「鉛の水路、毒の川、そして現代の煙──古代ローマ・足尾鉱毒・薪ストーブ問題にみる公害史の構造」
 


■プロローグ 歴史の影はいつも静かに落ちる

文明は、光と影を同時に運んできます。
それは古代ローマの石畳の上にも、明治の山里にも、そして現代の住宅街にも、変わらず落ちていく影です。人はしばしば「繁栄の象徴」と信じた技術や制度の裏側に潜む毒を見落とし、気付いたときにはすでに社会の肌理に深く染み込んでいることがあります。

鉛管水道網を誇ったローマにも、近代化の象徴として足尾に銅山を求めた日本にも、同じ盲点がありました。人々の暮らしを豊かにするはずのものが、実は静かに命を蝕んでいたという歴史は、何度も繰り返されています。
そして、過去の公害は必ずしも「大工場」や「軍事利用」といった派手な姿をしていたわけではありません。生活のなかに染み込んだ小さな毒が、市民に見えないまま積もっていた事例はいくらでもあります。

現代の薪ストーブ問題を見つめていると、私はしばしば同じパターンを思い起こします。
環境負荷は小さいと喧伝され、豊かな暮らしの象徴として語られ、行政はその言説を下支えする。けれど、実際には、微小粒子が住宅地の空気に広がり、生活圏のもっとも弱い部分から静かに蝕んでいく。これは決して過去の公害と途切れていない“同じ線の上”にあります。

ローマの鉛も、足尾の鉱毒も、そして現代の微小粒子も。
それらは「社会が見ようとしなかった影」にほかなりません。
影は、必ずしも騒がしい音を立てて迫ってくるわけではありません。大きな声も、劇的な破壊も伴いません。ただ、淡く、静かに、しかし確実に生活を侵していきます。そして、見ようとしない社会ほど、公害は長く続きます。

このエッセイでは、古代から現代まで連なる「公害という歴史の構造」をたどりながら、なぜ人々は同じ過ちを繰り返すのか、そして現代の科学技術がその影をどう照らし出そうとしているのかを見つめ直していきます。

歴史は遠い時代の物語ではありません。
いま呼吸している空気のなかにも、過去の構造が静かに息づいています。
そしてその影を見つめることで、次の一歩は必ず変わります。


■第1章 ローマ帝国の鉛管が示す「見えない毒」の構造

ローマ帝国の水道網は、しばしば文明史の輝かしい象徴として語られます。アクア・アッピアから始まる巨大な水道システムは、都市生活の衛生を向上させ、帝国の繁栄を支えた技術の結晶でした。しかし、その水を届けた配管には鉛が使われていました。鉛は加工しやすく、耐久性も高く、あの時代の「最先端」であり、合理的な選択でもありました。

ところが、後の時代になって、鉛が人体に蓄積する重金属であることがわかります。古代の記録には、鉛中毒による体調不良や奇妙な症状への言及が散発的に見られますが、それを「公害」と明確に捉えるための科学的基盤は存在しませんでした。市民は原因を知らないまま苦しみ、政治家や技術者も、鉛の利便性に目が奪われて問題を直視できなかったのです。これは近代のアスベストでも同じです。

この構造には、いま私たちが直面している問題の原型がそのまま埋め込まれています。
技術への信頼、社会の慣性、行政による正当化、そして市民が毒性を理解するための科学的手段の不足。ローマ帝国の市民は、水道という便利で誇らしい仕組みが、同時に自分たちの健康を損ねているとは想像しませんでしたし、仮に一部が気付いたとしても、帝国の巨大な制度と価値観のなかで声はかき消されました。

この「気付きにくさ」こそ、公害が長期化する根本的な理由です。
毒は目に見えず、匂いも薄く、日々の暮らしに紛れ込んでいます。目に見える壊滅的な破壊よりも、静かに蓄積する健康影響のほうが、社会ははるかに鈍感です。科学的手法が未成熟だったローマでは、なおのこと対処が遅れました。

興味深いのは、現代になってからの研究によって、当時の水道管の鉛溶出の程度や健康影響が再検証され続けている点です。科学技術の進歩は、千年以上前の都市の「影」を照らし返し、帝国の健康問題の一端を浮かび上がらせました。

ここで私が強く感じるのは、科学の発展がなければ、公害の本質は永遠に闇の中に放置されるという事実です。
ローマの市民には、私たちのように微小粒子を計測する手段も、データを可視化する技術もありませんでした。だからこそ、見えない毒は見えないまま、長い時間をかけて人々の命を蝕みつつ奪っていきました。

