並んだ客観的なデータです。

それらは彼らの管理が及びませんから、否定できず、消せず、

「なかったこと」にできない可視化です。

 

だから、測って公開されると困る。

だから、定量化されると腰が引ける。

だから、「今は時期尚早だ」「どうせご近所問題だろ」と言い続ける。

 

しかし、空気は待ってくれません。

今シーズンの空気は、今しか測れない。

取り逃がしたデータは、二度と戻らない。

困るのは被害者であって、議員ではない。

ここが、彼らが決して理解しない点です。

 

人生は短く、私たちの時間には限りがあります。

だから問題解決は、効率的であるべきです。

有限な時間を、怒りの消耗にではなく、

きちんと生きることに使うために。

 

いじめっ子議員は、光を嫌います。

暗闇でしか振る舞えないからです。

光を点ける人間は、必ず嫌われる。

それは勲章のようなものです。

 

こちらはもう、そんないじめの常態化した教室にはいません。

世界と接続された場所で、

静かに、淡々と、記録を積み上げているだけです。

 

そのデータは今日も増えています。

それ以上の反論は、必要ないでしょう。

 

議員である自覚があるならば、大人の作法を守って頂きたいものです。

 

 

エシカルを語る町で、空気は誰が守るのか

 

■序章 環境の町という看板

 

葉山町では近年、「エシカル」や「SDGs」といった言葉を目にする機会が増えました。

海岸清掃、海洋環境の保全、持続可能なライフスタイル。こうした取り組みは確かに大切なものですし、多くの住民が共感するのも自然なことでしょう。

 

環境意識の高い町。

そうした印象は、外から見れば確かに魅力的に映ります。

 

ただ、そのような活動を眺めながら、どうしても一つの素朴な疑問が頭をよぎります。

 

この町で暮らす人々が、毎日吸っている空気については、誰が責任を持っているのでしょうか。

 

海の環境について語る声はよく聞きます。

ゴミ問題への関心も高い。

 

ところが、住宅地の空気の質については、驚くほど議論が聞こえてきません。

 

環境という言葉が、なぜか最も基本的な環境を避けて通っているように見えるのです。

 

少し不思議な現象と言えるでしょう。

 

 

■第1章 環境倫理の順序

 

環境を守るという行為には、本来ある種の優先順位があります。

学問の世界では、これは 環境倫理学 の議論として整理されています。

 

簡単に言えば、環境には三つの層があります。

 

第一層は、生命を維持するための環境。

空気、水、食料です。

 

第二層は、生活環境。

騒音、臭気、住環境など、日常生活の質に関わるものです。

 

第三層は、象徴的な環境。

自然保護活動、環境イベント、エシカル消費といった社会的な取り組みです。

 

倫理的な優先順位は、実はきわめて単純です。

 

空気 → 生活環境 → 象徴的環境

 

人は空気なしには生きられないからです。

 

この順序は、生物学の常識です。

 

 

■第2章 静かな逆転

 

ところが現実の政策を眺めると、この順序が静かに逆転していることがあります。

 

象徴的な環境活動は盛んに行われます。

イベントも開催されます。

町の環境意識の高さもアピールされます。

 

それ自体は悪いことではありません。

 

ただし、その一方で住宅地の生活環境――とりわけ空気の問題――が議論されないとすれば、少し考え込んでしまいます。

 

海を守る活動は目に見えます。

イベントも写真になります。

 

しかし空気は、どうもイベント向きではありません。

写真にも写りません。

 

そのためか、行政の関心もなかなか向きにくいようです。

 

空気はどうやら、広報資料に載せにくい環境らしいのです。

 

 

■第3章 空気の問題が避けられる理由

 

もう一つ理由があります。

 

海洋ゴミの問題には、特定の加害者がいません。

誰もが反対しないテーマです。

 

ところが住宅地の大気環境は違います。

 

誰かが排出し、

誰かが吸う。

 

つまり、人間同士の問題になります。

 

この瞬間から、行政は少し難しい立場に置かれます。

 

どちらかに配慮すれば、もう一方が不満を持つ。

そのため、最も簡単な解決策が選ばれることがあります。

 

何もしないことです。

 

もちろん公式にはそのようには言いません。

単に「問題として扱われない」状態が続くだけです。

 

行政の沈黙は、時として非常に雄弁です。

ただしその沈黙は、問題を増加させる方向にのみ作用するのです。

 

 

■第4章 存在するが扱われない問題

 

住宅地における薪ストーブの煙害は、日本では長く制度の外側に置かれてきました。

 

しかし近年、住宅地の薪ストーブ排出が周辺環境に影響を及ぼす可能性について、研究も少しずつ現れています。

 

住民の訴えは、単なる感情の問題ではありません。

測定可能な環境問題として扱うことができるテーマなのです。

 

それでも政策として扱われないとすれば、理由は一つです。

 

問題が存在しないからではありません。

 

扱う意思が存在しないからです。

扱うと、泥沼になるからです。

 

この違いは、実はとても大きいものです。

 

 

■第5章 環境正義という視点

 

ここで重要になるのが

環境正義

という考え方です。

 

環境の利益と負担は、公平に分配されているだろうか。

 

世界中の研究が示しているのは、残念ながら逆の現実です。

 

環境負担は多くの場合、

 

声の小さい人

立場の弱い人

少数派

 

に集中します。

 

住宅地の煙害問題も、この構図とよく似ています。

 

排出する人は一人でも、

影響を受ける人は複数です。

 

しかも、被害を訴える側のほうが社会的に孤立しやすい。

 

これは決して珍しい現象ではありません。

 

環境問題の歴史では、むしろよく見られるパターンです。

弱いものいじめですよね。

 

 

■第6章 倫理の空洞化

 

もし環境という言葉が、

 

海岸清掃

イベント

エシカル消費

 

だけを意味するようになるとすれば、それは少し寂しい話です。

 

環境倫理とは本来、

 

人間が生きる環境を守ること

 

から始まるものだからです。

 

空気は人が毎日吸うものです。

しかも、誰も避けることができません。

 

それを守る政策が存在しないまま、

 

環境の町

エシカルな町

 

という薄っぺらい看板だけが掲げられているとすれば、そこには少しだけ不思議な光景が生まれます。

 

町は環境を語る。

しかし空気は語られない。

 

どうやら空気は、会議の議題になりにくいようです。

 

 

■終章 空気は誰が守るのか

 

環境政策の出発点は、本来とても単純です。

 

人が生きる環境は守られているか。

 

もし海を守る町が、

その町に住む人の空気を守らないとすれば、

 

そこには小さくない矛盾があります。

 

この矛盾を指摘することは、環境活動を否定することではありません。

 

むしろ逆です。

 

本当に環境を守るなら、

まず空気から始めるべきだからです。

 

海は確かに大切です。

魚も大切です。

 

ただ、人間は魚より先に呼吸をします。

 

この町で、その呼吸を守る責任は、いったい誰が引き受けるのでしょうか。

 

それとも、空気は誰の担当でもないのでしょうか。

 

もしそうだとすれば、環境という言葉は、少しばかり寂しい意味を持つことになります。

 

エシカルを語る町で、

空気はまだ、誰にも守られていないのです。