レイモンド・チャンドラー『プレイバック』 | 文学どうでしょう

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レイモンド・チャンドラー(村上春樹訳)『プレイバック』(ハヤカワ・ミステリ文庫)を読みました。

 

このブログを以前よく書いていた時(もう8~9年前になりますか)、村上春樹によるチャンドラーの私立探偵フィリップ・マーロウものの翻訳はまだ刊行途中で、とりわけ話題を集めた『ロング・グッドバイ』は文庫で読んで紹介しましたが、『大いなる眠り』は、その時はまだ単行本しかなかったと思います。

 

紹介できたのはその2作品で、(たしか他の作品も読みかけてはいたような気がしますが)久しぶりに、今はどのくらい翻訳が進んでいるのかを調べたら、今では長編7作品がすべて翻訳され終わっていて、しかも文庫化も既にされていたので、おお、時の流れ……となりました。

 

この間、『宿敵』で紹介したリー・チャイルドの翻訳を全部読み終わってしまったので、ハードボイルド、しかもマーロウのやつをなにか読もうと思って、あんまり意識せずに手に取ったのが、今回紹介する『プレイバック』という作品。

 

ただ、意識しなさすぎてちょっとあれでしたね。これ長編7作品の最後の作品でした。(だからなんだってこともないのですが)これが実質的なチャンドラーの遺作で、後は書きかけの原稿を『初秋』などで有名なハードボイルド作家ロバート・B・パーカーが書き継いで、『プードル・スプリングス物語』として刊行されているようです。

 

特に『ロング・グッドバイ』がそうなのですが、私立探偵フィリップ・マーロウの出てくる小説にはいくつか有名なセリフがあって、村上春樹の訳者あとがき風に言えば「パンチライン」ですが、もしかしたらこの『プレイバック』のセリフが一番有名かもしれません。

 

「タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格がない/If I wasn’t hard, I wouldn’t be alive. If I couldn’t ever be gentle, I wouldn’t deserve to be alive」(319~320頁、訳者あとがき参照)

 

新訳となると、当然、この部分をどんな風に訳すかが着目されるわけで、訳者あとがきでは、以前の翻訳家がどんな風に訳してきたか、そして村上春樹がどんな風な気持ちで訳したかが詳細に書かれていて、なるほどなあと思いました。

 

訳者あとがきで、「さて、僕がどう訳したか……これはどうか本文を読んでください。第二十五章に出てきます」(321頁)とあるくらいなのでここでも紹介は避けますけれど、あえて目立ったパンチライン風ではない、全体に溶け込む感じで訳されています。

 

作品のあらすじ

 

私立探偵をしている〈私〉フィリップ・マーロウの所に、弁護士のクライド・アムニーと名乗る男から奇妙な依頼の電話がかかってきました。列車で到着する予定の若い女を駅から尾行して、行き先を報告してほしいというのです。

 

やがて訪ねてきたアムニーの秘書から、報酬の前渡し二百五十ドルと必要経費分の二枚の小切手、そして目標となる若い女の写真を受け取りました。写真の裏には女の情報がタイプされています。エレノア・キング。おおよそ29歳。黒みを帯びた赤毛。

 

29歳でこれほどの美人なら普通なら結婚しているはずで、結婚指輪あるいはそれ以外の宝石の情報がないのは妙だと〈私〉は言います。しかし、秘書からはそれ以上の情報は与えられなかったのでした。

 

やがて駅に向かい、女を見つけ、コーヒーショップに入った女を観察する〈私〉。女は現れた男から、なにか新聞の切り抜きのような紙片を見せられ、絡まれている様子でした。困っているけれど、無下には突き放せないというような。

 

タクシーに乗った女を追跡する〈私〉は、海辺の町エスメラルダへと向かいます。ホテルで女の隣の部屋を取った〈私〉は、ウォール・ヒーターの熱電球を抜き取り、聴診器を使って女の電話を盗み聞きました。

 

女は「ベティー・メイフィールド」と名乗り、ラリー・ミッチェルという男を呼び出します。ミッチェルは駅でベティーに絡んでいた男で、電車でベティーを見た時に誰だか気付き、新聞社に正体をばらされたくなければ自分の言うことを聞き、金をよこせとゆすりに来たようです。

 

ミッチェルが去った後、〈私〉は女に直接会いに行きました。自分がわけの分からない状況に巻き込まれて、誰かからカモにされているような気がしたから。続けざまに厄介な男が現れて警戒しているベティーは、脇に持った小型の自動拳銃を見せました。