 

20世紀には、さらに強烈な転換点が訪れます。米国での鉛添加ガソリンの普及が、都市全域の大気を静かに汚染し、子どもたちの血液中の鉛濃度を押し上げている事実が、公衆衛生研究によって明確になりました。アリス・ハミルトンをはじめとする研究者たちが示したのは、鉛暴露と認知機能低下、発達障害との強い相関でした。大量のデータが積み重ねられ、もはや「気のせい」や「例外」では片づけられなくなった科学的事実。それは、ローマの鉛管以来ずっと続いていた「便利だからこそ放置される構造」が、近代でもなお姿を変えず残っていることを示すものでした。

「見えない毒は、人間の社会構造と結びついたとき、最も深く根を下ろす。」

ローマの鉛管は、そのことを雄弁に物語っています。そして、この構造が後の時代、公害史のあらゆる場面に繰り返し現れます。

 

次章では、その典型的な日本史の事例として足尾鉱毒事件を取り上げ、影の系譜がどのように近代国家のなかで形を変えて現れたのかを見ていきます。


■第2章 足尾鉱毒事件──近代国家の「進歩」と引き換えに沈んだ声

足尾鉱毒事件は、日本の公害史の原点として語られます。
近代化の象徴である製錬所が、同時に周辺地域の田畑と生命を静かに蝕んでいきました。古代ローマの鉛管が「便利さ」と交換に毒をもたらしたように、足尾では「国家の富」と引き換えに、農民と生活者の健康と土地が犠牲となりました。

栃木県足尾に鉱山が本格操業を始めたのは明治期のことです。
経済発展を急ぐ新政府にとって、銅の採掘は国家的事業でした。ところが、精錬過程で発生する大量の亜硫酸ガスや鉱滓は谷を下り、渡良瀬川を汚染し、遠く群馬・埼玉の田畑まで被害が及びました。稲は枯れ、桑は立ち枯れ、川の魚は姿を消し、村々の暮らしは壊れていきました。

その問題提起の中心に立った人物が、田中正造です。
彼は議会人として、さらには一市民として、国家と企業の結託構造を見抜き、被害者の声を代弁し続けました。明治政府は鉱山を「殖産興業」の象徴と捉え、加害企業である古河鉱業を事実上保護していました。農民の苦しみは政治の片隅に追いやられ、行政は問題を矮小化し、放置し続けました。果ては被害農民たちを弾圧までしたのです。

田中正造が帝国議会で述べた「真の文明は山を荒らさず、人を殺さず」という言葉は、文明の名のもとに進められる加害構造を鋭く突くものでした。しかし、議場は彼の訴えに冷たく、むしろ嘲笑さえ浴びせました。被害の実態を語る者が「文明の敵」として扱われる構造──これはローマ時代の不可視の鉛汚染と重なります。

当時の科学技術は、汚染物質の濃度を定量化するほど発達していませんでした。
だからこそ、農民たちは被害を「感覚」と「変わり果てた景色」で訴えるしかありませんでした。科学が未成熟な時代には、生活者の言葉は権力の前で簡単にかき消されます。被害者が何度訴えても、「証拠が不十分」「科学的には未解明」という方便が加害側の盾になってしまったのです。

田中正造の行動は、当時としては例外的でした。
足尾の現場に向かい、農民とともに踏査し、自らの目で確かめ、政治の場に持ち込みました。近代日本で最初に「市民科学的行動」を取った人物の一人といえるかもしれません。とはいえ、当時の科学技術では、鉱毒の挙動や濃度を体系的に解析できる段階にはなく、彼の努力は道徳的訴えとして終わらざるを得ませんでした。正造の時代に現代科学が有ったなら、解決はもっと早かったはずでした。

この事件が象徴するのは、公害が発生するたびに繰り返される典型的な構造です。

技術の進歩が加害を隠し、
行政は産業保護を優先し、
政治は被害者から目をそらし、
そして、市民は自らの体験を立証する術を持たない。

ローマの鉛管の時代とは違い、日本は近代国家であり、科学が芽生えつつある時代でした。それでもなお、生活者を救う方向に科学が使われることは少なく、むしろ「被害を立証できない」という口実のために用いられました。ここに、公害が社会に根を下ろす深い理由があります。

