55.3 「青」信号は “blue” lightではない(1)



敗戦後10年経って(1955年)、企業も復活し、社員は英語を使って仕事をすることになったり、学界も研究者は英語を使って発表する必要が高まってきたのに、日本の英語教育は相も変らぬ「読む」「訳す」中心の授業、音声面を無視した、そして英文法を偏重した授業が続いているのに不満を持っていた、麻布の国際文化会館理事長の松本重治氏、東大名誉教授の高木八尺氏(国際政治史)、東大文学部教授の中島文雄先生(英語学)、東京教育大学教授の黒田巍(たかし)先生などが英語教育改革の協議会を作られ、事のはじめに、まず戦時中に米国で中国語教育、スペイン語教育、タガログ語教育、敵国語であった日本語の教育を、軍人(いわゆる語学将校)に実施した米国大学教授2、3人を招いて助言を得たい、ということになり、1956年(昭和31年)に、ミシガン大学のC.C.Fries教授、ブラウン大学のW.E.Twadell教授などが招聘されたのである。

そして英語教育専門家会議や講演会がもたれたのであった。こうした動きは、ラジオや新聞(当時はまだテレビは存在していなかったのである)。しかし私などは、大学を出たばかりの若僧には雲の上の話しと思っていたのに、思いもかけず、滞在中の先に挙げた「C.C.Fries教授が助手を必要としているので、研究員として補佐してあげて下さい」と中島文雄先生からお声がかかって、はからずも私にとっては光栄な大役をおおせつかったのである。(続)