 

 私はそれを見た。「ああ、拳銃か」と私は言った。「私を銃で脅すことはできないよ。なにしろこれまでの人生を銃と共に生きてきたようなものだからね。デリンジャー拳銃をおしゃぶりがわりにして育った。(中略)一度スコープなしで、八百メートルほど離れた的の真ん中を撃ち抜いたことがある。知っているかどうか知らないが、八百メートルも離れると、的全体が郵便切手くらいの大きさにしか見えないんだ」
「素敵な育ち方だこと」と彼女は言った。
「銃ではなにごとも解決しない」と私は言った。「銃というのは、出来の悪い第二幕を早く切り上げるためのカーテンのようなものだ」(51~52頁)

 

その後、思わぬ展開によって、ベティーとミッチェルの行方を一時見失ってしまった〈私〉は、自分以外にもカンザスから来た私立探偵が二人を追っていることに気付きます。それは一体何故なのか? 自分は一体何に巻き込まれているのか?

 

自分の知らないところで物事が動いているのが気に入らない〈私〉は、「私が求めているのは背景にあるものごとです。あの娘はいったい誰なのです?」(77頁)と電話で、依頼主アムニーにベティーやベティーに関する詳しい情報を求めますが、納得のいく説明は得られません。

 

やがて、二人がどこへ向かったかの推理を元に、ダンスフロアにいるベティーとミッチェルを見つけた〈私〉。執拗に抱きつこうとするミッチェルにベティーは膝を使って抵抗し、怒ったミッチェルはベティーに平手打ちをくらわせます。

 

するとベティーは、店全体に聞こえるような声で、「今度そういうことをするときにはね、ミスタ・ミッチェル、防弾チョッキを着てきた方がいいわよ」(88頁)と言ったのでした。

 

ベティーとミッチェルが揉めているのを目撃した日の夜、午前三時。〈私〉のホテルの部屋のドアが軽く、しかし執拗にノックされます。一発発射されたらしき拳銃を手に訪ねてきたベティーは、五千ドル分の小切手で、自分のためにどんなことをしてくれるかと尋ねます。

 

泊まっていたホテルの十二階にある自分の部屋で眠っていたベティーは、物音で目を覚まし、バルコニーにある寝椅子でミッチェルが死んでいることに気付いたと言うのでした。自分は殺していないが、警察は信じてくれないだろうと。

 

ホテルは断崖に立っていて、今はおおよそ満潮。バルコニーはその上に乗り出しているとベティーは言い、〈私〉は、自分が死体を始末するのを助けると本気で思うほど愚かなのだろうか? と思いながら、出かける支度をします。

 

ベティーはロビーからエレベーターで、〈私〉は非常階段を使ってホテルの部屋へ向かいます。先に部屋に着いたベティーの様子はどこか妙でした。睡眠薬を二錠飲んだと言うのです。もうすべてがどうでもいいような様子でした。

 

〈私〉はバルコニーを調べますが、寝椅子にミッチェルの死体はありません。床や壁に血がついていないか探しますが、それもなく、また、何かがひきずられた形跡も残されていません。ベティーは嘘を言ったのか?

 

ホテルから姿を消したミッチェルの行方を追う〈私〉ですが……。はたして、〈私〉は謎めいたベティーに隠された真実、そして事件の背景にあるものを突き止めることはできるのか!?

 

というお話です。わけの分からない状況にただひたすら巻き込まれて右往左往する、読んでいる時のなんとなくこう、もやもやした感じは、この作品のプロット(物語の構成)の弱さとも言えて、そこが人気を左右する部分です。

 

つまり、マーロウものの長編七作品の中でも、この『プレイバック』はあまり人気作とは言えないのですが、そうした、状況がつかめないもやもやした感じは、ハードボイルド小説ならではという感じもあって、ぼくは嫌いじゃなかったです。

 

今回紹介した『プレイバック』は、前述した通り、マーロウものの長編最後の作品なのですが、物語の最後の方(映画でたとえるならエンドロール的なところで)で、幻となった第八作目への意外な伏線が貼られています。

 

それは一部分にせよ『プードル・スプリングス物語』として読めるわけですが、チャンドラーがその伏線をどうするつもりだったのか、かなり気になりました。結末は違う人が書いているので、チャンドラーの意図通りになっているかは分からないですけど、『プードル・スプリングス物語』もいつか読んでみたいです。