足尾の鉱毒は、土地の色を変え、川の命を奪い、人々の暮らしを破壊しました。
しかし、それ以上に深刻だったのは「被害者は切り捨ててよい、弾圧し沈黙させよ」という政治の姿勢、そしてその構造が今日まで形を変えて続いているという事実です。

次の章では、現代日本で同じ構造がどのように再出現しているか──薪ストーブ煙害という、いま目の前で起きている問題を通して考えていきます。


■第3章 現代の住宅街に立ちのぼる煙──薪ストーブ公害の現在地

静かな住宅街に冬の夕暮れが訪れると、どこからともなく木の焦げる異臭が漂ってくることがあります。暖かさやノスタルジーを感じる人もいるかもしれません。しかし、その香りが喉を刺し、頭痛を呼び、窓を閉めても家の中に入り込み、夜通し苦しむ人がいる現実があります。薪ストーブは“おしゃれな暖房器具”というイメージの裏側で、生活者の健康と日常を一方的に脅かす加害装置にもなり得ます。

薪ストーブの煙には、粒子状物質(PM2.5)やベンゾ[a]ピレンのような発がん性物質が含まれています。欧米の環境機関はすでに「住宅用薪暖房は主要な大気汚染源」であると指摘し、厳しい規制を設けています。ところが、日本では同じ科学的知見がありながら制度が追いついておらず、「自然派」「エコ」という誤ったイメージが先行し、問題を無視黙殺する行政府、という構図が一般的です。

加害が“見えにくい”という点が、この問題を複雑にします。煙は風や気温で流れ方が変わり、測定場所や時間によって濃度が激変します。足尾鉱毒のように、被害者は「体調の悪化」「家に入り込む臭気」「睡眠妨害」という生活上の実害を訴えますが、それを加害者側は「うちのストーブではそんなに出ていない」「気のせいでは」と逆切れしながら受け流してしまう。まるで田畑が枯れ果てても“証拠不十分”とされた明治時代の構造が、そのまま令和の住宅街に移植されたようです。

煙害を受けている側の苦しみは、実は化学的に説明がつきます。
PM2.5は肺胞まで達しやすく、体内の炎症反応を引き起こし、喘息、心血管系疾患、頭痛、倦怠感など、多様な不調につながります。とくに住宅地では、煙が低い位置を漂い、被害が局地的になります。薪ストーブユーザーは「自宅での自由」を主張しますが、煙は境界線を越えて他者の生活に侵入し、健康被害を引き起こす以上、その“自由”は他人の生活権破壊の上に成り立っています。

それにもかかわらず、日本の行政はこの問題に極めて鈍感です。
環境基準は大気全体の平均値を扱うため、局所的な高濃度汚染を捉えることが不可能な構造になっています。そのため、被害者が市区町村に相談しても「測定値に問題なし」「法令違反を確認できない」という回答が返ることが多く、事実上の放置状態になっています。

 

足尾鉱毒で行政が古河鉱業を保護したように、現代の行政は“エコ製品”として普及させてしまった薪ストーブ文化を批判せず未だに擁護し、被害者対応を全くしていないのが現状です。

本来ならば、科学や行政は弱者被害者の味方であるべきです。
しかし、ここでも科学的知見は制度や行政の不作為によって十分に活かされず、被害者は自ら困難極まる立証をすることを求められます。

「煙のせいで体調が悪い」という生活者の言葉より、「データがない」「基準値を超えていない」という形式的な判断が優先されてしまう構図は、まさに官製公害の典型です。

苦しんでいる人たちは、夜中に窓を閉め切り、空気清浄機を最大にし、それでも頭痛と息苦しさに耐えています。子どもが咳き込み、高齢者が外に出られず、洗濯物は煙で臭くなり、生活そのものがじわじわと侵食されます。これは単なる「ご近所トラブル」ではありません。文明の装いをした官製公害です。何度も言います、官製公害です。

足尾で起きた「不可視化」「過小評価」「行政の消極性」「加害者の正当化」は、薪ストーブ煙害でも全く同じ形で反復されています。違うのは、被害が農村ではなく都市や郊外住宅街で、加害源が巨大企業ではなく一般家庭だという点だけです。構造は恐ろしいほど似ています。

