本日、大阪城公園に友人といってきました。少しはやくついたので、
壁画を見ていました。そこに、司馬遼太郎の文章が書かれているこ
とに、初めて気づきました。太古の大阪から1984年までの時代を
司馬遼太郎がその哲学と愛情を持って書いた素晴らしい大阪賛歌で
した。ぜひ、読んで大阪を考えてほしいです。

下記より、文章 司馬遼太郎。

おごそかなことに、地もまたうごく。
私どもは、思うことができる。この駅に立てば、台地の
かなたに渚があったことを。遠い光のなかで波がうち
よせ、漁人(いさりびと)が網を打ち、浜の女(め)ら
が藻塩(もしお)を焼いていたことども。秋の夜、森の
上の星だけが、遙かな光年のなかで思い出している。

夏、駅舎の前の森の露草の花の青さにおどろくとき、ま
たたきの間(ま)でも茅渟(ちぬ)の海を思いかさねても
らえまいか。
ひたにこのあたりまで満ちていたことを。

目の前の台地は島根のごとくせりあがり、まわりを淡水
(まみず)が音をたてて流れ、大和や近江の玉砂を運び、
やがては海を浅め、水が葦(あし)を飼い、葦が土砂を
溜めつつ、やがては州(しま)になりはててゆく姿は、た
れの目にもうかぶことができる。

八十(やそ)の州(しま)
それがいまの大阪の市街であることを。冬の日、この駅
から職場へいそぐ赤いポシェットの乙女らの心にふとか
すめるに違いない。創世の若さ、なんと年老いざる土
(くに)であることか。

私どもは、津の国にいる。
津、水門(みなと)、湊、港。私どもは、古き津の風防ぎ
する台上にいる。

台地は海鼠形(なまこがた)をなし、方正にも北から南に
よこたわり、南端の岩盤に四天王寺が建った日のことを、
炎(ほのお)だつ陽炎のなかで思っている。輪奐(りんか
ん)が海に輝いたとき、遠(とおつ)國々の舶(ふね)
が帆をななめにして松屋町筋の白沙に近づき、この駅舎
のあたりの入江のいずれかへ石の碇(いかり)を沈め、
内典(ないてん)・外典(げてん)の書籍を積みおろした
にちがいない。思想の書、詩の書、工芸の書。・・・も
し若者が、駅舎のベンチの何番目かに腰をおろし、ひざに
書物を置いて空を見あげたとき、櫂(かい)で描(えが)
いたような飛行機雲があらわれるとすれば、その舶が曳
きつづけてきた航跡であるとおもっていいのではないか。


さらには、評価の街でもあった。物の見方、物の質、物の
値段・・・多様な具象物(ぐしょうぶつつ)が数字とし
抽象化されてゆくとき、ひとびとの心に非條理の情念が消
え、人文科学としか言いようのない思想が萌芽した。さら
には自然科学もこの地で芽生える一方、人の世のわりなき
こと、恋のつらさ、人の情の頼もしさ、はかなさが、こと
ばの芸術をうみ、歌舞音曲を育て、ひとびとの心を満たし
た。

右の二世紀半、ひとびとは巨大なシャボン玉のなかにいた。
あるいは六十余州だけがべつの内圧のなかにいた。数隻の
蒸気船の到来によって破れ、ただの地球の気圧と均等(ひ
としなみ)になったとき、暴風がおこった。

この城は、ふたたび情勢の中心となり、政府軍が篭もり、
淀川十三里のかなたの京の新勢力と対峙(たいじ)した。
ついには、やぶれた。二度目の落城であり、二度ともやぶ
れる

ことによって歴史が旋回した。この神秘さを感ずるとき、
城はただの構造物から人格になっていると感じてもよいの
ではないか。

その地に居ることは、その運命とかかわる。この城が六十
余州の中央に在ることで、好まざる運命を背負わされた。
薩南の暴発にそなえるために、城のまわりに火砲の鋳造所
が置かれた。

やがて、首都を頭脳とする日本國が、十九世紀の欧州の膨
張主義を妄想しはじめるとともに、この場所の設備も拡大
され、やがて共同妄想が業火とともに燃えおちた日、の城
のまわりの鉄という鉄が熔け、人という人が鬼籍に入った。
城は三度目の業火を見た。

悲しみは、この街に似合わない。

ただ、思うべきである。とくに春、この駅に立ち、風に乗
る万緑の芽の香に包まれるとき、ひそかに、石垣をとりま
く樹々の発しつづける多重な信号を感應すべきであろう。
その感應があるかぎり、この駅に立つひとびとはすでに祝
われてある。日日のいのち満ち、誤りあることが、決して
ない。