次の章では、こうした公害がなぜ繰り返されるのか──社会的・心理的な仕組みを掘り下げ、議論の土台を整えていきます。


■第4章 現代日本の薪ストーブ問題──「善き暮らし」の仮面がもたらす構造的歪み

 現代日本で薪ストーブが「豊かな暮らし」や「脱炭素」を象徴するアイテムとして賞賛されていることに、私は強い違和感を覚えます。もちろん、文化や暮らしの美意識を否定するつもりはありません。しかし、その美意識が科学的検証を上回り、政策形成までをも支配しはじめたとき、そこには古代ローマの鉛管や足尾鉱毒事件と同質の癒着腐敗構造が見え隠れするのです。

 薪ストーブ業界は、行政の内部にまで癌のように浸潤し、補助金制度や地域振興施策と深く結びついています。行政の計画書には「再生可能エネルギー」「カーボンニュートラル」「里山の復活」といった耳障りのよい言葉が並びますが、実態は科学的検証を欠いたロマン主義に近いものです。

 

煙害の被害者が立ち上がっても、行政はその声を「例外的事例」として片づけ、政策の前提そのものが揺らぐ場面には頑なに目を向けようとしません。

そして現地調査もせずに「この汚染は越境汚染であって薪ストーブ原因ではない。PM2.5は越境汚染で来るもので薪ストーブからは発生しない」と断定する恥ずかしい科学的知見を持った議会答弁をしてしまう首長までいる始末には、さすがに恐れ入るものがあります。

この構造は、加害主体と行政が結託して問題を覆い隠すという、古代ローマの鉛管水道でも、足尾鉱毒事件でも繰り返されてきた歴史の縮図です。ローマ市民は鉛による健康被害を「自然の衰え」と誤認し、足尾の農民たちの訴えは「文明の進歩を妨げる」と退けられました。現代日本でも同じように、薪ストーブの煙害は「古い家の問題」「被害者の神経質さ」と扱われ、科学的議論にすら到達しないことがあります。

 本来であれば、現在の科学技術をもってすれば、煙の成分や大気中の挙動、曝露による健康影響を定量的に把握することは難しくありません。微小粒子、揮発性有機化合物、燃焼の不完全性──こうした要素は既に膨大な学術研究の蓄積があります。それにもかかわらず、日本のバイオマス政策過程は「科学の存在」をあたかも意図的にスキップし、イメージと情緒だけで推進されてきました。

 私は、この状況を単純な「理解不足」として片づけることはできないと考えています。むしろ、行政と業界の結合が強固であるために、市民が提示するデータセットや実測値は、その構造にとって都合の悪い「異物」として扱われてしまうのです。社会構造の中で不都合な事実は、しばしば事実そのものではなく、語る者の側が「排除すべき存在」として扱われます。田中正造が「狂人」と呼ばれた歴史を思い出すと、その構造の根深さを痛感します。

 しかし、歴史を振り返れば、こうした構造的な公害隠蔽の時代は永続しませんでした。ローマの鉛管は衰退とともに歴史の表面に露出し、足尾の問題も最終的には社会全体の理解に達しました。現代はさらに、科学技術と市民科学がデータを迅速に可視化できる時代です。構造の壁は厚くとも、事実の蓄積は必ず社会の認識を変えていきます。その変化はゆっくりかもしれませんが、歴史が示すとおり、不可避の流れでもあります。

 私は、この論考を通じて、問題の本質が「暮らしの選択」の争いではなく、科学的事実と構造的偏向の衝突にあることを示したいと思っています。煙は人の心理を惑わせませんが、社会構造は人の視界を容易に曇らせます。その曇りを拭い去るために、歴史の記憶と科学の眼を重ねる作業は、今の日本にこそ必要だと感じています。


■エピローグ 過去の影と未来の光のあいだで

 古代ローマの鉛管は、時間の堆積の中で静かに崩れ、足尾銅山の荒れ果てた渓谷には、いま草木が戻りつつあります。公害の歴史は、加害と被害、権力と沈黙、技術の進歩と無知の暗闘が幾重にも折り重なった、人間社会の鏡のようなものだと感じます。そして、その鏡に映るものは時代が変わっても驚くほど似通っています。行政と産業が結びつき、問題が過少評価され、市民の声が押し流される。この構図は、文明の成り立ちそのものに染みついた宿痾のようでもあります。

 しかし、人間社会が抱える矛盾は、同時に改善の余地そのものでもあります。歴史は、隠蔽された事実や押し殺された声が永遠に消えることはないということも示しています。どれほど巨大な構造の中に埋もれたとしても、事実は必ず再浮上し、いつか社会の考え方を変えていきます。鉛中毒を指摘したローマの知識人も、命を削って国会に乗り込んだ田中正造も、彼らが投げかけた問いは時代を越えて現代の私たちに届いています。

 現代の薪ストーブ問題もまた、その延長線上にあると私は考えています。煙の粒子は目に見えなくとも、測定機器はそれを確実に捉えます。

微粒子だけでなく、VOCやNoXも、安価で小さな測定機器で容易にリアルタイムで数値化できるのです。

 

行政が見ようとしなくても、データは現実を裏切りません。科学は、権威や情緒よりも冷ややかで、それゆえに誠実です。私は、この誠実さに支えられながら、静かに問題の構造を照らし続けたいと思っています。

 市民科学はときに誤解され、しばしば孤独を伴います。しかし、孤独は決して無力とは限りません。歴史のなかで社会の変化をもたらしたのは、群衆の熱狂よりも、根気強く事実を積み重ねた人々でした。焦らず、逸らず、淡々と歩む者だけが見つけられる真実があります。私自身、その道の途中にいます。長い時間のなかで、いま見えている事象の輪郭がやがて鮮明になると信じています。

 公害史の積み重ねが示すのは、人間の愚かさだけでなく、人間の学習能力でもあります。社会は一度では変わりませんが、放っておけば永遠に変わらないわけでもありません。歴史の大河を眺めれば、時間という見えざる力が、いつも少しずつ正しい方向へと働いていることに気づきます。その流れの一端に、私もまた微かに触れているのだと思うと、胸の奥に静かで温かな確信が灯ります。

 過去の教訓は、未来の選択を照らす灯火です。ローマ帝国の鉛の影も、足尾の荒廃も、今日の薪ストーブ問題も、同じ一本の線でつながっています。その線の上に立ちながら、私はこれからも科学と歴史を手がかりに、社会の構造を見つめ続けていきたいと思います。変化の兆しは、たとえ目立たなくとも、すでに空気のどこかで揺らぎはじめているはずです。

 

薪ストーブ煙害と食中毒対応の比較から見える行政不作為

――公衆衛生における「予防原則」はなぜ適用されないのか

■序章 なぜ食中毒と薪ストーブ煙害を比較するのか

本稿では、薪ストーブ使用に伴う住宅地での煙害問題を、公衆衛生行政が日常的に対応している「食中毒」と比較することで、現在の行政対応に内在する論理的矛盾を検討します。
この比較は感情的な比喩ではありません。どちらも「環境中の因子が人の健康に影響を与える」という点で、同一の公衆衛生リスクに分類される事象です。

食中毒は、患者が一人であっても保健所が即時介入します。一方、薪ストーブ煙害は、呼吸器症状や生活障害が生じていても「苦情件数が少ない」という意味不明な理由で全く対応されません。
この差はどこから生じるのでしょうか。


■第1章 食中毒対応における公衆衛生の基本原則

食中毒対応の根拠は、個別の重症度ではなく「リスクの性質」にあります。

厚生労働省は、食中毒を「患者数の多寡にかかわらず、再発・拡大の可能性がある健康被害」と定義し、速やかな調査と原因究明を求めています。
これは、**予防原則(precautionary principle)**に基づく対応です。

予防原則とは、因果関係が完全に証明されていなくても、合理的な健康リスクが示唆される場合には、被害拡大を防ぐ行動を優先する考え方です。
この原則は、世界保健機関(WHO)や欧州連合(EU)の公衆衛生政策でも明確に採用されています。


■第2章 薪ストーブ煙害の健康影響に関する科学的知見

薪ストーブから排出される煙には、PM2.5、一酸化炭素、多環芳香族炭化水素(PAHs)などが含まれます。
これらは、呼吸器疾患、循環器疾患、さらには死亡率上昇との関連が、多数の疫学研究で示されています。

特にPM2.5は、安全な閾値が存在しないとされ、低濃度であっても健康影響が認められています。
屋外大気汚染による健康被害は、世界的に主要な死亡要因の一つと位置づけられています。


■第3章 両者に共通するリスク構造

食中毒と薪ストーブ煙害には、以下の共通点があります。

・原因物質が感覚的に捉えにくい
・個人差が大きく、症状が多様
・曝露が反復・継続する可能性がある
・被害が過小評価されやすい

食中毒では、これらの性質を理由に「早期介入」が正当化されています。
一方、薪ストーブ煙害では、同じ性質を持ちながら「無視」が選択されています。

この違いは、科学的合理性では説明できません。


■第4章 「苦情件数」という指標の不適切性

行政が薪ストーブ煙害対応を見送る際に用いる「苦情件数が少ない」という論拠は、公衆衛生の観点から大きな問題があります。

健康被害の訴えは、
・被害者が原因に気づいていない
・声を上げること自体が負担
・近隣関係への配慮から沈黙する

といった理由で、実態より少なく表出することが知られています。

食中毒では、この「申告バイアス」を前提に制度設計がなされています。
薪ストーブ煙害だけが例外である合理的理由は見当たりません。


■第5章 観測の必要性と行政の役割

食中毒対応において、保健所はまず事実確認と検体採取を行います。
同様に、薪ストーブ煙害では環境測定が初動として不可欠です。

観測は、即時の解決を保証するものではありません。
しかし、
・原因の切り分け
・冤罪の防止
・政策判断の基礎資料
として不可欠な行為です。

行政府が観測を行わずに「判断できない」とすることは、科学的手続きを放棄することに等しいと言えます。


■第6章 国内自治体における実際の答弁と対応の乖離

薪ストーブ煙害に関する自治体の対応を確認すると、多くの場合、次のような答弁が見られます。

「苦情件数が少ないため、現時点では調査の必要性は認められない」
「個人間の問題であり、行政が介入する案件ではない」
「法令に基づく基準超過が確認されていない」

これらの答弁は、一見すると慎重で中立的に見えます。しかし、食中毒や悪臭、公害に対する従来の行政対応と比較すると、著しい不整合が存在します。

例えば、食中毒では原因食品が特定されていない段階でも、聞き取り調査や立入調査が実施されます。
また、悪臭防止法に基づく苦情対応では、数件の申告であっても現地確認が行われることが一般的です。

薪ストーブ煙害のみが、
「件数が少ない」
「証拠がない」
という理由で調査対象外とされる合理的根拠は、制度上明確ではありません。

このことは、行政が科学的リスクの有無ではなく、「扱いやすさ」によって対応の有無を決めている可能性を示唆します。

 

■第7章 国内研究にみる薪ストーブ由来PM2.5の位置づけ

薪ストーブ煙害について、「日本では科学的知見が不足している」との指摘がなされることがあります。
しかし、これもまた正確ではありません。

国内でも、木質バイオマス燃焼がPM2.5の発生源であることは、環境省や研究機関の調査で繰り返し示されています。
特に冬季における局地的なPM2.5上昇と、住宅用燃焼の関連は複数の研究で指摘されています。

また、PM2.5の健康影響については、国内外で知見が一致しており、「屋外由来であっても室内に侵入し、健康影響を及ぼす」ことが確認されています。

重要なのは、薪ストーブ煙害が「新しい問題」ではなく、既存の大気汚染問題の一部であるという点です。
未知だから対応できないのではなく、既知であるがゆえに対応が求められる領域に属しています。

 

■第8章 「財産権」を理由とする不作為の法的問題点

薪ストーブ煙害に対し、行政が最終的に持ち出す論拠として、「財産権の保護」があります。
すなわち、薪ストーブは個人の所有物であり、使用制限は困難である、という荒唐無稽かつ意味不明な主張です。

しかし、日本国憲法第29条は、財産権が公共の福祉に適合するように制約され得ることを明記しています。
実際、建築基準法、消防法、悪臭防止法など、多くの法令が財産権に制限を加えています。

食中毒の原因となる飲食店設備も、事業者の財産ですが、営業停止や改善命令が発せられます。
これは、健康被害の防止が財産権より優先されるという、社会的合意に基づくものです。

薪ストーブ煙害において財産権のみを理由に調査や介入を拒むことは、法理として一貫性を欠きます。
問題は「規制できない」ことではなく、「規制する意思を持たない」ことの言い訳にあると解釈する余地があります。


■第9章 自治体答弁にみる「不作為」の定型パターン

薪ストーブ煙害に関する自治体の公式答弁を整理すると、いくつかの共通した定型表現が確認できます。

代表的なものとして、
「苦情件数が一桁であるため、調査対象とはしていない」
「客観的データがないため、行政として判断できない」
「近隣住民間のトラブルであり、民事的解決が望ましい」
といった説明が挙げられます。

これらの答弁は一見合理的に見えますが、注意すべき点があります。
これらはすべて、「調査を実施しない理由」であって、「問題が存在しない理由」ではありません。

つまり、
調査しない → データがない → 判断できない → 何もしない
という狂気じみた循環構造が成立しています。

この構造は、行政が中立を保っているのではなく、不作為を制度化している状態と解釈することが可能です。
少なくとも、科学的な不確実性を理由に調査自体を拒否する姿勢は、予防原則とは整合しません。
 

 

■第10章 環境基本法と予防原則との整合性

日本の環境政策の基本理念は、環境基本法に明記されています。
同法では、環境への負荷が人の健康や生活環境に影響を及ぼすおそれがある場合、その発生の未然防止が図られるべきであるとされています。

重要なのは、「被害が確定してから対応する」とは書かれていない点です。
むしろ、影響の可能性がある段階での対応、すなわち予防的対応が求められています。

PM2.5の健康影響については、すでに国内外で十分な科学的知見が蓄積されています。
また、木質バイオマス燃焼がPM2.5の発生源であることも、否定されていません。

それにもかかわらず、
「確定的因果関係が示されていない」
「測定データが存在しない」
という理由で行政対応を行わないことは、環境基本法の理念と緊張関係にあります。

ここで必要なのは、規制か否かの議論以前に、事実確認としての観測です。
観測は規制ではなく、行政の責務の出発点に過ぎません。


■第11章 行政法における「不作為」と健康被害の位置づけ

行政法において、「不作為」とは、行政が法令上期待される行為を行わないことを指します。
これは、積極的な違法行為だけでなく、何もしないことによって生じる問題も含みます。

薪ストーブ煙害の事例において、
・健康被害の訴えが存在する
・既知の有害物質(PM2.5)が関与している可能性がある
・測定手段が技術的に利用可能である

という条件が揃っているにもかかわらず、
行政が一切の観測や現地確認を行わない場合、それは単なる慎重姿勢ではなく、意図的な不作為と評価されます。

特に、呼吸器症状や生活への支障が継続的に報告されている状況では、
「苦情件数が少ない」という理由のみで対応を見送る合理性はありません。

不作為は目に見えにくく、責任の所在も曖昧になりがちです。
しかし、後年になって記録が検証されたとき、「なぜ何もしなかったのか」という問いは必ず発生します。

そのとき、観測記録の不存在は、問題の不存在を意味しません。
それは単に、「確認しなかった」という事実を示すだけです。

 

 

■終章 なぜこの問題は放置されるのか

本稿で示した比較から明らかなのは、薪ストーブ煙害が食中毒より軽微だから放置されているのではない、という点です。
むしろ、生活環境由来の慢性曝露という扱いにくさが、行政の対応を遅らせている可能性が示唆されます。

しかし、公衆衛生の原則は「扱いにくいから無視してよい」ものではありません。
食中毒で当然とされている対応を、同じ健康被害に対して適用しないことは、制度の整合性を欠きます。

観測と記録は、感情ではなく事実を社会に残す行為です。
それは、今すぐの解決に至らなくとも、将来の判断を誤らせないための最低条件です。


観測は、規制そのものではありません。
観測は、事実を知るための最低限の行為です。

それすら行われない状況は、行政が問題の不存在を前提に行動していることを意味します。
しかし、健康被害の訴えが存在する以上、「存在しないと仮定する」こと自体が非科学的です。

観測を行わないという選択は、中立ではありません。
それは現状維持、すなわち被害が継続する側に立つ判断です。

 

 

町内会における薪ストーブ多重加害の構造

 

筆者は南関東にあるk町内会のサイトの記述を読んで、以下の論考を書いてみました。看過する訳にはいかないと判断したのです。

 

 

■第一章 導入──煙の向こうの共同体

 

k町内会ブログには、「薪ストーブは環境にやさしい」「炭素中立である」といった記述が並びます。これらは一見、善意に基づく地域情報の共有のように見えますが、実際には誤った科学情報の流布によって被害者をさらに追い詰める構造を内包しています。

 

住宅が密集するこのk地域では、薪の燃焼により微小粒子状物質(PM2.5)や多環芳香族炭化水素(PAH)が発生し、周辺住民の健康被害が起こる可能性があります〔注1〕。しかし町内会の公式サイトは、その科学的実態を無視し、薪ストーブを「癒やし」や「持続可能性」といった感情的価値で包み込み、被害の訴えを“空気を読まない”ものとして封じ込めています。

 

〔注1〕日本環境省「微小粒子状物質の健康影響評価検討会報告書」(2016年)。

 

 

■第二章 誤情報の共有が生む「善意の暴力」

 

この町内会ブログの文章は、専門家による検証を経ていません。それにもかかわらず「薪ストーブはCO2を排出しない」「健康に悪影響はない」と断言し、読者に安心感を与える形で拡散されています。これは典型的な善意による誤情報の拡散です。

 

社会心理学的に見ると、このような現象は「集団同調性バイアス」と呼ばれます〔注2〕。人々は、専門的知識よりも共同体内部の信頼を重視し、科学的根拠を軽視する傾向にあります。結果として、被害を訴える住民は「場を乱す存在」として排除される。これが、町内会における“多重加害”の第一層です。

 

〔注2〕Asch, S. E. (1956). Studies of independence and conformity: A minority of one against a unanimous majority. Psychological Monographs, 70(9).

 

 

■第三章 無意識の共犯──「癒やし」言説の裏側

 

「炎のある暮らし」「心の豊かさ」といった言葉がブログ中で繰り返されます。これは単なる情緒表現ではなく、認知的不協和の回避として機能しています。

薪ストーブの使用が他者を傷つけている可能性を認めると、自己正当化の根拠が崩れるため、人はその現実を否認し、むしろ「良い行為」として再定義します。

 

この心理的メカニズムは、環境社会学では「ナラティブ・ディフェンス(語りによる防衛)」として知られています。つまり「私は温厚で自然を愛しているから悪くない」「煙は昔ながらの文化だ」という語りが、無自覚な共犯関係を形成していくのです。ここに、被害の訴えを聞かない“日常的暴力”が潜みます。

 

 

■第四章 情報の非対称性と沈黙の制度化

 

この町内会の情報発信は、一方向的であり、住民が反論できる仕組みが存在しません。会長・副会長など限られた執筆者が「代表」の名のもとに情報を恣意的に固定化し、異論を封じる構造が形成されています。

 

この構造は、社会学者ヨハン・ガルトゥングの提唱する**構造的暴力(structural violence)**に相当します〔注3〕。暴力とは直接的な攻撃だけでなく、発言機会を奪う制度や慣習の中にも存在します。被害者が声を上げられない沈黙の場が、もっとも陰湿な暴力の形です。

 

〔注3〕Galtung, J. (1969). Violence, Peace, and Peace Research. Journal of Peace Research, 6(3), 167–191.

 

 

■第五章 欧米における同種事例との比較

 

欧米では、薪ストーブをめぐる住民対立はしばしば訴訟にまで発展しています。たとえばオーストラリアのタスマニア州では、薪煙被害に関する地域紛争が社会問題化し、州政府が「薪煙苦情専用ホットライン」を設けました〔注4〕。

またカナダ・ブリティッシュコロンビア州では、自治体が「薪煙による健康被害を認めた」うえで、旧型ストーブの撤去を補助しています。

 

これらの国々でも、初期には「薪はエコ」「伝統文化」という言説が支配的でした。しかし、被害者が科学的データを示し、行政とメディアを動かすことで、ようやく“地域の沈黙”が破られました。日本の町内会における閉鎖的構造は、情報の更新を拒む文化的保守性という点で、まさに同根の問題を抱えています。

 

〔注4〕Tasmanian Department of Health, Wood Heater Smoke and Health, 2019.

 

 

■第六章 結語──沈黙の中の倫理

 

k町内会に見られる構造は、単なる誤情報ではなく、「共同体という名の安心感」がもたらす倫理的空白の問題です。誰も悪意を持たず、しかし結果として弱者を追い詰める。これが多重加害の本質です。

 

被害者は科学的根拠をもって訴えても、「場の空気」によって退けられる。そこでは科学よりも同調、真実よりも平穏が優先されます。しかし、真の平穏は事実の共有と誤りの訂正からしか生まれません。

 

小さな町内会での心無い一文が、何人もの住民の健康を損ない、小さな声を封じることがある。だからこそ、地域社会の倫理とは、声なき者に耳を傾ける勇気に他なりません。

 

 

■参考文献(抜粋)

 

1. 環境省(2016)『微小粒子状物質(PM2.5)の健康影響評価検討会報告書』

 

2. Asch, S. E. (1956). Studies of independence and conformity. Psychological Monographs, 70(9).

 

3. Galtung, J. (1969). Violence, Peace, and Peace Research. Journal of Peace Research, 6(3).

 

4. Tasmanian Department of Health (2019). Wood Heater Smoke and Health.

 

5. British Columbia Ministry of Environment (2021). Wood Smoke Education and Reduction Program.